【論文】「着物趣味」の成立 [論文・講演アーカイブ]
一般社団法人現代風俗研究会・東京の会の研究誌『現代風俗学研究』15号「趣味の風俗」(2014年3月 ISSN2188-482X)に掲載した論文「『着物趣味』の成立」のカラー画像入り全文。
日常衣料だった「着物」が非日常化し、さらに「趣味化」していく過程を、和装文化の展開を踏まえて、まとめてみた。
欲張った内容なので不十分な点は多々あるが、自分が考える和装文化の衰退と「着物趣味」の成立の流れを、まとめることができたと思っている。
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「着物趣味」の成立 三橋 順子
【概要】
本来、日本人の日常の衣料であり、洋装化が進んだ戦後においても時と場を限定しながら衣料として機能していた着物(和装)の世界に、2000年頃からひとつの変化が現れる。それは着物の趣味化である。「着物趣味」は戦後の和装世界で形成されたさまざまな規範を超越しながら、ある種のコスチューム・プレイとして新たな展開をみせていく。本稿では、近代における和装文化の流れを踏まえながら、着物趣味の成立過程をたどってみたい。
キーワード 着物 趣味化 コスチューム・プレイ
はじめに
まず「趣味」とは何か、ということを考えておこう。「趣味」を辞書で引くと、「①仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。②どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(『大辞泉』)というように、だいたい2つの意味が出てくる。ここで論じる「着物趣味」の「趣味」は①である。さらに、人間だれしもが持っている時間に注目すれば、趣味とは、食事や睡眠などの生活必要時間、仕事や職業、家事などの労働時間以外の自由時間(余暇)に営まれるものと言うことができる。たとえば、私のように、ほぼ毎日、自分と家族のために食事を作っている人は「料理好き」かもしれないが、それは家事労働であって「料理趣味」ではない。料理趣味とは、日頃、家庭で料理をしない人が、休日などの余暇を利用して日常の食べ物とはちょっと違うレベルのものを料理することを言うのだと思う。
次に「着物趣味」の成立の要件を考えてみたい。着物が生活衣料である間は、着物を着ることは日常に必要な営みであって、趣味にはならない。私の明治生まれの祖母は2人とも、生涯、ほとんど和装しかしなかった人で、毎日、着物を着ていたが、それは「趣味」とはまったく遠い。そうした着物が日常衣料だった時代にも、裕福で高価な着物をたくさん誂える人はいたが、それは「着道楽」であって、「着物趣味」とは言わなかった。つまり、着物が趣味化して「着物趣味」が成立する前提、第1の要件として、着物が日常衣料としてのポジションを失うことが必要になる。
最初の辞書的定義のように「趣味」は本来、個人のものだ。しかし、個人が孤立している間は、ほとんど社会性を持たない。「趣味」がある程度の社会性をもつためには、同じ「趣味」をもつ「同好の士」が集まることが必要になる。つまり、「着物趣味」の同好の士が横のつながりをもって集うことが「着物趣味」の成立の第2の要件になると考える。
そして、その仲間たちの間で、「着物趣味とはこういうものだ」という意識、ある種の規範が共有される。その共有された規範が仲間としての意識を強化していく。こうした特有の規範の成立を第3の要件と考えたい。
Ⅰ 日常衣料としての和装の衰退 ―趣味化の前提として―
1 洋装化と和装の衰退
明治の文明開化とともに日本人の洋装化が始まる。西欧近代文化の輸入と模倣に懸命な新政府は鹿鳴館(1883)に象徴される洋風文化を演出するが根付かなかった。洋装化は軍人の軍服、巡査の制服、官公吏の上層部や洋行帰りの学者など、男性のごく一部に止まり、女性の洋装化はほとんど進展しなかった。
大正後期から昭和初期(1920~36)になると、洋服を着たモダンボーイ(モボ)とモダンガール(モガ)が最新の流行ファッションとして注目されるようになる。とりわけ、女性の洋装化の端緒となったモガへの社会的注目度は高かった。しかし、それは都市における尖端文化ではあったが、全国的・全階層的な広がりを持つものではなかった。
一方、この時代は和装にも大きな変化があった。化学染料と力織機の普及により銘仙やお召などの絹織物の大量生産が可能になり、それまで木綿の着物しか着られなかった階層にまで絹織物が普及していく。
昭和初期に大都市に出現するデパートは、絹織物としては安価な銘仙を衣料品売り場の目玉商品に据える。そして、産地と提携した展示会などを開催して積極的に「流行」を演出していった。
主要な産地(伊勢崎、秩父、足利、八王子など)は、デパートが演出する「流行」に応じるために熾烈な競争をしながら、デザインと技術のレベルを高めていった。その結果、アール・ヌーボーやアール・デコなどヨーロッパの新感覚デザインが取り入れられ、「解し織り」(経糸をざっくりと仮織りしてから型染め捺染した上で織機にかけて、仮糸を解しながら、緯糸を入れていく技法)など技術の進歩によって多彩な色柄を細かく織り出すことが可能になった。こうして、従来の着物とは感覚的に大きく異なる、華やかで斬新な色柄の銘仙が大量に市場に供給され、銘仙は都市大衆消費文化を代表する女性衣料としての地位を確立する(三橋2010)。
【写真1】銀座4丁目交差点(昭和7年=1932年)
出典:石川光陽『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社 1987年)
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写真1は、1932年(昭和7)の銀座4丁目交差点である(石川1987)。男女とも和装・洋装さまざまな服装の人が行き交い、この時代の服飾文化の豊かさを思わせる。右側、仲良く連れ立った2人の女性の1人は、典型的なモガ・ファッションだが、もう1人は大きな麻の葉柄の振袖で、おそらく銘仙と思われる。また左側の袴姿の女子学生の着物は直線を交差させたアール・デコ風の銘仙だと思う。そしてその右の男の子を連れた母親は縞お召、もしくは縞銘仙を着ていると思われる。
この時代における銘仙・お召の流行が見て取れるが、日本近代の服飾史を洋装化の歴史としか見ない従来のファッション史のほとんどは、モガの出現に注目するあまり、この時代が大衆絹織物の普及による女性の和装文化の全盛期であったことを見落としている(註1)。
日中戦争から太平洋戦争の時代(1937~45)になると、軍服や国民服の着用によって男性の洋装化が進行する。また戦時体制への移行にともない繊維・衣服の統制が行われ、「贅沢は敵だ!」のスローガンのもと、女性の和装文化が抑圧されていった。また、戦地に赴く男性に代わる労働力として、「非常時」への対処として、女性の衣服にも活動性が求められ、そうした社会的要請から着物の上に履くズボン型衣料としての「もんぺ」が普及する。そして、戦争末期には、アメリカ軍の空襲によって繊維製品生産と流通機構が破壊されてしまう。
戦後混乱期(1945~51)は、戦災による物資の欠乏に始まり、繊維素材・製品の統制が衣料品の不足に輪をかけた。そうした中、日本を占領した進駐軍がもたらしたアメリカ文化への崇拝、日本の伝統文化否定の風潮が強まり、和装は旧態の象徴になっていく。その結果、戦時中に進行した男性の洋装化に加えて、女性の家庭外での洋装化が大きく進行する。
そして高度経済成長期(1960~75)になると、経済効率を優先した社会システムの画一化が進む。衣服における画一化はすなわち洋装化であり、企業にでも学校でも洋装が一般化・標準化する。同時に、家庭生活の洋風化も進行し、それまでは外では洋装、家では和装が主流だったのが、家庭内においても男女ともに洋装化が進んだ。
こうして、和装は生活衣料としてのポジションを失っていった。その時期は、地域によって差はあるが、東京などの大都市では1960年代後半から70年代前半の時期に押さえることができると思う。
2 女性着物の多層性の崩壊
1960年代後半から70年代前半に起こった注目すべき現象のひとつは、女性着物の多層性の崩壊である。
(表1)着物の階層性
着物を着る場が大きく狭まった結果、礼装・社交着としての着物は残ったものの、街着・家内着・労働着としての着物(お召・銘仙・木綿・麻)は洋装に取って代わられ衰退した。新たに茶道などの「お稽古着」が登場し、色無地や江戸小紋が好んで用いられるようになる。また、本来は家内着だった紬は高級化して社交着化する。階層性の崩壊と同時に、着物の材質も多様性が失われ、木綿・麻・ウールなどは、ごく一部が高級化して残った以外は姿を消し、着物と言えばほとんどが絹という状態になっていく。
3 「着付け教室」の登場と規範化
この時期に起こったもうひとつの注目すべき現象は「着付け教室」の登場である。1964年(昭和39)に「装道礼法きもの学院」が、1967年に「長沼静きもの学院」(当時は「長沼学園きもの着付け教室」)が、そして1969年には「ハクビ京都きもの学院」が創立され、「着付け教室」として全国的に展開していく。現在に続く大手の「着付け教室」が1960年代後半に創立されたことは偶然ではなく、それなりの社会的理由が有ったからだと思われる。
男性の着付けに比べて女性の着付けは帯結びが複雑・多様であるが、それにしても、着物の着付け、帯の結び方は、母や祖母から娘が生活の中で教わり習い覚えるもので、月謝を払って習うようなものではなかった。しかし、戦中・戦後混乱期に着物を思うように着られなかった女性が母親になった時、成長した娘に着物の着付けを伝授できない事態が発生したと思われる。
たとえば、1925年(大正14)生まれの女性は、戦間・戦後混乱期(1941~50)には16~25歳だった。23歳で娘を産めば、1967年には母親42歳、娘19歳である。成人式が間近になった娘に着付けを教えようと思っても、自分の和装経験が乏しく自信がないというようなケースである。祖母がいれば助けてもらえるだろうが、都会で核家族となると、そうもいかない。どこか教えてくれる所はないだろうか?
この時期に「着付け教室」が次々に創立された背景には、そうした戦争による母から娘へという和装文化の継承断絶が生んだ需要があったのではないだろうか。
着物の着付けは、いたって不器用な私の経験からして、単に着るだけなら、3日も習えば、なんとか着られるようになり、後は反復練習である。器用な人なら1日で覚えられるだろう。しかし、それでは月謝を取って教える「着付け教室」の経営は成り立たない。したがって、「着付け教室」では手っ取り早い簡便な着付けを教えず、いろいろと複雑な手順で教える。さらにごく日常的・庶民的な着付け法ではなく、戦前の上流階級の着付け法をベースにして伝授する。その方が付加価値が高いからである。
実際、この時期の著名な着付け指導者には、戦前の上流階級の女性が多かった。1970年にベストセラーになった『冠婚葬祭入門(正)』(カッパ・ホームス)で「着付け」法を広めた塩月弥栄子(1918~)は裏千家14世家元碩叟宗室の娘であり、1973年から「ハクビ総合学院」の学長を務めた酒井美意子(1926~99)は旧加賀藩主で侯爵の前田利為の娘で、旧姫路藩主で伯爵の酒井忠元の妻だった。
こうした戦前の上流階級の女性たちによって、自分で働かなくてよい上流階級の「奥様」「お嬢様」の非活動的な着付けがマニュアル化され、「着付け教室」で教えられ規範化していった。その結果、着物の着方がすっかり様式化し「こう着なければいけない」という形ができ上がる。
本来、生活衣料であった着物には、その状況に応じた着付け方があった。働く時には身体を動かしやすいように楽に緩めに着付けし、たくさん歩く時には裾がさばき易いように合わせを浅めにしてやや裾短かに着付けるなどといった着付けの融通性が失われてしまった。こうして、働けない、身動き不自由な、皺ひとつ許されないきっちりした、着ていて苦しい着物の着付けが成立する。
習わなければ自分で着られない衣服は、もう日常の生活衣料とは言えない。こうした過程をたどって、着物は日常の衣服としての機能を喪失していき、特別な場合、たとえば、お正月、冠婚葬祭(成人式、結婚式、葬儀、法事)などの非日常の衣服となり、あるいは特殊な職業の人(仲居、ホステスなど)の衣服になってしまった。
Ⅱ 「美しい着物世界」の成立
1 高級化と「美しい」の規範化
着物が生活衣料の地位を失い、特別な衣服になったことで、着物の生産・流通業界は、安価な大量生産中心から高価な少量生産へと転換していく。かっての主役だった銘仙やお召はまったく見捨てられ、手作業のため少量生産しかできなかった各地に残る紬が見出され、そのいくつかが付加価値がある織物として高級品化していった。
たとえば、1933年(昭和8)に秩父産の模様銘仙は5円80銭~6円50銭だった。当時の6円は現代の21000~24000円ほどと考えられ、中産階層なら1シーズン1着の購入が可能な値段だった(三橋2010)。ところが、1999年(平成11)に八丈島特産の黄八丈の反物は48万円もした。平均的な収入の人だったらローンでも組まない限り購入は難しい。
こうした着物の高級品化時代に主な情報媒体となったのが婦人画報社(現:ハースト婦人画報社)の『美しいキモノ』(1953年創刊・季刊)に代表される着物雑誌である。この種の着物雑誌の中身は、高価な着物のオン・パレードであり、安価な着物やまして古着などはけっして登場しない。高価な着物を売りたい着物業者と、そうした高価な着物を購入できる富裕な奥様・お嬢様の「美しい」「上品な」着物世界である。私はこれを「美しい着物世界」と呼んでいる。
「美しい着物世界」の特徴は、誌名通り「美しさ」と「着物」とが過度に結合したことである。『美しいキモノ』は、創刊以来毎号、高価な着物を着た女優さんが表紙を飾るのが通例で、中の誌面もほとんどがプロのモデルの着物姿である。その姿はたしかに美しく、なるほど誌名にふさわしい、と思ってしまう。しかし、着姿が美しいのはもともと美しい女優やモデルが着ているからであって、同じ着物を一般の女性が着ても必ずしも美しくなるとは限らない。
着物が日常の衣料であった時代、そんなことは考えるまでもなく誰もが解っていることだった。ところが、着物が非日常の衣服になるにつれて、わざわざ着物を着て特別の装いをするのだから、きっと美しくなるに違いない、というある種の期待が生まれてくる。実際にはそうなる場合もそうならない場合もあるわけだが、着物業界は、そうした期待感を利用して、着物雑誌の誌面を通じて「着物を着ている人は美しい」というイメージを流布し、「着物を着れば美しくなれる」さらに「高価な着物を着ればより美しくなれる」という幻想(錯覚)を喚起し、売り上げの向上につなげるという戦略をとった。
「着物を着ている人は美しい」というイメージは、やがて「着物を着ている人は美しくなければならない」という非現実的な意識に転化していき、必ずしもそうならない女性たちを着物世界から遠ざけることになった。
2 色・柄の衰退
日本の女性の和装文化は、江戸時代には遊廓の高級遊女(花魁)がファッションリーダーであり、明治以降も芸者をはじめとする玄人筋が大きな比重を保っていた。着物が生活衣料としての地位を失っていく時代になっても着物を着続け、着物業界の売り上げのかなりの部分を担ったのは銀座や北新地に代表されるクラブ・ホステスたちだった。にもかかわらず、「美しい着物世界」では、こうした玄人の着物は徹底的に無視・排除される。間違っても「銀座クラブママの着こなしに学ぶ」などという特集は組まれない。
「美しい着物世界」の着物のコンセプトは、あくまでも「上品」である。これを意訳すれば「玄人っぽくない」ということになる。具体的には、色味の弱い色、小さ目の柄、つまり自己主張の弱い「控えめ」が上品とされる。色については、原色や強い色は忌避され、薄い色、さらには無彩色(白・黒・グレーの濃淡、銀)が好まれる、柄は巨大柄・大柄が避けられ、比較的小さめの柄を反復する小紋や、細かな点で小さな意匠を全面に置く江戸小紋、さらには柄が消失した色無地が好まれるようになる。また、日本の伝統的な意匠である縞も、太縞や棒縞のようなシンプルで大胆なものは忌避され、細縞やよろけ縞のような控えめなものが好まれる。太縞や棒縞がもつ粋なイメージが玄人(粋筋)を連想させるためと思われる。
こうした傾向は着物の階層性が崩壊し、「お稽古着」の比重が増した結果、万事派手を嫌い、地味を上品とする茶道の世界の「趣味」が着物全体に影響を及ぼすようになったことが作用していると思われる。その結果、戦前の着物に比べて、現代の着物は、色は淡く、柄は小さく、色柄のバリエーションが少なくなり、創造性が失われ類型的となり、個性的でなく画一化が進んでしまった。服飾デザインという見地からすれば、明らかな退化であるが、商業的にはそうした無個性な無難な着物でないと売れなくなってしまったのである。
3 高級化の帰着と「趣味の着物」
こうした着物の高級化は、着物の世界をますます狭めていった。何10万円という衣料を次々に購入できるような富裕層がそんなに多いはずはない。「和装が好き、着物を着たいけど高くて手が出ない」という階層の方がずっと多かった。それでもバブル経済期(1980年代後半)はまだよかった。驚くほど高い着物が売れた。たとえば、染色家の久保田一竹(1917~2003)の一竹辻が花の訪問着が1200万円とか。しかし、購入された高価な着物が実際に着られたかというと必ずしもそうでもなく、多くは「箪笥の肥やし」と化し、着物世界が再び拡大することにはつながらなかった。そして、バブル崩壊後、着物業界は大量の在庫を抱えたことに加えて、バブル期の「箪笥の肥やし」がリサイクル市場に放出されることで、新規需要の落ち込みに苦しむことになる。
ところで、1980年代には「趣味の着物」を看板にする店が現れる。目の肥えた顧客を相手に、普及品ではなく高級紬や作家物など厳選された商品を扱う店である。しかし、この「趣味」は、「はじめに」で紹介した辞書の②の意味「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」と解釈すべきだろう。「良いお着物の趣味でいらっしゃいますわね」の「趣味」である。この時点では、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という①の意味での「着物趣味」はまだ成立していなかった。
4 男性の和装の(ほぼ)絶滅
写真2は、1959(昭和34)正月のある一族(東京在住)の集合写真である(小泉2000)。
【写真2】ある一族のお正月(昭和34年=1959年)
出典:小泉和子『昭和のくらし博物館』(河出書房新社 2000年)
成年女性8人はすべて和装である。これに対して成年男性4人は家長と思われる1人が和装なだけで他の3人は洋装である。また子供たちも女児6人が和装4、洋装2であるのに対し男児2人はいずれも洋装だ。つまり、男性の和装はおじいちゃんだけという状態で、男性の洋装化=和装の衰退が女性のそれよりもかなり早く進行したことがはっきり見てとれる。
お正月ですらこの状態なのだから、平常時において男性が和装する機会はいよいよ乏しくなっていった。歌舞伎役者、茶道家、落語家、棋士など一部の限られた職業の男性の需要に応じた生産は続けられていたが、1970年代後半から80年代になると、男性の着物は高級品を除き店頭から姿を消していく。和装趣味の青年が着物を着たいと思っても、(彼の手が届く範囲では)「どこにも売っていない」状況になり、着付けのマニュアル本からも男性向けの記述はほとんどなくなってしまう(早坂2002)。こうして、1980年代後半から90年代前半には、男性着物はほぼ絶滅状態になり、着物は女性の物という社会認識が定着し、着物世界におけるジェンダー的な乖離は極限に達した。
こうして、着物趣味の成立の第1の要件である日常衣料としての地位の喪失は、少なくとも1980年代末には完全に達成されていた。しかし、まだこの時期には、着物世界の人間関係は、着物を売る着物屋と着物が好きで買う客の商業的関係であり、着物好きの客同士の横のつながりは、ほとんどなかった。第2の要件である着物好き同士の横のつながりができるまでには、もう一段階が必要だった。
Ⅲ 情報革命と着物世界 ―趣味化への胎動―
1 「着ていく場所がない」
着物を着て家を出ると、顔見知りの近所の奥さんに「あら、お着物でお出かけ? 今日は何かありますの?」と興味津々に尋ねられる。多くの着物好きの女性が経験したことだ(男性の場合はさらに不審がられて声も掛けられない)。1990年代になると、日常性を完全に喪失し衣服として特殊化してしまった着物には「着る理由」が必要とされるようになってしまった。「ただ着物を着たい」、「着て出かけたい」ができない状況が生じたのである。
「近所でジロジロ見られるので、着物で出掛けられない」、「変わり者扱いされるので(着物のことは)周囲の人に黙っている」、そんな話を聞いて「なんだ、女装と同じではないか?」と思ったことがある。冗談ではなく、1990年代には、着物のファッション・マイノリティ化はそこまで進行していた(三橋2006)。
実際、堂々と着物を「着られる場所」「着る機会」は少なかった。お正月は年に1度だし、結婚式に呼ばれる機会もそうはない。そうした状況の中で、「鈴乃屋」や「三松」のような大手の着物チェーンが「着物を着る場」としてイベントを企画・開催するようになる。しかし、お商売だから当然なのだが、そうしたイベントは着物展示会と併設されていたり、そうでなくても「お出かけ」の度に着物を作ることを勧められ、結局、多大の出費をすることになる。そうした制約なしに、「気楽に着物を着る場・機会があればいいのに」と、着物好きの多くが思うようになっていた。
2 パソコン通信からインターネットへ
1997年8月、パソコン通信「NIFTY-Serve」の中に「きものフォーラム」が開設される。「NIFTY-Serve」のサービス開始(1987年4月)から10年も後のことだった。そして11月25日には東京赤坂の「全日空ホテル」で「きものフォーラム」の「オフ会」(オフライン・ミーティング)が20名の参加者で開催された(早坂2002)。
これはパソコン通信と趣味の世界の結合としてはかなり遅い。たとえば女装趣味のパソコン通信「EON」(主宰:神名龍子)は1990年に創立され、その活動を通じて1995年頃にはすでに「電脳女装世界」ともいうべき女装仲間の横のつながりが形成されていた。1996年4月に開催された「EON」ボード上に設置された「クラブ・フェイクレディ(CFL)」(主宰:三橋順子)の「オフ会(FL3)」には77名が参加している。そんなものと比較するなと言われるかもしれないが、パソコン通信を通じての仲間の結合という点で、この時期の「着物仲間」は「女装仲間」よりもずっとマイナーな存在だったことがわかる。
1996~97年頃から日本でもようやくインターネットが盛んになると、1997年に秋田県在住の「澤井夫妻」がインターネット上に「きものくらぶ」を開設する。これが日本最初のインターネット着物サイトと思われ、私が最初にアクセスした着物サイトも「きものくらぶ」だった。同年12月には早坂伊織氏が「男のきもの大全」を立ち上げ、これが最初の「男着物」専門サイトになった。
こうして、パソコン通信、次いでインターネットを媒介にして、日本各地に孤立、散在していた「着物好き」が結びつき、仲間化していくことになる。
3 「男着物」の復活と男性主導の「オフ会」
パソコン通信時代から代表的な「着物好き」として活躍する早坂氏の本業が「富士通」のシステムエンジニアだったように、また「きものフォーラム」の中に「男のきもの」会議室が設置されたように、パソコンの普及度、パソコン通信やインターネットへのアクセス率は、その初期においては男性の方が圧倒的に高かった。したがって、インターネットによる仲間化や「オフ会」の開催は男性が先行する。
早坂氏が主催する男着物の「オフ会」である「男のきもの大全会」が開催されたのは1998年10月だった(参加者50名)。1999年12月には、毎週土曜日に着物男性が銀座に集まる「きものde銀座」の第1回が開催される(参加者14名)。この集まりは1999年11月に開催された第2回「男のきもの大全会」から派生したものだった(早坂2002)。
こうした経緯をたどって、1990年代末に、ほぼ絶滅状態だった男着物が復活し仲間同士の横のつながりが形成されていった。1990年代末から2000年代初頭にかけて、着物趣味成立の第2の要件が整ったことになる。
4 「ふだん着きもの」への志向
「インターネットきもの」の初期に多くのアクセスを集めたサイトに「あみさんのきもの」(主宰・鳥羽亜弓)があった。このサイトの特徴は、地方在住の子育て中の主婦が毎日着物を着て生活しているという「特異性」にあった(鳥羽2001)。着物で日常を過ごし、家事を行い、子供を育てるという戦前期の日本の多くの主婦がしていたことが、すっかり特異なことになってしまったのである。
2002年に『天使突抜一丁目―着物と自転車と―』を出版したマリンバ奏者の通崎睦美も、着物で自転車に乗るという「特異性」で注目された(通崎2002)。明治~大正期のハイカラ女学生がごく普通にしていたことなのに。
また、現代風俗研究会の古参会員である磯映美は、「華宵」の名義で、2001年から2003年にかけて、散歩きもの普及員会ニュースレターとして「着物で、ぶらぶら」を刊行した。
こうした「ふだん着着物」、あるいは日常的な「着物暮らし」への志向は、日常性を喪失した和装文化に反発・逆行するものであり、その方向性はその後の「趣味化」の中に受け継がれていくことになる。
Ⅳ アンティーク着物ブームと「着物趣味」の成立
1 女性主導の「オフ会」の盛行
当初、男性主導だった着物「オフ会」も、女性のインターネットアクセス率が上がるにつれて、女性の参加が増加していった。男性主導の「オフ会」には、男性だけで語り合いたいホモ・ソーシャルなタイプと、主催者が「女好き」で積極的に女性の参加を勧誘するタイプとがあった。2000年頃に何度か開催された村上酔魚堂の「オフ会」は後者のタイプだった。
【写真3】「村上酔魚堂・浅草オフ会」(2000年9月)。
ここで後の「うきうききもの」の初期中核メンバーが出会う
そうした場で着物好きの女性たちが知り合い、その横のつながりをベースに、2001年頃から女性主導の「オフ会」が盛んに開催されるようになる。その代表は、東京を中心とした首都圏では「うきうききもの」(主宰:古川阿津子、2001~10)、京都を中心とした関西圏では「夏海の遊び着」(主宰:夏海、2001~ )であり、最盛期には月に数回ペースで「オフ会」を開催した。
【写真4】「うきうききもの」秩父銘仙オフ会(2002年4月)。
中央が主宰の「あつこ女将」
こうした「オフ会」は心置きなく好きな着物を着られる場であり、着物に関する様々な情報や工夫が交換され、またお互いの着こなしが参照され相互に影響を与えあった。そして、「オフ会」の様子がインターネットサイトにレポートされることで、新しい参加者を引きつけていった。2000年代前半は、インターネットと「オフ会」を通じて、女性の着物仲間が横のつながりを形成していった時代だった。
私も参加した「うきうききもの」では、初期のメンバーの間には、既存の着物世界への飽き足らなさ、不満が共通意識としてあった。地味=上品に固定化され、「着付け教室」が作り上げた厳格な着用規範に反発し、「もっとどんどん、自由に、楽しく着物を着たい!」「(ミセスだって)派手な着物を着てもいいじゃない!」という思いである。「美しい着物世界」とまったく異なる着物への志向・嗜好がそこにはあった。
2 アンティーク着物ブーム
女性主導の「オフ会」の盛行とほぼ時を同じくして、アンティーク着物ブームが起こる。その火付け役は「別冊太陽」(平凡社)の「昔きもの」シリーズだった。2000年3月の『昔きものを楽しむ(1)』に始まり、『昔きものを楽しむ(2)』(2000年11月)、『昔きものと遊ぶ』(2001年8月)、『昔きものを買いに行く』(2002年12月)、『昔きものの着こなし』(2003年4月)、『昔きもの 私の着こなし』(2004年5月)とほぼ1年1冊ペースで計6冊が刊行された。
このシリーズ、最初は「骨董を楽しむ」シリーズの1冊として刊行されたように、骨董的な価値のあるアンティーク着物を「収集して楽しむ」というスタンスだった。ところが途中から、アンティーク着物を「着て楽しむ」という方向に変化していった。表紙も最初は着物の意匠だったのが、3冊目の『昔きものと遊ぶ』は着姿になっている。
「別冊太陽」の「昔きもの」シリーズによってアンティーク着物への関心が急速に高まり、骨董屋や骨董市の露店で、古い着物を漁る人々が出現するようになる。とくに現代の着物に比べてデザイン性に富み、派手な色柄の銘仙やお召が注目され、それまで二束三文(500円以下)だった銘仙の古着がたちまち値上がりしていった。
そうして探し出し手に入れた古着を洗い繕って、場合によっては仕立て直す。手間暇を惜しまない。そして、その着物を「オフ会」で仲間たちにお披露目する。すると、「わ~ぁ、すてき、どこで手に入れたの?」「いくらだった?」と仲間から質問が飛ぶ。「○○の露天市でね、500円だったの。けっこう汚れていたから(着られるようにするのが)大変だったけど…」。こう答えるとき、それまでの労苦が報われ、ある種の達成感がある。
探す→洗う・直す→着る→仲間に見せる、このサイクルが毎月のように繰り返される。傍目から見れば、いい大人の女性が古着を漁り集め、着ることに夢中になっているわけで、いったいウチの娘(もしくは妻)は何をしているのだ、と呆れられることになるが、まさにそれが「趣味」なのである。
2002年6月には、アンティーク着物に特化した着物雑誌『Kimono道』(祥伝社、後に『Kimono姫』と改題)が創刊される。そのコンセプトは「アンティーク&チープ」であり、表紙に記されたリードは「キモノのはじめてはアンティークから」だった。
アンティーク着物の場合、値上がりしたと言っても、せいぜい1000円から5000円程度で千の桁で納まり、万の桁になることは少なかった。稀に数万円という高級アンティーク着物もあったが、当時、市販の現代着物の多くは20~50万円の価格帯だったから、それでも10分の1である。30万円の現代着物1枚を買う値段で、露天商から3000円のアンティーク着物が約100枚買える計算になり、すさまじい価格破壊ということになる。
安価なアンティーク着物がブームになったことは、それまで経済的な理由で着物を思うように着られなかった「着物好き」にとっては大きな福音であり、とくに20代、30代の比較的若い人たちが着物世界に参入できるようになった。20世紀後半の50年間一貫して長期低落傾向にあった着物人口は、21世紀に入って一時的にせよ増加に転じたのである。これは「趣味化」というある種の「突然変異」かもしれないが、長い和装の歴史の中で、やはり画期的なことだと思う。
2000年代のアンティーク着物ブームによって、東京白金の「池田」、原宿の「壱の蔵」などのアンティーク着物専門店はおおいに賑わい、コレクターとしても知られた店主の池田重子(1925~)や弓岡勝美の名も高まった。とりわけ池田は、新宿伊勢丹や銀座松屋などで「池田重子コレクション―日本のおしゃれ展―」(1993~2011)を何度も開催し、アンティーク着物の社会的認知を高めた。池田のコレクションとコーディネートは、アンティーク着物ファンの垂涎の的になった。
また、リサイクル着物の「ながもち屋」や「たんす屋」がチェーン展開するのもこの時期である。しかし、アンティーク着物ブームは既存の着物業界にはほとんど影響しなかった。
3 銘仙への注目
アンティーク着物ブームの中で、とりわけ人気度が高かったのが銘仙だった。銘仙とは、先染(糸の段階で染める)、平織(経糸と緯糸の直交組織)の絹織物である。その詳細については別稿に譲るが(三橋2002,2010)、大正~昭和戦前期においては、安い価格と豊富な色柄が、中産階層のお嬢さんの普段着、女中さんの晴れ着、もしくは、女教師の銘仙+女袴(行燈袴)、牛鍋屋の仲居の赤銘仙、カフェの女給の銘仙+白エプロンといったような職業婦人の仕事着として好まれ大流行した。戦後も生産は続いたが、主な着用層だった「お嬢さん」や職業婦人が真っ先に洋装化したこと、粗悪品の流通によりイメージが低下したことで徐々に衰退した。それでも、大柄で色鮮やかな模様銘仙は、自分を「広告塔」にする女性、具体的には「赤線」(黙認買売春地区)の「女給」(実態は娼婦)たちに愛用された。
着尺としての銘仙の生産は、1960年代末までにほぼ途絶え、工場生産品ゆえに伝統工芸・美術品になることもなく、技術もほとんど断絶してしまった。つまり、銘仙はいったん滅んだ織物だった。
ところが、アンティーク着物ブームにより、女性の和装文化の最盛期だった大正・昭和初期の着物文化が再評価された結果、その最盛期を担った銘仙がにわかに注目されるようになる。2002年1月に主要産地だった埼玉県秩父市に初めての銘仙資料館「ちちぶ銘仙館」がオープンし、それを受けて2003年5月に三橋順子が「艶やかなる銘仙」を『Kimono姫』2号に執筆した(三橋2002)。2003年6月には銘仙コレクターの木村理恵と通崎睦美の「銘仙コレクション2人展」が東京中野の「シルクラブ」で開催される。そして2004年12月には秩父市在住の木村理恵のコレクションを紹介した『銘仙―大正・昭和のおしゃれ着―』が「別冊太陽」(平凡社)の1冊として刊行され、銘仙ブームはひとつの頂点を迎える。
その後も銘仙ブームは続き、銘仙をメインにした企画展が各地で立て続けに開催された(註2)。そして、2009年5月には銘仙を主な展示品とする「日本きもの文化美術館」が福島県郡山市にオープンし、2010年4月には同美術館から『ハイカラさんのおしゃれじょうず-銘仙きもの 多彩な世界』が刊行された。
こうした銘仙ブームは、現代の着物にはまったく失われてしまった大胆で前衛的な大柄と、原色を多用し多色を巧みに配した強烈な色彩感覚が作り出す華やかで艶やかなイメージに多くの着物好きが魅せられたからであり、銘仙そのものが現代着物へのアンチテーゼとなっている。銘仙のそうした性格は、2000年代に成立する「着物趣味」の方向性と合致し、それゆえに重要なアイテムとなったのである。
4 「規範」を越えて ―「着物趣味」の成立―
2000年代前半のアンティーク着物ブームの中で成立する「着物趣味」の基本コンセプトは、大正・昭和戦前期の着物文化の再評価とそれへの回帰である。それは、1970年代以降に形成された地味=上品に固定化された「美しい着物世界」や、「着付け教室」が流布する厳格な着用規範への反発と表裏一体だった。それはまた、すっかり特別な場の衣服になってしまった着物から、本来の日常性を取り戻す方向性だった。和装文化の伝統を意識しつつも、戦後の着物世界が作り上げた規範から自由に、好きな着物を着たいように着る、というスタンスだ。
日本の女性着物は、既婚か未婚かの区分が明瞭で、それが身分標識にもなっていたが、アンティーク系の場合、そうした境界も越えてしまう。ミセスであっても、派手な着物、目立つ帯を厭わない。振袖だって着てしまう。白半襟、白足袋という「美しい着物世界」の「常識」に対し、色半襟・刺繍半襟、色足袋・柄足袋が好まれる。着物と帯、そして小物類(半襟、帯揚、帯締、足袋)の色合わせ・柄合わせや帯結びに凝る。髪も、お正月やイベントには、すでに見かけることも稀になった日本髪を結う。
「美しい着物世界」の人に比べて行動性が高いので、着付けも前合わせは浅く、したがって襟のy字は深く半襟をたくさん露出し、襟もかなり抜く。「着付け教室」で「下品なのでやってはいけません」と教えられることばかりである。そして、いつでも(仕事以外)どこにでも着物で出掛ける。休日、近所に買い物に行くのも着物だし、国内旅行はもちろん、海外旅行も着物で行く。履物は、たくさん歩くので、草履より下駄が好まれる。なにより、着物も帯も「値段の高きをもって貴しとせず」で、その人の個性に合ったコーディネートや創意工夫が評価される。
こうした方向性・嗜好は、ほとんどすべて「美しい着物世界」への明確なアンチテーゼである。したがって、当然のことながら、従来の規範を順守する「美しい着物世界」の人たちからの反発も大きかった。ネット上で「ぼろ着て何が楽しいの?」「お女郎さんの集まり」「座敷牢から抜け出してきたみたい」と批判されるのは常のことで、銀座で集まっていた時、見知らぬ中年女性(洋装)にいきなり「ここは銀座なんだから、日本の恥になるようなみっともない着方はしないで!」と面と向かって言われたこともあった。単なる好奇の視線には慣れっこだが、さすがに「日本の恥」とまで言われるとは思っていなかった。
しかし、そこまで強く反発されるということは、従来の着物世界の規範を越えた、新しい、そして特有の方向性が成立したということである。既存の着物世界から批判されたことで逆に「私たちの着物趣味とはこうなんだ、これでいいんだ」という意識が仲間たちの間で共有化されていった。こうして、第3の要件が満たされ2000年代前半に新しい「着物趣味」の世界が成立した。
【写真5】アンティーク銘仙のコーディネート。
モデル:(左)小紋、(右)YUKO
2人とも「アラフォー」のミセス(2005年3月)
Ⅳ 新しい着物世界
1 着物趣味イベントの開催
2000年代中頃になると、「着物趣味」の成立を背景に、従来の「オフ会」からさらに発展した着物趣味イベントが開催されるようになる。ここでは東京で開催され、私も参加したことがある代表的な2つの着物趣味イベントを紹介してみたい。
① 「きものde銀座」
「きものde銀座」は毎月1度銀座で開催される「着物好き」の集会イベントで、「男のきもの大全会」の派生イベントとして1999年12月に第1回が開催された。最初は毎週土曜日開催、着物男性だけの集いだったが、2000年2月からは月1回(毎月第2土曜)となり、着物女性も参加するようになった。主催者はなく、当初は「旦那さん」(牧田氏)が事務局を担当していたが、2006年以降は有志の当番制で運営している。着物で集まる人も会員制ではなく、まったくの任意参加である。
15時に銀座4丁目交差点「和光」前で待ち合わせ、「歩行者天国」の中央通りを1丁目方向に歩き「ティファニー」前で集合写真を撮影、その後は自由行動で、なにかイベントがあれば行きたい人はまとまって行く。17時半頃から「土風炉・銀座1丁目店」で懇親会(会費3000円)となり、20時前後にお開き、希望者は二次会へという毎回同じスケジュールで、途中参加・離脱も自由である。
コンセプトは文字通り「銀座で着物を着る」ということだけ。参加者の着物のスタイルもアンティーク系、「ふだん着着物」系から「美しい着物」系まで様々であり、どんな着方であっても批判しないことになっている。
2008年4月8日に第100回を迎え、2013年12月には168回となる。台風でも大雪でも中止せず(連絡方法がないため)、東日本太平洋沖大地震の翌日(2011年3月12日)にも20数名の参加者で開催された。最初期には参加者1名ということもあったが、近年は集合写真を見る限り40~60名くらいだろうか(註3)。
主催者がいない有志持ち回りの運営と、参加も着方も自由度が高い「緩い」形態が「着物趣味」のイベントとして最も長続きしている秘訣だと思う。
【写真6】第100回「きものde銀座」(2008年4月8日)
【写真7】2009年1月の「きものde銀座」。
日本髪を結い大振袖を着て築地・波除神社に初詣
② 「日本全国きもの日和」
「日本全国きもの日和」は、「きものであそぼう」をスローガンにした着物ファンの手作りイベントで、「玉龍」こと西脇龍二氏を中心とした「実行委員会」が運営している。メンバーの多くは「きものde銀座」で出会っている。11月3日を「きもの日和」として全国各地で着物イベントの開催を呼びかけ、第1回は7都市、第2回は20都市、第4回は25都市で「きもの日和」が開催され、「着物趣味」の地方への波及に大きな役割を果たした(註4)。
メイン会場である「きもの日和TOKYO」は、恵比寿のイベントホール「EBIS303」で2004年から2008年まで5回開催され、入場者は第1回が1500人、第3回(2日開催)は3000人だった。モデルもスタッフもすべて着物仲間で構成する本格的な「きものファッションショー」は観衆の注目の的だった。さらに、着物写真集『Kimono人』(2005、2006、2007の3冊)を自費出版した。
また、中心メンバーは、毎年5月に開催される静岡県下田市「黒船祭」に出張し、「賑わいパレード」に参加し、野外ファッションショーを開催している。
しかし、2007年の第4回から入場者、出店、広告が減少し赤字となり、経済不況(リーマン・ショック)もあって2009年11月に計画された「きもの日和TOKYO」は延期になってしまう。2010年3月に「きもの日和with目黒雅叙園」として開催されたが、2011年4月の開催予定が東日本大震災の影響で中止になった後は復活していない。
【写真8】「きもの日和TOKYO 2004」の冊子(2004年11月
【写真9】「きもの日和TOKYO」の「きものファッションショー」(2006年11月)
【写真10】「下田黒船祭」の野外ファッションショー。
「ペリー・ロード」の橋の上が舞台(2007年5月)
【写真11】「下田黒船祭」の賑わいパレード(2008年5月)
日本髪は美容院ではなく自分で結う
2 着物イベントの問題点
着物イベントに参加して、気付いた問題点を整理しておこう。第一はお金の問題である。「きもの日和TOKYO」のように、意欲的に活動を展開した結果、イベントの規模があまりに拡大してしまうと、集客や採算のような「趣味」とは性格が異なる要請が発生してしまう。また必要な経費が大きくなれば、経済・社会情勢の影響を大きく受けるようになる。「趣味」とは本来、浪費だが、あまり補填しなければならない金額が大きくなると、「趣味」の仲間では耐えられなくなる。といって、企業の協賛・支援を受ければ、商業資本の論理が入ってきて、ますます「趣味」の領域から外れてしまうジレンマがある。「趣味」としては拡大路線一筋ではなく適正規模を保つことも必要だと思う。
第2は、着物イベントのジェンダー的な構造問題である。端的に言えば、リーダーシップをとる男性、イベントの「華」としての女性という基本構造がそこにある。たとえば、ファッションショーやパレードで、男性リーダーの指示で若手の女性や美しい女性が目立つ場所に配される傾向は明らかにあった。それもまた社会的要請なのかもしれないが、必ずしもそうでない女性たちからは不満が出ることになる。
第3は、セクシュアリティの問題で、大人の男女が集まり、懇親会などでお酒が入ると、男性による女性へのセクシュアル・ハラスメントが発生する。その場合、運営側の男性のセクハラ認識が甘いと、結局は被害を受けた女性が泣くことになってしまう。
第4は、和装女装趣味の男性の問題で、近年は「女装」を禁止する着物イベントが増加している。和装文化に女形が貢献してきた度合いを考えれば、まったく理不尽と言いたくなる。そして、「女装禁止」の結果、日常的に女性として生活しているMtF(Male to Female)のトランスジェンダーまでが排除されることになってしまう。これは性的マイノリティに対する不当な社会的排除である。
第5は、高齢化の問題で、他の趣味の世界と同様に若い人がなかなか入ってこない。2000年代初頭のアンティークブームを担った30~40歳代は、10年たった現在40~50歳代であり、さらに10年たてば…である。今のままでは先細り傾向は免れないだろう。
これらの問題、とりわけ第2~5の問題は、着物趣味の世界だけの問題ではなく、日本社会が抱える問題の投影である。しかし、比較的柔構造な「趣味」の世界の特性を生かし、しっかりした認識をもって対応すれば、ある程度は改善可能な問題であると思う。
おわりに ―着物趣味の将来―
1 着たい着物がなくなる
現代の「着物趣味」、とりわけアンティーク派にとっての最大の不安は、近い将来、着たい着物がなくなってしまうのではないか、ということである。なんら特徴のない「つまらない」現代着物は巨大なデッドストックがあるのに、着たいと思うようなアンティーク系の着物はどんどん消えていく。和装文化の全盛期(1926~1936)に作られた銘仙・お召は、すでに80年前後が経過し耐用年数が過ぎつつあり、衣類としての寿命が尽きるのはもう遠いことではない。せめて、あと10年もってほしいと思うのだが。
また、現代女性の体格向上により、女性が小柄・低身長だった時代に作られたアンティーク着物を着られる人が減っている。こうした状況で頼りになったのは、2000年代の銘仙ブーム期に足利・伊勢崎などの旧産地で生産された復刻銘仙だった。復刻銘仙は、問屋価格で5~6万円、小売価格では8~10万円になってしまうので、かってのような普及は無理だったが、それでも、私のように身長が高い銘仙好きにはとてもありがたかった。しかし、わずかに残っていた職人さんの高齢化や逝去によって、2010年代初めに生産が途絶えてしまった(註4)。
先染め(糸を染めて柄を織り出す)の織物は技術的に難易度が高く、現状ではいったん絶えた技術の復活は望めそうにない。それが無理なら、せめて「全盛期(昭和戦前期)」のデザインを、後染め(糸を布に織った後で染める)の染物で再現してほしい。幸い現在ではアンティーク着物の色柄をコンピューターに取り込み、補修を加えた後に、インクジェット・プリンターで布地にプリントすることが容易になった。銘仙写しの浴衣や小紋が増えてくれればと思うのだが、現在の着物業界の沈滞した状況では、それも難しそうだ。
2 コスチューム・プレイとして
生産面では大きな不安があるが、着物をファッション・アイテムと考えた場合、その将来に希望はなくもない。
着物が日常の衣服としての機能を失い、着物を着る人がファッション・マイノリティになったことで、社会の服飾規範を超越する、ある種の自由を獲得できた。そもそも着物を着ていることが「変わり者」「外れ者」なのだから、細かな社会規範に縛られることはない。
そう思いきってしまえば、着物は自己主張、自己表現の手段として、そして変身のアイテムとして絶好である。コーディネートに工夫を凝らせば、立派な会社勤めの男性が任侠系の「あぶなそうな兄さん」に、まともな会社のOLさんや良家の奥様が芸者やお女郎上がりの「あやしい姐さん」に変身できる。背景や小道具に気を使えば、あっという間に昭和初期や昭和30年代にタイムワープした写真を撮ることも可能だ(三橋2006)。
【写真12】石仏に祈る村娘(昭和初期風)
モデル:YUKO
撮影:2008年2月、埼玉県秩父市金昌寺
【写真13】「赤線」の女(昭和28年設定)
モデル:YUKO
撮影:20010年10月、東京「鳩の街」旧「赤線」建物(娼館)をバックに
今や着物は、社会的立場を変え、年齢を化けて、時空すら超える力を持つようになった。それを活用しない手はない。21世紀の着物趣味は、こうした「着物で遊ぶ」、コスチューム・プレイとしての方向性をより強めていくことになると思う。
日本人の伝統衣装という路線では、美術工芸品としてはともかく、衣類としての着物はもう生き残れない段階になっている。「着物趣味」の仲間たちが目指してきた創造性のある自己表現のファッション・アイテムという方向こそが、着物という日本人の民族衣装を次の世代に伝える道だと私は思う。
(註1)村上信彦『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社、1974年)だけが、この時代の和装文化の発展に正当な評価を与えている。
(註2)主なものを掲げると、京都古布保存会「京都に残る100枚の銘仙展」(東京世田谷「キャロットタワー」、2005年3月)、須坂クラッシック美術館「大正浪漫のおしゃれ―銘仙着物―」(長野県、2007年8月)、京都府城陽市歴史民俗資料館「銘仙―レトロでモダンでおしゃれな着物―」(京都府、2008年8月)、神戸ファッション美術館「華やぐこころ―大正昭和のおでかけ着物―」(兵庫県、2008年11月)など。
(註3)の公式サイト「着物de銀座」(管理人:京屋悟雀氏)を参照
http://www.kimono-de-ginza.net/sub2.htm
(註4)2013年段階で継続しているものとして「着物日和in信州須坂」「奈良きもの日和」「きもの日和 in TOMO」(広島県福山市鞆の浦)などがある。また「群馬きもの復興委員会」「NPO法人川越きもの散歩」のように、それぞれの地域で積極的な着物普及活動をするグループも増えた。
(註5)京都の着物問屋「きものACT」が現地の職人さんに依頼して生産していた足利銘仙は2010年頃に、NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」(2011年度後期)で話題になった「木島織物」の伊勢崎銘仙は2012年末に生産が止まった。
文献
石川光陽1987『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社)
小泉和子2000『昭和のくらし博物館』(河出書房新社)
通崎睦美2002『天使突抜一丁目 ―着物と自転車と―』(淡交社)
鳥羽亜弓2001『浴衣の次に着るきもの(アミサンノキモノ)』(インデックス出版)
日本きもの文化美術館2010『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』(日本きもの文化美術館)
早坂伊織2002『男、はじめて和服を着る』(光文社新書)
別冊太陽2000a『昔きものを楽しむ(1)』(平凡社)
別冊太陽2000b『昔きものを楽しむ(2)』(平凡社)
別冊太陽2001『昔きものと遊ぶ』(平凡社)
別冊太陽2002『昔きものを買いに行く』(平凡社)
別冊太陽2003『昔きものの着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004a『昔きもの 私の着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004b『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着物―』(平凡社)
村上信彦1974『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社)
三橋順子2002「艶やかなる銘仙」(『KIMONO道』2号、祥伝社。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
三橋順子2006「着物マイノリティ論」(『Kimono人 2006』きもの日和実行委員会)
三橋順子2010「銘仙とその時代」(『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』日本きもの文化美術館)
日常衣料だった「着物」が非日常化し、さらに「趣味化」していく過程を、和装文化の展開を踏まえて、まとめてみた。
欲張った内容なので不十分な点は多々あるが、自分が考える和装文化の衰退と「着物趣味」の成立の流れを、まとめることができたと思っている。
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「着物趣味」の成立 三橋 順子
【概要】
本来、日本人の日常の衣料であり、洋装化が進んだ戦後においても時と場を限定しながら衣料として機能していた着物(和装)の世界に、2000年頃からひとつの変化が現れる。それは着物の趣味化である。「着物趣味」は戦後の和装世界で形成されたさまざまな規範を超越しながら、ある種のコスチューム・プレイとして新たな展開をみせていく。本稿では、近代における和装文化の流れを踏まえながら、着物趣味の成立過程をたどってみたい。
キーワード 着物 趣味化 コスチューム・プレイ
はじめに
まず「趣味」とは何か、ということを考えておこう。「趣味」を辞書で引くと、「①仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。②どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(『大辞泉』)というように、だいたい2つの意味が出てくる。ここで論じる「着物趣味」の「趣味」は①である。さらに、人間だれしもが持っている時間に注目すれば、趣味とは、食事や睡眠などの生活必要時間、仕事や職業、家事などの労働時間以外の自由時間(余暇)に営まれるものと言うことができる。たとえば、私のように、ほぼ毎日、自分と家族のために食事を作っている人は「料理好き」かもしれないが、それは家事労働であって「料理趣味」ではない。料理趣味とは、日頃、家庭で料理をしない人が、休日などの余暇を利用して日常の食べ物とはちょっと違うレベルのものを料理することを言うのだと思う。
次に「着物趣味」の成立の要件を考えてみたい。着物が生活衣料である間は、着物を着ることは日常に必要な営みであって、趣味にはならない。私の明治生まれの祖母は2人とも、生涯、ほとんど和装しかしなかった人で、毎日、着物を着ていたが、それは「趣味」とはまったく遠い。そうした着物が日常衣料だった時代にも、裕福で高価な着物をたくさん誂える人はいたが、それは「着道楽」であって、「着物趣味」とは言わなかった。つまり、着物が趣味化して「着物趣味」が成立する前提、第1の要件として、着物が日常衣料としてのポジションを失うことが必要になる。
最初の辞書的定義のように「趣味」は本来、個人のものだ。しかし、個人が孤立している間は、ほとんど社会性を持たない。「趣味」がある程度の社会性をもつためには、同じ「趣味」をもつ「同好の士」が集まることが必要になる。つまり、「着物趣味」の同好の士が横のつながりをもって集うことが「着物趣味」の成立の第2の要件になると考える。
そして、その仲間たちの間で、「着物趣味とはこういうものだ」という意識、ある種の規範が共有される。その共有された規範が仲間としての意識を強化していく。こうした特有の規範の成立を第3の要件と考えたい。
Ⅰ 日常衣料としての和装の衰退 ―趣味化の前提として―
1 洋装化と和装の衰退
明治の文明開化とともに日本人の洋装化が始まる。西欧近代文化の輸入と模倣に懸命な新政府は鹿鳴館(1883)に象徴される洋風文化を演出するが根付かなかった。洋装化は軍人の軍服、巡査の制服、官公吏の上層部や洋行帰りの学者など、男性のごく一部に止まり、女性の洋装化はほとんど進展しなかった。
大正後期から昭和初期(1920~36)になると、洋服を着たモダンボーイ(モボ)とモダンガール(モガ)が最新の流行ファッションとして注目されるようになる。とりわけ、女性の洋装化の端緒となったモガへの社会的注目度は高かった。しかし、それは都市における尖端文化ではあったが、全国的・全階層的な広がりを持つものではなかった。
一方、この時代は和装にも大きな変化があった。化学染料と力織機の普及により銘仙やお召などの絹織物の大量生産が可能になり、それまで木綿の着物しか着られなかった階層にまで絹織物が普及していく。
昭和初期に大都市に出現するデパートは、絹織物としては安価な銘仙を衣料品売り場の目玉商品に据える。そして、産地と提携した展示会などを開催して積極的に「流行」を演出していった。
主要な産地(伊勢崎、秩父、足利、八王子など)は、デパートが演出する「流行」に応じるために熾烈な競争をしながら、デザインと技術のレベルを高めていった。その結果、アール・ヌーボーやアール・デコなどヨーロッパの新感覚デザインが取り入れられ、「解し織り」(経糸をざっくりと仮織りしてから型染め捺染した上で織機にかけて、仮糸を解しながら、緯糸を入れていく技法)など技術の進歩によって多彩な色柄を細かく織り出すことが可能になった。こうして、従来の着物とは感覚的に大きく異なる、華やかで斬新な色柄の銘仙が大量に市場に供給され、銘仙は都市大衆消費文化を代表する女性衣料としての地位を確立する(三橋2010)。
【写真1】銀座4丁目交差点(昭和7年=1932年)
出典:石川光陽『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社 1987年)
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写真1は、1932年(昭和7)の銀座4丁目交差点である(石川1987)。男女とも和装・洋装さまざまな服装の人が行き交い、この時代の服飾文化の豊かさを思わせる。右側、仲良く連れ立った2人の女性の1人は、典型的なモガ・ファッションだが、もう1人は大きな麻の葉柄の振袖で、おそらく銘仙と思われる。また左側の袴姿の女子学生の着物は直線を交差させたアール・デコ風の銘仙だと思う。そしてその右の男の子を連れた母親は縞お召、もしくは縞銘仙を着ていると思われる。
この時代における銘仙・お召の流行が見て取れるが、日本近代の服飾史を洋装化の歴史としか見ない従来のファッション史のほとんどは、モガの出現に注目するあまり、この時代が大衆絹織物の普及による女性の和装文化の全盛期であったことを見落としている(註1)。
日中戦争から太平洋戦争の時代(1937~45)になると、軍服や国民服の着用によって男性の洋装化が進行する。また戦時体制への移行にともない繊維・衣服の統制が行われ、「贅沢は敵だ!」のスローガンのもと、女性の和装文化が抑圧されていった。また、戦地に赴く男性に代わる労働力として、「非常時」への対処として、女性の衣服にも活動性が求められ、そうした社会的要請から着物の上に履くズボン型衣料としての「もんぺ」が普及する。そして、戦争末期には、アメリカ軍の空襲によって繊維製品生産と流通機構が破壊されてしまう。
戦後混乱期(1945~51)は、戦災による物資の欠乏に始まり、繊維素材・製品の統制が衣料品の不足に輪をかけた。そうした中、日本を占領した進駐軍がもたらしたアメリカ文化への崇拝、日本の伝統文化否定の風潮が強まり、和装は旧態の象徴になっていく。その結果、戦時中に進行した男性の洋装化に加えて、女性の家庭外での洋装化が大きく進行する。
そして高度経済成長期(1960~75)になると、経済効率を優先した社会システムの画一化が進む。衣服における画一化はすなわち洋装化であり、企業にでも学校でも洋装が一般化・標準化する。同時に、家庭生活の洋風化も進行し、それまでは外では洋装、家では和装が主流だったのが、家庭内においても男女ともに洋装化が進んだ。
こうして、和装は生活衣料としてのポジションを失っていった。その時期は、地域によって差はあるが、東京などの大都市では1960年代後半から70年代前半の時期に押さえることができると思う。
2 女性着物の多層性の崩壊
1960年代後半から70年代前半に起こった注目すべき現象のひとつは、女性着物の多層性の崩壊である。
(表1)着物の階層性
着物を着る場が大きく狭まった結果、礼装・社交着としての着物は残ったものの、街着・家内着・労働着としての着物(お召・銘仙・木綿・麻)は洋装に取って代わられ衰退した。新たに茶道などの「お稽古着」が登場し、色無地や江戸小紋が好んで用いられるようになる。また、本来は家内着だった紬は高級化して社交着化する。階層性の崩壊と同時に、着物の材質も多様性が失われ、木綿・麻・ウールなどは、ごく一部が高級化して残った以外は姿を消し、着物と言えばほとんどが絹という状態になっていく。
3 「着付け教室」の登場と規範化
この時期に起こったもうひとつの注目すべき現象は「着付け教室」の登場である。1964年(昭和39)に「装道礼法きもの学院」が、1967年に「長沼静きもの学院」(当時は「長沼学園きもの着付け教室」)が、そして1969年には「ハクビ京都きもの学院」が創立され、「着付け教室」として全国的に展開していく。現在に続く大手の「着付け教室」が1960年代後半に創立されたことは偶然ではなく、それなりの社会的理由が有ったからだと思われる。
男性の着付けに比べて女性の着付けは帯結びが複雑・多様であるが、それにしても、着物の着付け、帯の結び方は、母や祖母から娘が生活の中で教わり習い覚えるもので、月謝を払って習うようなものではなかった。しかし、戦中・戦後混乱期に着物を思うように着られなかった女性が母親になった時、成長した娘に着物の着付けを伝授できない事態が発生したと思われる。
たとえば、1925年(大正14)生まれの女性は、戦間・戦後混乱期(1941~50)には16~25歳だった。23歳で娘を産めば、1967年には母親42歳、娘19歳である。成人式が間近になった娘に着付けを教えようと思っても、自分の和装経験が乏しく自信がないというようなケースである。祖母がいれば助けてもらえるだろうが、都会で核家族となると、そうもいかない。どこか教えてくれる所はないだろうか?
この時期に「着付け教室」が次々に創立された背景には、そうした戦争による母から娘へという和装文化の継承断絶が生んだ需要があったのではないだろうか。
着物の着付けは、いたって不器用な私の経験からして、単に着るだけなら、3日も習えば、なんとか着られるようになり、後は反復練習である。器用な人なら1日で覚えられるだろう。しかし、それでは月謝を取って教える「着付け教室」の経営は成り立たない。したがって、「着付け教室」では手っ取り早い簡便な着付けを教えず、いろいろと複雑な手順で教える。さらにごく日常的・庶民的な着付け法ではなく、戦前の上流階級の着付け法をベースにして伝授する。その方が付加価値が高いからである。
実際、この時期の著名な着付け指導者には、戦前の上流階級の女性が多かった。1970年にベストセラーになった『冠婚葬祭入門(正)』(カッパ・ホームス)で「着付け」法を広めた塩月弥栄子(1918~)は裏千家14世家元碩叟宗室の娘であり、1973年から「ハクビ総合学院」の学長を務めた酒井美意子(1926~99)は旧加賀藩主で侯爵の前田利為の娘で、旧姫路藩主で伯爵の酒井忠元の妻だった。
こうした戦前の上流階級の女性たちによって、自分で働かなくてよい上流階級の「奥様」「お嬢様」の非活動的な着付けがマニュアル化され、「着付け教室」で教えられ規範化していった。その結果、着物の着方がすっかり様式化し「こう着なければいけない」という形ができ上がる。
本来、生活衣料であった着物には、その状況に応じた着付け方があった。働く時には身体を動かしやすいように楽に緩めに着付けし、たくさん歩く時には裾がさばき易いように合わせを浅めにしてやや裾短かに着付けるなどといった着付けの融通性が失われてしまった。こうして、働けない、身動き不自由な、皺ひとつ許されないきっちりした、着ていて苦しい着物の着付けが成立する。
習わなければ自分で着られない衣服は、もう日常の生活衣料とは言えない。こうした過程をたどって、着物は日常の衣服としての機能を喪失していき、特別な場合、たとえば、お正月、冠婚葬祭(成人式、結婚式、葬儀、法事)などの非日常の衣服となり、あるいは特殊な職業の人(仲居、ホステスなど)の衣服になってしまった。
Ⅱ 「美しい着物世界」の成立
1 高級化と「美しい」の規範化
着物が生活衣料の地位を失い、特別な衣服になったことで、着物の生産・流通業界は、安価な大量生産中心から高価な少量生産へと転換していく。かっての主役だった銘仙やお召はまったく見捨てられ、手作業のため少量生産しかできなかった各地に残る紬が見出され、そのいくつかが付加価値がある織物として高級品化していった。
たとえば、1933年(昭和8)に秩父産の模様銘仙は5円80銭~6円50銭だった。当時の6円は現代の21000~24000円ほどと考えられ、中産階層なら1シーズン1着の購入が可能な値段だった(三橋2010)。ところが、1999年(平成11)に八丈島特産の黄八丈の反物は48万円もした。平均的な収入の人だったらローンでも組まない限り購入は難しい。
こうした着物の高級品化時代に主な情報媒体となったのが婦人画報社(現:ハースト婦人画報社)の『美しいキモノ』(1953年創刊・季刊)に代表される着物雑誌である。この種の着物雑誌の中身は、高価な着物のオン・パレードであり、安価な着物やまして古着などはけっして登場しない。高価な着物を売りたい着物業者と、そうした高価な着物を購入できる富裕な奥様・お嬢様の「美しい」「上品な」着物世界である。私はこれを「美しい着物世界」と呼んでいる。
「美しい着物世界」の特徴は、誌名通り「美しさ」と「着物」とが過度に結合したことである。『美しいキモノ』は、創刊以来毎号、高価な着物を着た女優さんが表紙を飾るのが通例で、中の誌面もほとんどがプロのモデルの着物姿である。その姿はたしかに美しく、なるほど誌名にふさわしい、と思ってしまう。しかし、着姿が美しいのはもともと美しい女優やモデルが着ているからであって、同じ着物を一般の女性が着ても必ずしも美しくなるとは限らない。
着物が日常の衣料であった時代、そんなことは考えるまでもなく誰もが解っていることだった。ところが、着物が非日常の衣服になるにつれて、わざわざ着物を着て特別の装いをするのだから、きっと美しくなるに違いない、というある種の期待が生まれてくる。実際にはそうなる場合もそうならない場合もあるわけだが、着物業界は、そうした期待感を利用して、着物雑誌の誌面を通じて「着物を着ている人は美しい」というイメージを流布し、「着物を着れば美しくなれる」さらに「高価な着物を着ればより美しくなれる」という幻想(錯覚)を喚起し、売り上げの向上につなげるという戦略をとった。
「着物を着ている人は美しい」というイメージは、やがて「着物を着ている人は美しくなければならない」という非現実的な意識に転化していき、必ずしもそうならない女性たちを着物世界から遠ざけることになった。
2 色・柄の衰退
日本の女性の和装文化は、江戸時代には遊廓の高級遊女(花魁)がファッションリーダーであり、明治以降も芸者をはじめとする玄人筋が大きな比重を保っていた。着物が生活衣料としての地位を失っていく時代になっても着物を着続け、着物業界の売り上げのかなりの部分を担ったのは銀座や北新地に代表されるクラブ・ホステスたちだった。にもかかわらず、「美しい着物世界」では、こうした玄人の着物は徹底的に無視・排除される。間違っても「銀座クラブママの着こなしに学ぶ」などという特集は組まれない。
「美しい着物世界」の着物のコンセプトは、あくまでも「上品」である。これを意訳すれば「玄人っぽくない」ということになる。具体的には、色味の弱い色、小さ目の柄、つまり自己主張の弱い「控えめ」が上品とされる。色については、原色や強い色は忌避され、薄い色、さらには無彩色(白・黒・グレーの濃淡、銀)が好まれる、柄は巨大柄・大柄が避けられ、比較的小さめの柄を反復する小紋や、細かな点で小さな意匠を全面に置く江戸小紋、さらには柄が消失した色無地が好まれるようになる。また、日本の伝統的な意匠である縞も、太縞や棒縞のようなシンプルで大胆なものは忌避され、細縞やよろけ縞のような控えめなものが好まれる。太縞や棒縞がもつ粋なイメージが玄人(粋筋)を連想させるためと思われる。
こうした傾向は着物の階層性が崩壊し、「お稽古着」の比重が増した結果、万事派手を嫌い、地味を上品とする茶道の世界の「趣味」が着物全体に影響を及ぼすようになったことが作用していると思われる。その結果、戦前の着物に比べて、現代の着物は、色は淡く、柄は小さく、色柄のバリエーションが少なくなり、創造性が失われ類型的となり、個性的でなく画一化が進んでしまった。服飾デザインという見地からすれば、明らかな退化であるが、商業的にはそうした無個性な無難な着物でないと売れなくなってしまったのである。
3 高級化の帰着と「趣味の着物」
こうした着物の高級化は、着物の世界をますます狭めていった。何10万円という衣料を次々に購入できるような富裕層がそんなに多いはずはない。「和装が好き、着物を着たいけど高くて手が出ない」という階層の方がずっと多かった。それでもバブル経済期(1980年代後半)はまだよかった。驚くほど高い着物が売れた。たとえば、染色家の久保田一竹(1917~2003)の一竹辻が花の訪問着が1200万円とか。しかし、購入された高価な着物が実際に着られたかというと必ずしもそうでもなく、多くは「箪笥の肥やし」と化し、着物世界が再び拡大することにはつながらなかった。そして、バブル崩壊後、着物業界は大量の在庫を抱えたことに加えて、バブル期の「箪笥の肥やし」がリサイクル市場に放出されることで、新規需要の落ち込みに苦しむことになる。
ところで、1980年代には「趣味の着物」を看板にする店が現れる。目の肥えた顧客を相手に、普及品ではなく高級紬や作家物など厳選された商品を扱う店である。しかし、この「趣味」は、「はじめに」で紹介した辞書の②の意味「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」と解釈すべきだろう。「良いお着物の趣味でいらっしゃいますわね」の「趣味」である。この時点では、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という①の意味での「着物趣味」はまだ成立していなかった。
4 男性の和装の(ほぼ)絶滅
写真2は、1959(昭和34)正月のある一族(東京在住)の集合写真である(小泉2000)。
【写真2】ある一族のお正月(昭和34年=1959年)
出典:小泉和子『昭和のくらし博物館』(河出書房新社 2000年)
成年女性8人はすべて和装である。これに対して成年男性4人は家長と思われる1人が和装なだけで他の3人は洋装である。また子供たちも女児6人が和装4、洋装2であるのに対し男児2人はいずれも洋装だ。つまり、男性の和装はおじいちゃんだけという状態で、男性の洋装化=和装の衰退が女性のそれよりもかなり早く進行したことがはっきり見てとれる。
お正月ですらこの状態なのだから、平常時において男性が和装する機会はいよいよ乏しくなっていった。歌舞伎役者、茶道家、落語家、棋士など一部の限られた職業の男性の需要に応じた生産は続けられていたが、1970年代後半から80年代になると、男性の着物は高級品を除き店頭から姿を消していく。和装趣味の青年が着物を着たいと思っても、(彼の手が届く範囲では)「どこにも売っていない」状況になり、着付けのマニュアル本からも男性向けの記述はほとんどなくなってしまう(早坂2002)。こうして、1980年代後半から90年代前半には、男性着物はほぼ絶滅状態になり、着物は女性の物という社会認識が定着し、着物世界におけるジェンダー的な乖離は極限に達した。
こうして、着物趣味の成立の第1の要件である日常衣料としての地位の喪失は、少なくとも1980年代末には完全に達成されていた。しかし、まだこの時期には、着物世界の人間関係は、着物を売る着物屋と着物が好きで買う客の商業的関係であり、着物好きの客同士の横のつながりは、ほとんどなかった。第2の要件である着物好き同士の横のつながりができるまでには、もう一段階が必要だった。
Ⅲ 情報革命と着物世界 ―趣味化への胎動―
1 「着ていく場所がない」
着物を着て家を出ると、顔見知りの近所の奥さんに「あら、お着物でお出かけ? 今日は何かありますの?」と興味津々に尋ねられる。多くの着物好きの女性が経験したことだ(男性の場合はさらに不審がられて声も掛けられない)。1990年代になると、日常性を完全に喪失し衣服として特殊化してしまった着物には「着る理由」が必要とされるようになってしまった。「ただ着物を着たい」、「着て出かけたい」ができない状況が生じたのである。
「近所でジロジロ見られるので、着物で出掛けられない」、「変わり者扱いされるので(着物のことは)周囲の人に黙っている」、そんな話を聞いて「なんだ、女装と同じではないか?」と思ったことがある。冗談ではなく、1990年代には、着物のファッション・マイノリティ化はそこまで進行していた(三橋2006)。
実際、堂々と着物を「着られる場所」「着る機会」は少なかった。お正月は年に1度だし、結婚式に呼ばれる機会もそうはない。そうした状況の中で、「鈴乃屋」や「三松」のような大手の着物チェーンが「着物を着る場」としてイベントを企画・開催するようになる。しかし、お商売だから当然なのだが、そうしたイベントは着物展示会と併設されていたり、そうでなくても「お出かけ」の度に着物を作ることを勧められ、結局、多大の出費をすることになる。そうした制約なしに、「気楽に着物を着る場・機会があればいいのに」と、着物好きの多くが思うようになっていた。
2 パソコン通信からインターネットへ
1997年8月、パソコン通信「NIFTY-Serve」の中に「きものフォーラム」が開設される。「NIFTY-Serve」のサービス開始(1987年4月)から10年も後のことだった。そして11月25日には東京赤坂の「全日空ホテル」で「きものフォーラム」の「オフ会」(オフライン・ミーティング)が20名の参加者で開催された(早坂2002)。
これはパソコン通信と趣味の世界の結合としてはかなり遅い。たとえば女装趣味のパソコン通信「EON」(主宰:神名龍子)は1990年に創立され、その活動を通じて1995年頃にはすでに「電脳女装世界」ともいうべき女装仲間の横のつながりが形成されていた。1996年4月に開催された「EON」ボード上に設置された「クラブ・フェイクレディ(CFL)」(主宰:三橋順子)の「オフ会(FL3)」には77名が参加している。そんなものと比較するなと言われるかもしれないが、パソコン通信を通じての仲間の結合という点で、この時期の「着物仲間」は「女装仲間」よりもずっとマイナーな存在だったことがわかる。
1996~97年頃から日本でもようやくインターネットが盛んになると、1997年に秋田県在住の「澤井夫妻」がインターネット上に「きものくらぶ」を開設する。これが日本最初のインターネット着物サイトと思われ、私が最初にアクセスした着物サイトも「きものくらぶ」だった。同年12月には早坂伊織氏が「男のきもの大全」を立ち上げ、これが最初の「男着物」専門サイトになった。
こうして、パソコン通信、次いでインターネットを媒介にして、日本各地に孤立、散在していた「着物好き」が結びつき、仲間化していくことになる。
3 「男着物」の復活と男性主導の「オフ会」
パソコン通信時代から代表的な「着物好き」として活躍する早坂氏の本業が「富士通」のシステムエンジニアだったように、また「きものフォーラム」の中に「男のきもの」会議室が設置されたように、パソコンの普及度、パソコン通信やインターネットへのアクセス率は、その初期においては男性の方が圧倒的に高かった。したがって、インターネットによる仲間化や「オフ会」の開催は男性が先行する。
早坂氏が主催する男着物の「オフ会」である「男のきもの大全会」が開催されたのは1998年10月だった(参加者50名)。1999年12月には、毎週土曜日に着物男性が銀座に集まる「きものde銀座」の第1回が開催される(参加者14名)。この集まりは1999年11月に開催された第2回「男のきもの大全会」から派生したものだった(早坂2002)。
こうした経緯をたどって、1990年代末に、ほぼ絶滅状態だった男着物が復活し仲間同士の横のつながりが形成されていった。1990年代末から2000年代初頭にかけて、着物趣味成立の第2の要件が整ったことになる。
4 「ふだん着きもの」への志向
「インターネットきもの」の初期に多くのアクセスを集めたサイトに「あみさんのきもの」(主宰・鳥羽亜弓)があった。このサイトの特徴は、地方在住の子育て中の主婦が毎日着物を着て生活しているという「特異性」にあった(鳥羽2001)。着物で日常を過ごし、家事を行い、子供を育てるという戦前期の日本の多くの主婦がしていたことが、すっかり特異なことになってしまったのである。
2002年に『天使突抜一丁目―着物と自転車と―』を出版したマリンバ奏者の通崎睦美も、着物で自転車に乗るという「特異性」で注目された(通崎2002)。明治~大正期のハイカラ女学生がごく普通にしていたことなのに。
また、現代風俗研究会の古参会員である磯映美は、「華宵」の名義で、2001年から2003年にかけて、散歩きもの普及員会ニュースレターとして「着物で、ぶらぶら」を刊行した。
こうした「ふだん着着物」、あるいは日常的な「着物暮らし」への志向は、日常性を喪失した和装文化に反発・逆行するものであり、その方向性はその後の「趣味化」の中に受け継がれていくことになる。
Ⅳ アンティーク着物ブームと「着物趣味」の成立
1 女性主導の「オフ会」の盛行
当初、男性主導だった着物「オフ会」も、女性のインターネットアクセス率が上がるにつれて、女性の参加が増加していった。男性主導の「オフ会」には、男性だけで語り合いたいホモ・ソーシャルなタイプと、主催者が「女好き」で積極的に女性の参加を勧誘するタイプとがあった。2000年頃に何度か開催された村上酔魚堂の「オフ会」は後者のタイプだった。
【写真3】「村上酔魚堂・浅草オフ会」(2000年9月)。
ここで後の「うきうききもの」の初期中核メンバーが出会う
そうした場で着物好きの女性たちが知り合い、その横のつながりをベースに、2001年頃から女性主導の「オフ会」が盛んに開催されるようになる。その代表は、東京を中心とした首都圏では「うきうききもの」(主宰:古川阿津子、2001~10)、京都を中心とした関西圏では「夏海の遊び着」(主宰:夏海、2001~ )であり、最盛期には月に数回ペースで「オフ会」を開催した。
【写真4】「うきうききもの」秩父銘仙オフ会(2002年4月)。
中央が主宰の「あつこ女将」
こうした「オフ会」は心置きなく好きな着物を着られる場であり、着物に関する様々な情報や工夫が交換され、またお互いの着こなしが参照され相互に影響を与えあった。そして、「オフ会」の様子がインターネットサイトにレポートされることで、新しい参加者を引きつけていった。2000年代前半は、インターネットと「オフ会」を通じて、女性の着物仲間が横のつながりを形成していった時代だった。
私も参加した「うきうききもの」では、初期のメンバーの間には、既存の着物世界への飽き足らなさ、不満が共通意識としてあった。地味=上品に固定化され、「着付け教室」が作り上げた厳格な着用規範に反発し、「もっとどんどん、自由に、楽しく着物を着たい!」「(ミセスだって)派手な着物を着てもいいじゃない!」という思いである。「美しい着物世界」とまったく異なる着物への志向・嗜好がそこにはあった。
2 アンティーク着物ブーム
女性主導の「オフ会」の盛行とほぼ時を同じくして、アンティーク着物ブームが起こる。その火付け役は「別冊太陽」(平凡社)の「昔きもの」シリーズだった。2000年3月の『昔きものを楽しむ(1)』に始まり、『昔きものを楽しむ(2)』(2000年11月)、『昔きものと遊ぶ』(2001年8月)、『昔きものを買いに行く』(2002年12月)、『昔きものの着こなし』(2003年4月)、『昔きもの 私の着こなし』(2004年5月)とほぼ1年1冊ペースで計6冊が刊行された。
このシリーズ、最初は「骨董を楽しむ」シリーズの1冊として刊行されたように、骨董的な価値のあるアンティーク着物を「収集して楽しむ」というスタンスだった。ところが途中から、アンティーク着物を「着て楽しむ」という方向に変化していった。表紙も最初は着物の意匠だったのが、3冊目の『昔きものと遊ぶ』は着姿になっている。
「別冊太陽」の「昔きもの」シリーズによってアンティーク着物への関心が急速に高まり、骨董屋や骨董市の露店で、古い着物を漁る人々が出現するようになる。とくに現代の着物に比べてデザイン性に富み、派手な色柄の銘仙やお召が注目され、それまで二束三文(500円以下)だった銘仙の古着がたちまち値上がりしていった。
そうして探し出し手に入れた古着を洗い繕って、場合によっては仕立て直す。手間暇を惜しまない。そして、その着物を「オフ会」で仲間たちにお披露目する。すると、「わ~ぁ、すてき、どこで手に入れたの?」「いくらだった?」と仲間から質問が飛ぶ。「○○の露天市でね、500円だったの。けっこう汚れていたから(着られるようにするのが)大変だったけど…」。こう答えるとき、それまでの労苦が報われ、ある種の達成感がある。
探す→洗う・直す→着る→仲間に見せる、このサイクルが毎月のように繰り返される。傍目から見れば、いい大人の女性が古着を漁り集め、着ることに夢中になっているわけで、いったいウチの娘(もしくは妻)は何をしているのだ、と呆れられることになるが、まさにそれが「趣味」なのである。
2002年6月には、アンティーク着物に特化した着物雑誌『Kimono道』(祥伝社、後に『Kimono姫』と改題)が創刊される。そのコンセプトは「アンティーク&チープ」であり、表紙に記されたリードは「キモノのはじめてはアンティークから」だった。
アンティーク着物の場合、値上がりしたと言っても、せいぜい1000円から5000円程度で千の桁で納まり、万の桁になることは少なかった。稀に数万円という高級アンティーク着物もあったが、当時、市販の現代着物の多くは20~50万円の価格帯だったから、それでも10分の1である。30万円の現代着物1枚を買う値段で、露天商から3000円のアンティーク着物が約100枚買える計算になり、すさまじい価格破壊ということになる。
安価なアンティーク着物がブームになったことは、それまで経済的な理由で着物を思うように着られなかった「着物好き」にとっては大きな福音であり、とくに20代、30代の比較的若い人たちが着物世界に参入できるようになった。20世紀後半の50年間一貫して長期低落傾向にあった着物人口は、21世紀に入って一時的にせよ増加に転じたのである。これは「趣味化」というある種の「突然変異」かもしれないが、長い和装の歴史の中で、やはり画期的なことだと思う。
2000年代のアンティーク着物ブームによって、東京白金の「池田」、原宿の「壱の蔵」などのアンティーク着物専門店はおおいに賑わい、コレクターとしても知られた店主の池田重子(1925~)や弓岡勝美の名も高まった。とりわけ池田は、新宿伊勢丹や銀座松屋などで「池田重子コレクション―日本のおしゃれ展―」(1993~2011)を何度も開催し、アンティーク着物の社会的認知を高めた。池田のコレクションとコーディネートは、アンティーク着物ファンの垂涎の的になった。
また、リサイクル着物の「ながもち屋」や「たんす屋」がチェーン展開するのもこの時期である。しかし、アンティーク着物ブームは既存の着物業界にはほとんど影響しなかった。
3 銘仙への注目
アンティーク着物ブームの中で、とりわけ人気度が高かったのが銘仙だった。銘仙とは、先染(糸の段階で染める)、平織(経糸と緯糸の直交組織)の絹織物である。その詳細については別稿に譲るが(三橋2002,2010)、大正~昭和戦前期においては、安い価格と豊富な色柄が、中産階層のお嬢さんの普段着、女中さんの晴れ着、もしくは、女教師の銘仙+女袴(行燈袴)、牛鍋屋の仲居の赤銘仙、カフェの女給の銘仙+白エプロンといったような職業婦人の仕事着として好まれ大流行した。戦後も生産は続いたが、主な着用層だった「お嬢さん」や職業婦人が真っ先に洋装化したこと、粗悪品の流通によりイメージが低下したことで徐々に衰退した。それでも、大柄で色鮮やかな模様銘仙は、自分を「広告塔」にする女性、具体的には「赤線」(黙認買売春地区)の「女給」(実態は娼婦)たちに愛用された。
着尺としての銘仙の生産は、1960年代末までにほぼ途絶え、工場生産品ゆえに伝統工芸・美術品になることもなく、技術もほとんど断絶してしまった。つまり、銘仙はいったん滅んだ織物だった。
ところが、アンティーク着物ブームにより、女性の和装文化の最盛期だった大正・昭和初期の着物文化が再評価された結果、その最盛期を担った銘仙がにわかに注目されるようになる。2002年1月に主要産地だった埼玉県秩父市に初めての銘仙資料館「ちちぶ銘仙館」がオープンし、それを受けて2003年5月に三橋順子が「艶やかなる銘仙」を『Kimono姫』2号に執筆した(三橋2002)。2003年6月には銘仙コレクターの木村理恵と通崎睦美の「銘仙コレクション2人展」が東京中野の「シルクラブ」で開催される。そして2004年12月には秩父市在住の木村理恵のコレクションを紹介した『銘仙―大正・昭和のおしゃれ着―』が「別冊太陽」(平凡社)の1冊として刊行され、銘仙ブームはひとつの頂点を迎える。
その後も銘仙ブームは続き、銘仙をメインにした企画展が各地で立て続けに開催された(註2)。そして、2009年5月には銘仙を主な展示品とする「日本きもの文化美術館」が福島県郡山市にオープンし、2010年4月には同美術館から『ハイカラさんのおしゃれじょうず-銘仙きもの 多彩な世界』が刊行された。
こうした銘仙ブームは、現代の着物にはまったく失われてしまった大胆で前衛的な大柄と、原色を多用し多色を巧みに配した強烈な色彩感覚が作り出す華やかで艶やかなイメージに多くの着物好きが魅せられたからであり、銘仙そのものが現代着物へのアンチテーゼとなっている。銘仙のそうした性格は、2000年代に成立する「着物趣味」の方向性と合致し、それゆえに重要なアイテムとなったのである。
4 「規範」を越えて ―「着物趣味」の成立―
2000年代前半のアンティーク着物ブームの中で成立する「着物趣味」の基本コンセプトは、大正・昭和戦前期の着物文化の再評価とそれへの回帰である。それは、1970年代以降に形成された地味=上品に固定化された「美しい着物世界」や、「着付け教室」が流布する厳格な着用規範への反発と表裏一体だった。それはまた、すっかり特別な場の衣服になってしまった着物から、本来の日常性を取り戻す方向性だった。和装文化の伝統を意識しつつも、戦後の着物世界が作り上げた規範から自由に、好きな着物を着たいように着る、というスタンスだ。
日本の女性着物は、既婚か未婚かの区分が明瞭で、それが身分標識にもなっていたが、アンティーク系の場合、そうした境界も越えてしまう。ミセスであっても、派手な着物、目立つ帯を厭わない。振袖だって着てしまう。白半襟、白足袋という「美しい着物世界」の「常識」に対し、色半襟・刺繍半襟、色足袋・柄足袋が好まれる。着物と帯、そして小物類(半襟、帯揚、帯締、足袋)の色合わせ・柄合わせや帯結びに凝る。髪も、お正月やイベントには、すでに見かけることも稀になった日本髪を結う。
「美しい着物世界」の人に比べて行動性が高いので、着付けも前合わせは浅く、したがって襟のy字は深く半襟をたくさん露出し、襟もかなり抜く。「着付け教室」で「下品なのでやってはいけません」と教えられることばかりである。そして、いつでも(仕事以外)どこにでも着物で出掛ける。休日、近所に買い物に行くのも着物だし、国内旅行はもちろん、海外旅行も着物で行く。履物は、たくさん歩くので、草履より下駄が好まれる。なにより、着物も帯も「値段の高きをもって貴しとせず」で、その人の個性に合ったコーディネートや創意工夫が評価される。
こうした方向性・嗜好は、ほとんどすべて「美しい着物世界」への明確なアンチテーゼである。したがって、当然のことながら、従来の規範を順守する「美しい着物世界」の人たちからの反発も大きかった。ネット上で「ぼろ着て何が楽しいの?」「お女郎さんの集まり」「座敷牢から抜け出してきたみたい」と批判されるのは常のことで、銀座で集まっていた時、見知らぬ中年女性(洋装)にいきなり「ここは銀座なんだから、日本の恥になるようなみっともない着方はしないで!」と面と向かって言われたこともあった。単なる好奇の視線には慣れっこだが、さすがに「日本の恥」とまで言われるとは思っていなかった。
しかし、そこまで強く反発されるということは、従来の着物世界の規範を越えた、新しい、そして特有の方向性が成立したということである。既存の着物世界から批判されたことで逆に「私たちの着物趣味とはこうなんだ、これでいいんだ」という意識が仲間たちの間で共有化されていった。こうして、第3の要件が満たされ2000年代前半に新しい「着物趣味」の世界が成立した。
【写真5】アンティーク銘仙のコーディネート。
モデル:(左)小紋、(右)YUKO
2人とも「アラフォー」のミセス(2005年3月)
Ⅳ 新しい着物世界
1 着物趣味イベントの開催
2000年代中頃になると、「着物趣味」の成立を背景に、従来の「オフ会」からさらに発展した着物趣味イベントが開催されるようになる。ここでは東京で開催され、私も参加したことがある代表的な2つの着物趣味イベントを紹介してみたい。
① 「きものde銀座」
「きものde銀座」は毎月1度銀座で開催される「着物好き」の集会イベントで、「男のきもの大全会」の派生イベントとして1999年12月に第1回が開催された。最初は毎週土曜日開催、着物男性だけの集いだったが、2000年2月からは月1回(毎月第2土曜)となり、着物女性も参加するようになった。主催者はなく、当初は「旦那さん」(牧田氏)が事務局を担当していたが、2006年以降は有志の当番制で運営している。着物で集まる人も会員制ではなく、まったくの任意参加である。
15時に銀座4丁目交差点「和光」前で待ち合わせ、「歩行者天国」の中央通りを1丁目方向に歩き「ティファニー」前で集合写真を撮影、その後は自由行動で、なにかイベントがあれば行きたい人はまとまって行く。17時半頃から「土風炉・銀座1丁目店」で懇親会(会費3000円)となり、20時前後にお開き、希望者は二次会へという毎回同じスケジュールで、途中参加・離脱も自由である。
コンセプトは文字通り「銀座で着物を着る」ということだけ。参加者の着物のスタイルもアンティーク系、「ふだん着着物」系から「美しい着物」系まで様々であり、どんな着方であっても批判しないことになっている。
2008年4月8日に第100回を迎え、2013年12月には168回となる。台風でも大雪でも中止せず(連絡方法がないため)、東日本太平洋沖大地震の翌日(2011年3月12日)にも20数名の参加者で開催された。最初期には参加者1名ということもあったが、近年は集合写真を見る限り40~60名くらいだろうか(註3)。
主催者がいない有志持ち回りの運営と、参加も着方も自由度が高い「緩い」形態が「着物趣味」のイベントとして最も長続きしている秘訣だと思う。
【写真6】第100回「きものde銀座」(2008年4月8日)
【写真7】2009年1月の「きものde銀座」。
日本髪を結い大振袖を着て築地・波除神社に初詣
② 「日本全国きもの日和」
「日本全国きもの日和」は、「きものであそぼう」をスローガンにした着物ファンの手作りイベントで、「玉龍」こと西脇龍二氏を中心とした「実行委員会」が運営している。メンバーの多くは「きものde銀座」で出会っている。11月3日を「きもの日和」として全国各地で着物イベントの開催を呼びかけ、第1回は7都市、第2回は20都市、第4回は25都市で「きもの日和」が開催され、「着物趣味」の地方への波及に大きな役割を果たした(註4)。
メイン会場である「きもの日和TOKYO」は、恵比寿のイベントホール「EBIS303」で2004年から2008年まで5回開催され、入場者は第1回が1500人、第3回(2日開催)は3000人だった。モデルもスタッフもすべて着物仲間で構成する本格的な「きものファッションショー」は観衆の注目の的だった。さらに、着物写真集『Kimono人』(2005、2006、2007の3冊)を自費出版した。
また、中心メンバーは、毎年5月に開催される静岡県下田市「黒船祭」に出張し、「賑わいパレード」に参加し、野外ファッションショーを開催している。
しかし、2007年の第4回から入場者、出店、広告が減少し赤字となり、経済不況(リーマン・ショック)もあって2009年11月に計画された「きもの日和TOKYO」は延期になってしまう。2010年3月に「きもの日和with目黒雅叙園」として開催されたが、2011年4月の開催予定が東日本大震災の影響で中止になった後は復活していない。
【写真8】「きもの日和TOKYO 2004」の冊子(2004年11月
【写真9】「きもの日和TOKYO」の「きものファッションショー」(2006年11月)
【写真10】「下田黒船祭」の野外ファッションショー。
「ペリー・ロード」の橋の上が舞台(2007年5月)
【写真11】「下田黒船祭」の賑わいパレード(2008年5月)
日本髪は美容院ではなく自分で結う
2 着物イベントの問題点
着物イベントに参加して、気付いた問題点を整理しておこう。第一はお金の問題である。「きもの日和TOKYO」のように、意欲的に活動を展開した結果、イベントの規模があまりに拡大してしまうと、集客や採算のような「趣味」とは性格が異なる要請が発生してしまう。また必要な経費が大きくなれば、経済・社会情勢の影響を大きく受けるようになる。「趣味」とは本来、浪費だが、あまり補填しなければならない金額が大きくなると、「趣味」の仲間では耐えられなくなる。といって、企業の協賛・支援を受ければ、商業資本の論理が入ってきて、ますます「趣味」の領域から外れてしまうジレンマがある。「趣味」としては拡大路線一筋ではなく適正規模を保つことも必要だと思う。
第2は、着物イベントのジェンダー的な構造問題である。端的に言えば、リーダーシップをとる男性、イベントの「華」としての女性という基本構造がそこにある。たとえば、ファッションショーやパレードで、男性リーダーの指示で若手の女性や美しい女性が目立つ場所に配される傾向は明らかにあった。それもまた社会的要請なのかもしれないが、必ずしもそうでない女性たちからは不満が出ることになる。
第3は、セクシュアリティの問題で、大人の男女が集まり、懇親会などでお酒が入ると、男性による女性へのセクシュアル・ハラスメントが発生する。その場合、運営側の男性のセクハラ認識が甘いと、結局は被害を受けた女性が泣くことになってしまう。
第4は、和装女装趣味の男性の問題で、近年は「女装」を禁止する着物イベントが増加している。和装文化に女形が貢献してきた度合いを考えれば、まったく理不尽と言いたくなる。そして、「女装禁止」の結果、日常的に女性として生活しているMtF(Male to Female)のトランスジェンダーまでが排除されることになってしまう。これは性的マイノリティに対する不当な社会的排除である。
第5は、高齢化の問題で、他の趣味の世界と同様に若い人がなかなか入ってこない。2000年代初頭のアンティークブームを担った30~40歳代は、10年たった現在40~50歳代であり、さらに10年たてば…である。今のままでは先細り傾向は免れないだろう。
これらの問題、とりわけ第2~5の問題は、着物趣味の世界だけの問題ではなく、日本社会が抱える問題の投影である。しかし、比較的柔構造な「趣味」の世界の特性を生かし、しっかりした認識をもって対応すれば、ある程度は改善可能な問題であると思う。
おわりに ―着物趣味の将来―
1 着たい着物がなくなる
現代の「着物趣味」、とりわけアンティーク派にとっての最大の不安は、近い将来、着たい着物がなくなってしまうのではないか、ということである。なんら特徴のない「つまらない」現代着物は巨大なデッドストックがあるのに、着たいと思うようなアンティーク系の着物はどんどん消えていく。和装文化の全盛期(1926~1936)に作られた銘仙・お召は、すでに80年前後が経過し耐用年数が過ぎつつあり、衣類としての寿命が尽きるのはもう遠いことではない。せめて、あと10年もってほしいと思うのだが。
また、現代女性の体格向上により、女性が小柄・低身長だった時代に作られたアンティーク着物を着られる人が減っている。こうした状況で頼りになったのは、2000年代の銘仙ブーム期に足利・伊勢崎などの旧産地で生産された復刻銘仙だった。復刻銘仙は、問屋価格で5~6万円、小売価格では8~10万円になってしまうので、かってのような普及は無理だったが、それでも、私のように身長が高い銘仙好きにはとてもありがたかった。しかし、わずかに残っていた職人さんの高齢化や逝去によって、2010年代初めに生産が途絶えてしまった(註4)。
先染め(糸を染めて柄を織り出す)の織物は技術的に難易度が高く、現状ではいったん絶えた技術の復活は望めそうにない。それが無理なら、せめて「全盛期(昭和戦前期)」のデザインを、後染め(糸を布に織った後で染める)の染物で再現してほしい。幸い現在ではアンティーク着物の色柄をコンピューターに取り込み、補修を加えた後に、インクジェット・プリンターで布地にプリントすることが容易になった。銘仙写しの浴衣や小紋が増えてくれればと思うのだが、現在の着物業界の沈滞した状況では、それも難しそうだ。
2 コスチューム・プレイとして
生産面では大きな不安があるが、着物をファッション・アイテムと考えた場合、その将来に希望はなくもない。
着物が日常の衣服としての機能を失い、着物を着る人がファッション・マイノリティになったことで、社会の服飾規範を超越する、ある種の自由を獲得できた。そもそも着物を着ていることが「変わり者」「外れ者」なのだから、細かな社会規範に縛られることはない。
そう思いきってしまえば、着物は自己主張、自己表現の手段として、そして変身のアイテムとして絶好である。コーディネートに工夫を凝らせば、立派な会社勤めの男性が任侠系の「あぶなそうな兄さん」に、まともな会社のOLさんや良家の奥様が芸者やお女郎上がりの「あやしい姐さん」に変身できる。背景や小道具に気を使えば、あっという間に昭和初期や昭和30年代にタイムワープした写真を撮ることも可能だ(三橋2006)。
【写真12】石仏に祈る村娘(昭和初期風)
モデル:YUKO
撮影:2008年2月、埼玉県秩父市金昌寺
【写真13】「赤線」の女(昭和28年設定)
モデル:YUKO
撮影:20010年10月、東京「鳩の街」旧「赤線」建物(娼館)をバックに
今や着物は、社会的立場を変え、年齢を化けて、時空すら超える力を持つようになった。それを活用しない手はない。21世紀の着物趣味は、こうした「着物で遊ぶ」、コスチューム・プレイとしての方向性をより強めていくことになると思う。
日本人の伝統衣装という路線では、美術工芸品としてはともかく、衣類としての着物はもう生き残れない段階になっている。「着物趣味」の仲間たちが目指してきた創造性のある自己表現のファッション・アイテムという方向こそが、着物という日本人の民族衣装を次の世代に伝える道だと私は思う。
(註1)村上信彦『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社、1974年)だけが、この時代の和装文化の発展に正当な評価を与えている。
(註2)主なものを掲げると、京都古布保存会「京都に残る100枚の銘仙展」(東京世田谷「キャロットタワー」、2005年3月)、須坂クラッシック美術館「大正浪漫のおしゃれ―銘仙着物―」(長野県、2007年8月)、京都府城陽市歴史民俗資料館「銘仙―レトロでモダンでおしゃれな着物―」(京都府、2008年8月)、神戸ファッション美術館「華やぐこころ―大正昭和のおでかけ着物―」(兵庫県、2008年11月)など。
(註3)の公式サイト「着物de銀座」(管理人:京屋悟雀氏)を参照
http://www.kimono-de-ginza.net/sub2.htm
(註4)2013年段階で継続しているものとして「着物日和in信州須坂」「奈良きもの日和」「きもの日和 in TOMO」(広島県福山市鞆の浦)などがある。また「群馬きもの復興委員会」「NPO法人川越きもの散歩」のように、それぞれの地域で積極的な着物普及活動をするグループも増えた。
(註5)京都の着物問屋「きものACT」が現地の職人さんに依頼して生産していた足利銘仙は2010年頃に、NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」(2011年度後期)で話題になった「木島織物」の伊勢崎銘仙は2012年末に生産が止まった。
文献
石川光陽1987『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』(朝日新聞社)
小泉和子2000『昭和のくらし博物館』(河出書房新社)
通崎睦美2002『天使突抜一丁目 ―着物と自転車と―』(淡交社)
鳥羽亜弓2001『浴衣の次に着るきもの(アミサンノキモノ)』(インデックス出版)
日本きもの文化美術館2010『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』(日本きもの文化美術館)
早坂伊織2002『男、はじめて和服を着る』(光文社新書)
別冊太陽2000a『昔きものを楽しむ(1)』(平凡社)
別冊太陽2000b『昔きものを楽しむ(2)』(平凡社)
別冊太陽2001『昔きものと遊ぶ』(平凡社)
別冊太陽2002『昔きものを買いに行く』(平凡社)
別冊太陽2003『昔きものの着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004a『昔きもの 私の着こなし』(平凡社)
別冊太陽2004b『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着物―』(平凡社)
村上信彦1974『服装の歴史2(キモノの時代)』(理論社)
三橋順子2002「艶やかなる銘仙」(『KIMONO道』2号、祥伝社。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
三橋順子2006「着物マイノリティ論」(『Kimono人 2006』きもの日和実行委員会)
三橋順子2010「銘仙とその時代」(『ハイカラさんのおしゃれじょうず -銘仙きもの 多彩な世界-』日本きもの文化美術館)