「一首鑑賞」の注意書きです。
290.あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め
(前田夕暮)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで井上法子が紹介していました。
現代短歌を主に読んでいると戦前の優れた歌人の歌に触れる機会が少ないのですが、前田夕暮の歌はこのコーナーなどでもたびたび出会い、そのたびに心惹かれます。この歌、出典を見ると1932年の歌集に載っているそうなのですが、とても新しい感じがする。何かを掴むためにある手のひらが何も掴めずに空っぽのまま開け放されていて、「青空よ、沁み込め」と。人間のかたちに切り取られた枠内に青空が沁み込んでいくみたいな、シュールレアリスムっぽい光景を連想しました。
青空が沁み込めば寂しさはなくなるんだろうか。なくならないような気がする。だって青空が沁み込んでも、きっと手は「あけつぱなし」のままだから。
マーク・ヴァンホーナッカーの『グッド・フライト グッド・ナイト』という本が好きで、こんな記載がありました。
パイロットは手動で山頂高度に“寒冷用修正”を加えなければならない。一万フィートの山の上を飛ぶときは、だいたい一万二〇〇〇フィートで通過したいところだが、外気温が非常に低い時は山が一万二〇〇〇フィートにのびたように扱い、一万四〇〇〇フィートで通過する。冬になって山頂の岩が成長したかのように処理するのだ。
こういう、世界が相対的に見える視線にとても心惹かれました。実際にそれは科学でもあるんでしょうが、哲学や詩のようにも思えます。この歌からこの記載を連想した機転はうまく説明できないのですが、“大気の重さ”みたいなもの、普段は意識しない“青空の重量”を、実は掴んでいるときがあるんじゃないか、って思ったからかもしれない。あけっぱなしの手が寂しいか寂しくないか、おそらくそれは相対的な感覚に過ぎないのだろうと。でも、だからこそ、“寂しくてならぬ。”一瞬が切り取られた歌に心惹かれるのかもしれない。
1932年、ウクライナ
ホロドモール 飢えは寂しさとは違う わたしは寂しさならば耐えうる (yuifall)