2023年 03月 08日
待つ |
みあが出張で東海岸へ行った。
組織のなかにいたころの出張は、複数だったから誰かと相乗りして飛行場へ行くのが慣わしだったが、独立したいまは単独で行く。
自分でここから車で2時間のデンバーの飛行場まで行くつもりにしていたのを、わたしたちが送り迎えすることにした。
わたしたちのほうがみあに甘えたくてすることで、行きは夫、迎えるのはわたし。
出発時には雪が予報されていたのもあった。
帰ってくる日、到着時刻より少し早めに着いた。
建物に入らず、到着ロビーの出口でみあを拾うことにして、数分離れた待合のパーキングで待っていた。
到着時刻から1時間すぎても連絡が入らないので電話したら、着陸したが、まだ機内から出られないという。
無事ならそれでいい。
そうやって車のなかで待っていた、ということは、前にもあったと思いだした。
みあがバレエをしていたとき、リハーサルや個人レッスンで、終わるはずの時刻に終わらないのはしょっちゅうだった。
あみらを放課後、部活後に迎えに行っても、先生に引き留められたとか、練習が長引いたというのもあった。
こどもたちが自分で運転するまで、日々続いたことだった。
あきらが休暇で大学から帰ってくるとき、出発してから途中、電話をしてみる。
いまどこ?
ハイウエイ、混んでる?
3時間のドライブで、あの子はわたしと似てせっかちだから、うっかりスピード違反してるかもしれない。
お腹空いてる?
何食べたい?
わたしもまた誰かを待たせただろう。
帰省するたび、夜ともだちと出かけると、母はわたしが帰って来るのを待っていた。
成人しない娘を心配するように待っていた。
両親が元気なうちは、帰省するわたしを飛行場まで迎えに来てくれた。
早めに着いてわたしを待ちかねていた。
車には、母が用意したわたしの好物のゆかりのお結びが待っていた。
人生のあいだ、ひとはいろんなことをするけれど、ひとを待つ時間というのはひとまとめにしたら、案外長いのではないか。
待つ。
誰かを待つ。
その誰かが極めてかけがえのないひとだったことは多い。
待つひと、待ってくれるひとがいない、というのはさびしいだろう。
神社で求める御神籤には、”待ち人”という項目があったのではなかったか。
その下には、”来る”とか、”やがて来る”などと記されていたように覚えている。
家路を急いで運転している寒い夜、行きつくところに灯りがともる家があって、そこには夫がわたしを待っているということがどんなに和むことか。
お茶を淹れるのにすぐ用意ができるように、うちの台所には日本式の電気ポットを常備していた。
ともだちの家の台所でお茶をごちそうになったとき、薬缶でお湯を沸かした。
夫婦ともに日本人で、日本にいるような暮らしぶりなのに、電気ポットがない。
お湯が沸くのを待つ時間がいいのだ、と言った彼女に、はっ、とした。
そうかあ、こういうひとだったのか、と彼女を再発見したような思いがした。
by ymomen
| 2023-03-08 03:42
| アメリカの季節
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