海産巻貝類における内分泌攪乱現象 〜特徴,原因物質,野外での実態とその誘導・発現メカニズムを巡る仮説〜
研究ノート
堀口 敏宏
海産巻貝類において,インポセックス(imposex)と呼ばれる雌の雄性化現象が日本を含む世界各地から報告され,知られている。インポセックスは,環境ホルモンによる野生生物の生殖に関する異常の一例としても広く知られている。インポセックスとは,海産巻貝類の雌に雄の生殖器であるペニスや輸精管が形成されて発達する現象であり,ペニスや輸精管を持つ雌の巻貝を指すこともある。インポセックスは生殖器に関する形態異常であるばかりでなく,重症の場合には産卵能力の著しい低下や喪失も伴う。すなわち,雌が雌としての機能を失うことをも意味する。インポセックスに伴う産卵障害の様式として,現在までに,次の3つが知られている。(1)輸精管の形成に伴って周辺組織が増生し,それが産卵口を塞ぐために交尾や産卵ができなくなるもの (2)卵嚢線(輸卵管の一部)に裂け目が生じたり,摂護腺(雄の付属生殖器官)組織が卵嚢腺内に分化・発達するために交尾や産卵が困難になるもの,及び(3)卵巣内で精子が形成されたり,卵巣内に精巣組織が分化・発達するために卵の形成や発達・成熟が阻害されるもの,である。こうしたインポセックスに付随した産卵障害が主因となって生息量が減少したと考えられる例が,日本のイボニシやバイなどの数種で報告されている。
インポセックスは回復するだろうか。個体レベルでは,いったんインポセックスになってしまうと元には戻らないが,個体群レベルでは,その海域の個体群が消滅した場合を除き,原因物質である有機スズ化合物の汚染レベルの低減により症状の緩和が進み,徐々に回復すると考えられている。インポセックスの原因物質は有機スズ化合物であると書いたが,正確に書くと,船底防汚塗料や漁網防汚剤等として世界中で広く使用されてきたトリブチルスズ(TBT)やトリフェニルスズ(TPT)である。なお,インポセックスの発症や症状の進行に及ぼすTBTの効果は多くの種で確認されているが,TPTの効果には種差がある。すなわち,TBTではインポセックスが引き起こされるが,TPTではインポセックスが起きる種と起きない種がある。これは,今もって解明されていないインポセックスを巡る謎の一つである。このことをまとめると,ある種の有機スズ化合物によってほぼ特異的に,またきわめて低濃度で引き起こされるということがインポセックスの大きな特徴である。
またインポセックスは,アワビやサザエなどの原始的なグループを除く,海産巻貝類においてのみ観察され,例えば,二枚貝やウニの仲間や魚類など,その他の生物ではインポセックスのような事例がほとんど知られていない。このことも,インポセックスを巡る興味深い特徴の一つである。筆者らは,1990年以降,イボニシやバイなどのインポセックスに関する全国的な野外調査とともに有機スズ汚染が深刻であったマリーナや造船所近くに定めた観測点における定期観察を継続的に実施し,国内におけるインポセックスの実態やその推移を明らかにし,またいくつかの室内実験も行ってきた。1994年以降,巻貝の仲間であるがインポセックスが認められないアワビ類を対象にした調査も継続的に実施している。
筆者らがアワビ調査を始めた理由は2つある。一つは,多くの巻貝類に有機スズ汚染が原因でインポセックスが起きているのであるから,アワビ類にもインポセックスと類似の生殖に関する異常が起きているのではないか,という疑問であり,もう一つは,仮にそうした生殖に関する異常がアワビ類に起きているとすれば,有機スズ汚染が進行した時期と重なる1970年代以降,全国的にアワビ資源が減少してきたことも説明できるかもしれない,との想像であった。
筆者らは,乱獲などの影響が考えにくいもののアワビ資源の減少が著しい国内のある海域(ここでは,B海域と呼ぶ)に注目し,比較する意味で対照海域(ここでは,A海域と呼ぶ)も設定して調査を進めた結果,B海域のマダカアワビ個体群において,(1)生殖周期の乱れに起因する雌雄間での性成熟の同調性の変調(図1)(2)雌の性成熟度の抑制(図1)及び(3)約20%の雌における精子形成に象徴される雄性化現象(図2)を観察した。すなわち,B海域のマダカアワビは雌の性成熟が抑えられ気味であるだけでなく,卵巣で精子を作るなどの雄化した雌が約20%存在し,さらに雌雄間で性成熟のピークの時期がずれていることが明らかとなった。アワビ類は海水中に卵と精子を放出して受精するため,雌雄の性成熟のピーク時期がずれれば,受精率の低下に直結する可能性がある。なお,A海域の試料では,B海域のマダカアワビで観察された上述の現象が観察されなかった。そこで,筆者らは,これをアワビ類における内分泌攪乱現象であるとして報告し,その原因物質として有機スズ化合物をまず疑った。
その後の調査により,B海域で漁獲されたメガイアワビにおいてもマダカアワビと同様の現象が観察され,またB海域のアワビ筋肉中の有機スズ濃度が,食品衛生的には何ら問題になるレベルではないものの,A海域のそれに比べて有意に高いことが明らかとなった。こうして有機スズ化合物とアワビ類の内分泌攪乱との関係が一層疑われたため,A海域のメガイアワビをB海域の造船所近傍に移植して7ヵ月間飼育する実験を実施したところ,この実験の前後でアワビ体内の有機スズ濃度の顕著な上昇とともに約90%の雌において精子形成などの雄性化が観察された(図3)。この時点で「まず間違いない」と感じたが,有機スズ化合物とアワビ類の内分泌攪乱との間の因果関係を特定するために,次いで,実験室内で人工海水とA海域産メガイアワビを用いた2ヵ月間の流水式連続曝露試験を実施した結果,TBT及びTPTのいずれにおいても,少量ではあるが卵巣内で精子形成を認める雌が対照群よりも有意に高い割合で観察された。こうして,有機スズ化合物とアワビ類の内分泌攪乱との間の因果関係~少なくとも,TBTやTPTという有機スズ化合物が雌アワビの卵巣で精子形成を引き起こす~が断定された。なお,本実験では,脳に相当する神経節を含む頭部において有機スズ化合物の顕著な蓄積が観察されたため,これがアワビ類の内分泌攪乱の引き金になるのではないかと考えている。
筆者らは,イボニシなどにおけるインポセックスに関する知見とアワビ類における内分泌攪乱現象に関する知見とを総合することにより,海産巻貝類における内分泌攪乱現象(雌の雄性化現象)の誘導・発現メカニズムに関する新たな仮説を提起した。それは,次に述べるような,いささか複雑なものである。“有機スズ化合物は巻貝類の脳に相当する神経節に高濃度に蓄積し,そのために神経内分泌系が攪乱され、その結果,ある種の巻貝類にペニスの形成や発達を促す因子(神経ペプチド)の不均衡が生じて雌にペニスや輸精管が形成され,発達する。また神経ペプチドの攪乱によって,性成熟や産卵,放卵,付属生殖器官の発達なども攪乱される可能性がある。さらに雌に生じたペニスなどで二次的にステロイド合成がなされ、あるいは神経ペプチドによる生殖巣でのステロイド合成の制御の変化が,卵巣における精子形成に関与する可能性がある。”現在,この仮説の検証に向けて,岡崎国立共同研究機構統合バイオサイエンスセンター,鳥取大学農学部,静岡大学理学部,金沢工業大学,広島大学理学部等との共同研究を進めている。
執筆者プロフィール
1964年,三重県生まれ。自分の頭でよく考え,些細なことにも注意を怠らず,よく観察し,人の三倍努力せよ……噛み締める先人の言葉は多いが,どの程度実践できているか?現場(海)へ出かけることと極真空手が好き。