蒙古襲来から日本を守った「元寇防塁」!!スポットまとめ2024
2024年10月7日13世紀の初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがる強大なモンゴル帝国を打ち立てました。その孫、5代皇帝フビライは、国名を「元」に改め、日本に使者を送り、通交を求めましたが、鎌倉幕府はこれに応じませんでした。そこで、フビライは1274年に日本に攻め込み、博多湾西部に上陸し、九州の御家人(武士)たちと激しい戦いを繰り広げました。この戦いで日本側は苦戦し、博多は大きな被害を受けました(「文永の役」)。
鎌倉幕府は、元の攻撃に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間という急ピッチで、博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石垣を築かせました。この石垣は当時「石築地」と呼ばれ、博多は「石城」とも呼ばれるようになりました。「元寇防塁」は、大正時代の考古学者による命名で、現在ではこの名称が一般的です。
1281年、元は再び日本に攻めてきました(「弘安の役」)。しかし、「元寇防塁」に阻まれ、博多の地に上陸することができませんでした。元軍は松浦近海などにも展開しましたが、長引く戦いの最中、暴風雨により、軍船の多くが沈没や損壊するなど大損害を被ったことから、退散したと言われています。
元との戦いの最前線であった福岡には、博多湾を囲むように今でも数多くの蒙古襲来に関係する史跡が残っています。ここでは、日本を守った、いにしえの戦いの史跡を紹介します。
元寇防塁位置図
◆西エリア(今津・生の松原・今宿元寇防塁 など)
◆早良エリア(西新・百道元寇防塁 など)
◆博多エリア(博多小学校石塁遺構)
◆東エリア(箱崎元寇防塁、志賀海神社、火焔塚など)
◆博物館・資料館
西エリア
1)今津元寇防塁
約3kmに渡る防塁で、大隅国(鹿児島)・日向国(宮崎)の御家人が分担して築造したものと言われています。現在、約200mが整備され、公開されています。
海側からみた防塁の高さは約3mありました。元寇防塁がある松原の砂浜沿いには、現在、防風・防砂用の木柵が建てられていますが、その高さは約3mで当時の防塁の高さを実感することができます。
また、近くにある「史跡ひろば」では、パネル展示や音声ガイド付きのムービー上映などもあり、元寇防塁について学ぶことができます。
2)生の松原元寇防塁
約2.5kmにわたる防塁で、白砂と松原の境を防塁が縫うように走っています。肥後国(熊本)の御家人が築造を担当したと言われています。
「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」では、肥後国御家人・菊池武房(きくち たけふさ)が陣取る防塁の前を肥後国御家人・竹崎季長(たけざき すえなが)一行が行進する様子が描かれていますが、そこに描かれているのがこの生の松原の元寇防塁です。
現在、防塁の一部は築造時の高さに復元されており、間近で見学できます。
元寇防塁越しに博多湾を眺めると、元軍の船が攻めてくる様子がイメージできるパネルも設置しています。当時の鎌倉武士団と同じ目線で覗いてみましょう。
3)今宿元寇防塁
約2.2kmに渡る防塁で、豊前国(福岡・大分)の御家人が築造を担当したと言われています。防塁そのものの調査が行われていないため、その構造はわかっていませんが、長垂(ながたれ)海水浴場では、松林の中に石が連なって埋まっている状態を見ることができます。
4)蒙古塚・元寇殲滅之處(げんこうせんめつのところ)碑
ここは、元寇の時の戦死者や元軍の捕虜で処刑された者を火葬にした場所と言われており、蒙古塚はその慰霊のために造られました。
また、近くにある元寇殲滅之處碑は、1913年に発掘された今津地区の元寇防塁を保存し後世に伝えていくため、1915年に建てられた石碑で、築地本願寺などの作品で知られる東京大学の伊藤忠太博士の設計によるものです。碑の上部にはハートマークが刻まれています。
5)蒙古山
糸島半島北東端にある山で、「元寇の戦死者を葬った」「元寇防塁用の石を切り出した」などの伝承が残っています。山頂から見る玄界灘の眺めは絶景です。
早良エリア
1)西新元寇防塁
総延長約20kmにわたる元寇防塁のほぼ中間に位置する防塁で、高さは2.5~3mほどあったと考えられています。構造は、粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土で詰めて、石材の節約を図るという独特の工法となっています。築造担当国は不明です。
1970年に再整備され、保存公開されています。東側には元寇神社もあります。
2)百道元寇防塁
現在は防塁上面が露出している状態を見ることができます。築造担当国は不明です。
文永の役の際には、元軍の主力部隊がこの辺り(百道原)から上陸し、激戦地のひとつになったと言われています。
3)西南学院大学元寇防塁
校舎の新築にともなう調査で新たに確認された防塁を移築、復元したものです。
4)祖原山
文永の役の際に、元軍がこの山に陣を構えたと言われています。「蒙古襲来絵詞」では、ここから元軍が銅鑼や太鼓を打ち鳴らしている様子が描かれています。現在、山頂には記念碑が建っています。
5)鳥飼の塩屋橋
「蒙古襲来絵詞」では、竹崎季長が元軍と鳥飼潟の「塩屋の松」のもとで戦っている様子が描かれており、この辺りで激しい戦いが行われたとみられています。現在でも橋の名前に当時の名残があります。
博多エリア
1)博多小学校石塁遺構展示室
発掘調査で新たに発見されたもので、博多の元寇防塁ではないかと推測されています。地下展示室で発掘された姿を見学することができます。※入場は、日曜日の午前10時~午後4時のみ。
東エリア
1)箱崎元寇防塁
約3kmに及ぶと見られる防塁で、薩摩国(鹿児島)の御家人が築造を担当したと言われています。現在、元寇防塁の遺構を見ることはできませんが、地蔵松原公園には史跡元寇防塁の記念碑が建っています。
近年、九州大学の箱崎キャンパス跡地内の発掘調査において、元寇防塁の一部である遺構が見つかり、国史跡に追加指定されました。
2)筥崎宮
文永の役の際に炎上した社殿の復興にあたり、亀山上皇が「敵国降伏」御宸翰(ごしんかん:天皇直筆の書状)を納められました。他にも蒙古兜・雲版等を伝える蒙古襲来にゆかりのある神社です。宇佐神宮・石清水八幡宮と並ぶ日本三大八幡のひとつでもあります。
3)志賀海神社
古来より海上の守護神として崇拝されてきた神社。「蒙古襲来絵詞」では、志賀海神社と鳥居付近にいる蒙古兵の姿が描かれています。
4)火焔塚(かえんづか)
弘安の役の際、高野山の僧侶一行が蒙古軍の降伏を祈祷したと言われている場所。不動明王の火焔を埋めたという故事から、火焔塚と呼ばれるようになったと伝えられています。
5)蒙古塚
志賀島では、弘安の役の際に戦闘が行われ、鎌倉幕府軍・元軍ともに多くの犠牲者がでました。この石碑は、文永・弘安の役で戦死した蒙古兵の供養のため、1927年に建てられたものです。
また、その脇には、張作霖(ちょうさくりん)書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられています。
6)東公園 亀山上皇銅像
亀山上皇は元寇の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を祈願されたと言われています。
元寇ゆかりの場所でありながら、元寇を後世に伝えていくための記念碑がこの地にないことを嘆いた、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏が募金運動を行うなど尽力し、1904年にこの銅像が建立されました。
博物館・資料館
1)福岡市博物館
常設展示室には、タッチパネル操作による「蒙古襲来絵詞」の解説コーナーがあります。また暴風雨で沈没したモンゴル軍船の遺物である鷹島海底遺跡出土遺物を展示しています。
2)東公園 元寇史料館
文永・弘安の役と二度に及ぶ蒙古襲来に関する両国の武具や、明治時代の画家矢田一嘯(やだいっしょう)が描いた元寇絵などが展示されています。入館には事前予約が必要です。