かんちゃん 音楽のある日常

かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集19

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第19集を取り上げます。なおこの全集はCDでは第10集の1となっていますが、図書館の付番の方が分かりやすため通番にしています。収録曲は第35番と第36番の2つです。

この全集では指揮者は2名体制で、ニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの2人が担当しています。この第19集ではニコラウス・アーノンクールが指揮を担当しています。そのため、オーケストラもウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとなっています。合唱団はウィーン少年合唱団とウィーン合唱隊が務め、女声をウィーン少年合唱団、男声をウィーン合唱隊が務めています。そのため、ソプラノソロはウィーン少年合唱団ボーイソプラノが務めています。

カンタータ第35番「霊と心は驚き惑う」BWV35
カンタータ第35番は、1726年9月6日に初演された、三位一体節後第12日曜日用のカンタータです。

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ソロはアルトだけなので、この演奏ではカウンターテナーのポール・エスウッドが務めています。プロの歌唱をじっくりと味わうという、形ですが、果たして初演時はそれなりのレベルの高い人が務めたのでしょうか・・・そのあたりは何とも言えません。バッハのカンタータにはソロカンタータもそれなりにあるため、ライプツィヒにはうまい歌手がそろっていたものと想像されます。そもそもバロック時代においても演奏家が決して下手なわけではないので・・・演奏家が多くなかったというだけですから。

とはいえ、このカンタータは2部制を採用しており、それぞれの冒頭がシンフォニアになっているのも特徴です。聖書の朗読はマルコによる福音書のその日の指定朗読である、耳が聞こえず口がきけない男の治癒の物語(7章31~37節)ですが、それを二つに分けて朗読したはずです。それぞれを彩るためにシンフォニアを添えたということは、半ばオペラティックにしたということでもあります。確かに二つのシンフォニアは印象的で、場面転換の役割すら果たしているようにも聴こえます。その中で響くアルトの歌唱は、聖書の奇跡を目の当たりにした女性の喜びの声のようにも聴こえるから不思議です。ソリストは男声なんですが・・・この辺り、アーノンクールの意図を感じます。果たして男性女性って関係ありますか?と。

カンタータ第36番「喜び勇みて羽ばたき昇れ」BWV36
カンタータ第36番は、待降節第1日曜日用のカンタータです。元々は世俗カンタータBWV36cを原曲とするもので、1725~1730年に成立したのち、現在の形に改稿されたのが1731年、その改訂稿による演奏が1731年12月2日で、用途はその日付を基準としています。

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リリンクの演奏ではかなり派手でしたが、この演奏では明るさという点の方が強調されています。特に冒頭合唱の素晴らしいこと!それでいて生命力も感じます。

さらに注目なのが、ソプラノであるボーイソプラノソリストとしては2度出てきます。1度目は2曲目のコラールでのデュエット。そして2度目はソロでの第7曲。第2曲ではボーイソプラノらしさが出ていますが、第7曲ではまるで女声?と見まごうばかり。おそらくですが、違う人だと思います。そのため、恐らくアーノンクールが指揮する場合には、ソプラノは「ウィーン少年合唱団員」となっているのだろうと思います。適宜曲に応じてソリストが変わるということなのだと思います。これはこれで興味深いやり方だと思います。少なくとも初演された時はソリストは合唱団員から出ていたはずですから、それなら固定しなくてもいいという考え方もアリだからです。この辺り、さすが古楽演奏オーソリティであるアーノンクールです。勿論その是非はあると思いますし、批判的に実行に移したのがバッハ・コレギウム・ジャパンだったということになります。その意味では、アーノンクール無くしてバッハ・コレギウム・ジャパンなしとも言えるでしょう。

どんな編成であるにせよ、わたし達の心を道感動させ、動かすかが重要でしょう。ただ個人的にはバロックの作品はできるだけ古楽演奏でやってほしいところではあります。その一方でモダンも古楽演奏を意識する形で行われるとなおいいと思います。そのうえで、感動する演奏が欲しいというのは多少わがままだと自分でも思いますが、是非ともそういう方向で行われると嬉しいなあと思いますし、その参考にこの全集が今後も寄与してくれるといいなと思っています。その想いを特に感じたのがこの第19集でありました。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第35番「霊と心は驚き惑う」BWV35
カンタータ第36番「喜び勇みて羽ばたき昇れ」BWV36
ウィーン少年合唱団員(ソプラノ)
ポール・エスウッド(アルト)
クルト・エクヴィールツ(テノール
リュート・ヴァン・デル・メール(バス)
ウィーン少年合唱団、ウィーン合唱隊(合唱指揮:ハンス・ギレスベルガー)
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集18

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第18集を取り上げます。なお、この全集はCDでは第9集の2となっていますが、便宜上図書館の付番に基づき通番で示しています。収録曲は第33番と第34番の2つです。

この全集は指揮者2名体制で、ニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの2人が担当していますが、今回はグスタフ・レオンハルトが指揮を担当しています。そのため、オーケストラはレオンハルト合奏団です。合唱が今までのレオンハルトの指揮とは異なり、ハノーヴァー少年合唱隊のみとなっています。つまり、大人の合唱団がここでは使われていません。その一方で、ソプラノはテルツ少年合唱団のボーイソプラノ、ヴァルター・ガンベルトが務めています。

さて、この組み合わせはどんな効果を生んでいるのでしょうか・・・

カンタータ第33番「ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ」BWV33
カンタータ第33番は、1724年9月3日に初演された、三位一体節後第13日曜日用のカンタータです。

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冒頭合唱はコラールで、務めるのはハノーヴァー少年合唱隊です。つまり、男声もハノーヴァー少年合唱隊が務めているということになります。これは今までにはなかった珍しい編成です。ですが実際違和感がないんです。それだけレベルの高い演奏をしているということになります。ヨーロッパなら当たり前では?という声も聴こえてきそうですし実際そうだと私も感じます。ですが一方で、ウィーン少年合唱団はあくまでも女声という存在のアーノンクールのスタンスから、レオンハルトはさらに一歩進めて思い切って少年合唱団だけにしたところに意外性を感じるとともに、違和感がないそのレベルの高さに感心するのです。レベルが高いからこそレオンハルトは少年合唱団「のみ」としたはずです。

これは例えば本郷教会のコンサートでも感じることなのですが、大抵聖歌隊とはいえ大人が主体でそこに子供が混じるという編成が多いのです。それを思い切って少年合唱団だけにしてしまうというレオンハルトの想いきりの良さには喝采を送るしかありません。ソリストはアルト、テノール、バスなので全員大人ですが、アルトはルネ・ヤーコブス、テノールはマーリウス・ヴァンアルテナと今までとは代わっています。バスはマックス・ヴァン・エグモントとあまり変化なしですが、ある程度決まった人がソリストを務めてきたところを他の人で賄うようになったことも注目でしょう。それで違和感ないですしそれはこれだけの録音のソリストを務めるわけですから当然とはいえ、やはり層の厚さを感じざるを得ません。

ただ、そのこともやはりピリオド演奏に含めているのだとすれば、ここでソリストが変更になっていることも納得がいくように思います。日曜日ですから初演当時もほとんどの人が仕事は休みだったと思いますが、とはいえ常に決まった人が歌えるわけでもなかったはずです。衛生状態は今ほど良くはないですし平均年齢も今より短い時代です。いつも歌い手が固定されるというわけではなかった可能性もあるわけで、それでも演奏を成功させねばならないわけです。それを現代でも実現させてみせたと言えるでしょう。

カンタータ第34番「おお永遠の光、おお愛の源よ」BWV34
カンタータ第34番は、1723年6月1日に初演された、聖霊降臨節第1日用のカンタータです。東京書籍「バッハ事典」においては1747/1748年?という記述があり、本文中に結婚式用カンタータBWV34aから転用されたのでは(ほぼ復元が可能なため)という記述になっていますが、どうやら最近1726年6月1日とわかったようです。いずれにしても、BWV34aから転用されたのはほぼ間違いないようです。楽譜の透かしなどは1747年頃のようですがその時に書き写されたと想像されます。

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ここでも、ハノーヴァー少年合唱隊が全く違和感を感じさせません。ソプラノのソリストはテルツ少年合唱団のヴァルター・ガンベルトですが、ほとんど登場の機会はありません。その点では他から持ってくる必要があったのかなという気はしますが・・・普段ソロで歌うことに慣れていなかったのかもしれません。大人のソリストたちも申し分なく、やはりこの第18集においては、人が交代した時どんな演奏になるのかを実験してみせたと言えるでしょう。そもそも指揮者が二人いてオーケストラが二つというのもかなり実験的要素が強いと言えますが・・・ただ、初演時に常に二人いたとは思いません。バッハだったはずだからです。とはいえもしかすると二人いた可能性も否定はできないので・・・バッハも忙しい人でしたから。その意味でも指揮者二人というのは意味があるのではと思います。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第33番「ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ」BWV33
カンタータ第34番「おお永遠の光、おお愛の源よ」BWV34
ヴァルター・ガンベルト(テルツ少年合唱隊員、ソプラノ)
ルネ・ヤーコブス(アルト)
マーリウス・ヴァン・アルテナ(テノール
マックス・ヴァン・エグモント(バス)
ハノーヴァー少年合唱隊(合唱指揮:ハンス・ヘニング)
グスタフ・レオンハルト指揮、通奏低音オルガン
レオンハルト合奏団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集17

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第17集を取り上げます。なお、もともとのCDでは第9集の1ですが、図書館の付番に基づきこのブログではわかりやすく通番で示しています。収録曲は第31番と第32番の2つです。

この全集は指揮者が2名体制で、ニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの両名が担当していますが、今回はニコラウス・アーノンクールが担当です。そのため、オーケストラはウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、合唱団はウィーン少年合唱団とウィーン合唱隊が務めています。

カンタータ第31番「天は笑い、地は歓呼す」BWV31
カンタータ第31番は、1715年4月21日に初演された、復活祭第1日用のカンタータです。つまり、ヴァイマル時代のカンタータです。

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復活祭用なのでイエスの復活を賛美するテクストですが、レチタティーヴォには説諭の意味もあります。その意味でもバッハのカンタータではむしろ祈り「のみ」という作品は珍しく、基本的には祈りも含めて会衆に内省させる音楽になっています。この辺りは歌詞を見る必要があり、その歌詞が全てネット上に掲載されていることは素晴らしいと思います。一方でグーグル翻訳は万能ではなく、歌詞のドイツ語までいい加減に翻訳されたり、カタカナ表記になったりしてわかりにくいケースもありますので、そのあたりをこのブログで解決すべく、現在計画中です。この古楽演奏のが全て終わった時にまた具体的な内容を発表したいと思っています。この第31番においても発生しています。大まかな歌詞の内容が捉えられればいいのであれば問題ないんですが、例えばアマチュアが演奏するとなった時に、それでは支障があるだろうなあと思いながら常に聞いています。特にバッハもそうなんですが、一つの単語に於いて長音があるケースも存在し、それは明らかに強調なのですが、その言葉の意味が分からないとなぜそこで伸ばすのかという意味が分からなくなるからです。それは演奏するときに表現の妨げになります。私自身元アマチュア合唱団員だったことから、その不便をできるだけ解消したいと思っています。

この演奏の合唱団の一つがウィーン少年合唱団ということは、ソプラノはウィーン少年合唱団ボーイソプラノということになります。個人名が表記されていないということは、複数のボーイソプラノがそれぞれ担当しているということでもあると思います。ほとんど一人が担当しているように聴こえますが、個人名でやらないということはおそらくですが、アリアとレチタティーヴォとでは歌っている人が異なるということを意味していると思います。第31番ではそれほどの差を感じませんが、もしかすると第7曲のレチタティーヴォと第8曲のソプラノアリアとでは歌手が異なる可能性も否定できないです。ではなんでそんなことをするかと言えば、何度か私も言及していると思いますが、少年というレベルにおいて、バッハのアリアあるいはレチタティーヴォは難曲だからです。それだけ技術も表現力も必要になるわけで、それなりの歌手がいないと難しいということになります。ウィーン少年合唱団は世界でもレベルの高い少年合唱団ではありますが、とはいえバッハのカンタータとなれば簡単ではありません。合唱やコラールであればそれほどでもないとは思いますが・・・

その合唱という点で言えば、シンフォニアに続く合唱では、ウィーン少年合唱団とウィーン合唱隊とのアンサンブルの美しさと、ウィーン合唱隊のみの大人の発声とのコントラストが明確になっている部分があります。具体的には男声合唱のみということになるわけで、この第31番の演奏からは、少なくともアーノンクールが指揮する演奏ではウィーン少年合唱団は合唱のソプラノとアルトを担当していると言えます。ウィーン合唱隊は基本的に男声であるテノールとバスを担当するという役割分担になっていると言えるでしょう。それを保守的と否定するのは簡単ですが、古楽演奏だからこそそこまで突き詰めたと言えるでしょう。一方でバッハ・コレギウム・ジャパンはソプラノとアルトは大人の女性を据えたわけで、そのうえでソリストに関してはカウンターテナーという方針です。この辺りも賛否両論あると思いますが、私はそれぞれのスタンスを尊重する立場です。それぞれに魅力があり狙いがあるわけで、あとは聴き手の好みの問題です。

カンタータ第32番「いと尊きイエス、わが憧れよ」BWV32
カンタータ第32番は、1726年1月13日に初演された、顕現節後第1日曜日用のカンタータです。

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途中のソプラノとバスのレチタティーヴォと二重唱は、魂とイエスの対話になっていますが、これは福音書を無視しているとの記載がウィキペディアにはあります(福音書のイエスはまだ少年であるためソプラノという解釈も成り立つため)。この辺りはバッハオリジナルなのかそれとも市参事会との約束なのかはわかりません。ただ受難曲ではイエスは必ずバスであり魂はソプラノです。おそらくですが、上記ウィキペディアで付言されている以下の部分をこの第32番では重要視したためだと個人的には判断しています。

「レームスは福音書を、イエスと魂の寓話的な対話として扱った。 対話協奏曲(対話協奏曲)で、バッハは、魂をソプラノの声に割り当て、福音書の中のイエスがまだ少年であるという事実を無視して、イエスの言葉をベースボーカルにヴォクス・クリスティ、つまりキリストの声として与えた。レームスは、行方不明の息子を捜す親を想像しているのではなく、ジョン・エリオット・ガーディナーが指摘するように、より一般的には「私たちが同一視することが期待されている」キリスト教徒の魂を想像している。バッハ研究者のクラウス・ホフマンは、詩人が「物語の一般的なモチーフ、すなわち喪失、イエスの探求と再発見を取り上げ、それを信者とイエスとの関係という文脈に置いている」とコメントしている。」

つまり、ここでも聖書の内容を自分たちにひきつけて考えることができるようにという、説諭の意味が強いというわけです。この点においても、私はバッハのカンタータを単なる祈りの音楽として片づける論評には与しません。祈りの音楽という点を否定しませんがそれだけではなく同じ比重で説諭の意味も強く、曲によってはむしろ説諭の意味の方が強いとも言えます。ゆえにバッハのカンタータは高いレベルの表現力が要求されると言えます。

その点では、この第32番においては、演奏面でソプラノがボーイソプラノでいいのか?という問題が生じています。その対話の部分において、レチタティーヴォでもアリアでも、ソプラノに多少の表現不足を感じます。勿論ボーイソプラノではもう十分すぎる歌唱力なんですが、それでも大人に比べると不足すると感じるところもあります。特に感じるのは二重唱における「Nun verschwinden alle Plagen,(今こそ消えゆく、あらゆる苦しみは、)」と「Nun vergnueget sich mein Herz(今こそ満ち足りています、私の心は。)」の2か所です。喜びのアリアのはずなのですが、どこか苦しく聴こえてしまいます・・・この辺りはボーイソプラノの限界のように思います。鈴木雅明氏がボーイソプラノを採用せず大人の女性で固めたのはそのほうが表現力に於いて優れているからという気がしてなりせん。一方で社会の変化に対応したという可能性もあると思いますが・・・

学究的なのが全ていいのかという疑問を、あえて学究的にすることで投げかけた演奏なのかもしれません。それがアーノンクールの狙いだったとすれば、見事に浮かび上がらせたと言えるでしょう。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第31番「天は笑い、地は歓呼す」BWV31
カンタータ第32番「いと尊きイエス、わが憧れよ」BWV32
ウィーン少年合唱団員(ソプラノ)
ポール・エスウッド(アルト)
クルト・エクヴィールツ(テノール
ジークムント・ニムスゲルン(バス)
ウィーン少年合唱団、ウィーン聖歌隊(合唱指揮:ハンス・ギレスベルガー)
ニコラウス・アーノンクール指揮、通奏低音チェロ
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集16

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第16集を取り上げます。なお、本来のCDでは第8集の2ですが、ここでは図書館の通番を便宜上使っています。収録曲は第30番です。

なお、この全集では指揮者がニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの2名体制です。今回はニコラウス・アーノンクールが担当しています。

カンタータ第30番「喜べ、贖われし群よ」BWV30
カンタータ第30番は、1738年頃に初演されたとされる、洗礼者ヨハネの祝日用のカンタータです。世俗カンタータBWV30a「楽しきヴィーダーアウよ」のパロディカンタータのため、恐らく初演は1738年6月24日ではないかとされています。なぜなら、その世俗カンタータBWV30aのほうはしっかり初演日時と場所の記録が残っているためです。

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もともとが世俗カンタータであるため、歌詞は無理やり音符に着けている部分も散見されるため、歌っている方がかなり大変そうです。特にこの演奏ではアーノンクールが指揮しているため、合唱団にはウィーン少年合唱団も採用されており、と言うことはソプラノアリアはボーイソプラノが担当するわけなんですが、そのボーイソプラノがかなり歌いにくそうです。少年でキャリアもプロに比べれば少ないということもあるとは思いますが、とはいえ公演回数がプロに比べて少ないわけでもないわけなのに。かなり歌いにくそうです。バッハのカンタータは音と歌詞が乖離する傾向があるのですが、この第30番はかなり顕著です。おそらく世俗カンタータがかなり評判だったので教会カンタータでもとなったのでしょうが、それゆえに歌うほうにはかなり負担がかかり、表現力が問われることになります。そのなかでウィーン少年合唱団ボーイソプラノはかなり健闘していると言えます。

というのも、正直アルト、テノール、バスと言ったプロであってもかなり歌いにくそうに聞こえるんです。特に第2部のバス・アリアはかなり歌詞が歌いにくそうなんです。マックス・ヴァン・エグモントですからベテランのはずなんですが、そのベテランがかなり言葉が聴き取りにくいので・・・そうとう歌いにくそうです。それでも表現するのがプロなので何とかなっていますが、それでも歌詞が聴き取りにくくなっているのは否めません。これは歌手のレベルではなくそもそも作品に起因するものと私は考えます。

これはある意味、ベートーヴェンの第九にもつながってくるものと個人的には考えます。その意味では、ベートーヴェンはバッハのカンタータも参考にしていたのでは?と考えるところです。この辺りはもう少し史料などを見てみないとはっきりとは言えませんが、今のところはそういう仮説を立てています。

その意味でも、バッハのカンタータ現代の音楽を考えるうえでも重要なテクストだと個人的には考えます。例えば、現代日本のJPOPに於いて、日本語のリズムやイントネーションに反する音の付き方が散見されますが、それはいかなる「意味」を持つのかということにもつながります。それを否定せずにどんな意味があるのかを考えることは、音楽を楽しむうえで重要だと私は考えています。その点でも、バッハのカンタータ、あるいはベートーヴェン交響曲第9番という作品は重要な影響を及ぼしているのですね。バッハのカンタータを聴くということはいまだに重要であると言えるでしょう。さらに言えば、例えば「新しい学校のリーダーズ」がバッハの和声なども参考に音楽を紡いでいることも勘案すれば、なおさらだと言えるでしょう。古いものだからといってぞんざいに扱うことは、結果的に未来を閉ざすものだと考えます。その警告の演奏だと、私は捉えています。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第30番「喜べ、贖われし群よ」BWV30
ウィーン少年合唱団員(ソプラノ)
ポール・エスウッド(アルト)
クルト・エクヴィールツ(テノール
マックス・ヴァン・エグモント(バス)
ウィーン少年合唱団、ウィーン合唱隊(合唱指揮:ハンス・ギレスベルガー)
ニコラウス・アーノンクール指揮、通奏低音チェロ
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集15

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第15集を取り上げます。実際のCDでは第8集の1になりますが、便宜上図書館の付番を私は採用しています。収録曲は第28番と第29番の2つです。

この全集は指揮者2名体制になっており、ニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの二人です。今回はニコラウス・アーノンクールが指揮を担当、そのためオーケストラもウィーン・コンツェントゥス・ムジクスです。

カンタータ第28番「神は頌むべきかな!いまや年は終わり」BWV28
カンタータ第28番は、1725年12月30日に初演された、降誕節後第1日曜日用のカンタータです。

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リリンクの時にも言及しましたが、欧米の年末は基本的にクリスマスと一体です。日本では晦日でちょうどお正月の準備で忙しい時、欧米ではちょうどクリスマスから連続して新しい教会歴を祝うということから新年を待つということになります。そのため、この第28番は年末に初演であるにもかかわらず、新しい年を待ち望む内容となっています。旧年が無事終わることを神に感謝し、新しい年が良き年になるよう神に祈るため賛美するというものです。

そのため、第1曲のソプラノ・アリアも、第2曲のコラールも、祝祭感あふれるもので、演奏もその祝祭感が存分に出ています。第3曲は多少暗く始まりますが、それは主の言葉だからというものもあります。それぞれのコントラストをしっかりつけつつ、讃美の歌にあふれています。

終始明るさと清潔さに貫かれた演奏は、恐らく日本人が聴いても腑に落ちるものではないでしょうか。個人的にはだからこそ、日本人はクリスマスを受け入れることができたのではと考えています。そうじゃないと異教のイベントを受け入れるということはないからです。しかも正直、日本のクリスマスって、宗教色が一切ないですし・・・そこを軽薄と取る人もいますが、私自身はむしろ宗教色を薄めてイベントそのものにすることで、受け入れ可能になったと考えています。同じく旧年を送り新しい年を待ちわびるのは、日本の正月も一緒だからです。そこだけを取れば、どっちも同じとも言えます。その意味では、もっと聴かれるべき曲だと思いますし、文化の理解にこのアーノンクールのタクトは非常に役立つと個人的には考えます。

カンタータ第29番「われら汝に感謝す、神よ、われら感謝す」BWV29
カンタータ第29番は、1731年8月27日に初演された、市参事会交代式用のカンタータです。

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市参事会とは、中世のヨーロッパで結成された合議機関です。特にドイツにおいては教会とも結びついていた存在です。

www.historist.jp

kotobank.jp

そのため、市参事会の交代式は教会で行われることが多く、この第29番もライプツィヒのニコライ教会における交代式で演奏されました。そのため、一見すると世俗カンタータと思われますがこれは教会カンタータに分類されます。

ですが、初演のタイミングは1731年。この時期、バッハ新作のカンタータをあまり発表していません。ちょうど市参事会とは関係性が悪化していたと言われる時期。その中での交代式用のカンタータということになります。内容も神に守られる公権力を賛美するもので、市参事会というものがいかなるものだったかを物語るものです。この第29番も本来はもっと聴かれるべき曲だと個人的には考えます。コトバンクのエントリの方に記述がありますが、日本で言えばちょうど会合衆に相当する組織です。もしかすると宣教師が伝えたのが日本でも広まった可能性もあるかもと個人的には考えます。会合衆はむしろ仏教ではありますが。

この第29番の演奏も、用途から祝祭感がある演奏になっていますが、一方で第5曲のソプラノアリアは、合唱団のウィーン少年合唱団ボーイソプラノが担当していますが、うまい!特にこの第29番のアリアは素晴らしく、言葉も聴き取りやすいですし、歌唱も無理があまりない感じです。さらに、続く第6曲と第7曲は連続していることも注目。カンタータでそういう曲は非常に珍しいのです。ソリストは毎度のポール・エスウッドですが、その表現力も見事。祈りの音楽を生命力を持って歌っています。まるで自分が主体であるかのように。その意味では、やはりスコアリーディングがしっかりしていると言えましょう。

最後のコラールも生き生きとしており、最後まで市参事会に栄えあれと呼びかけているように聴こえます。さて、当時の市参事会の人たちは、どんな居心地だったのでしょう・・・バッハが新作のカンタータをあまり生み出していないというタイミングでの、これだけの賛美と祝祭の音楽で祝福されるのは。

そのコントラストを聴き手に考えてもらうため、あえて祝祭感満載で演奏したとも取れるかもしれません。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第28番「神は頌むべきかな!いまや年は終わり」BWV28
カンタータ第29番「われら汝に感謝す、神よ、われら感謝す」BWV29
ウィーン少年合唱団員(ソプラノ)
ポール・エスウッド(アルト)
クルト・エクヴィールツ(テノール
マックス・ヴァン・エグモント(バス、第29番)
ジークムント・ニムスゲルン(バス、第28番)
ウィーン少年合唱団、ウィーン合唱隊(合唱指揮:ハンス・ギレスベルガー)
ニコラウス・アーノンクール指揮、通奏低音チェロ
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:オーケストラ・ダスビダーニャ第31回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和7(2025)年2月23日に聴きに行きました、オーケストラ・ダスビダーニャ第31回定期演奏会のレビューです。

オーケストラ・ダスビダーニャは、このブログでも何度も取り上げている東京のアマチュアオーケストラです。主にショスタコーヴィチ交響曲を取り上げる団体で、ほぼショスタコーヴィチ専門と言ってもいい団体と言えます。正確にはショスタコーヴィチ「専門」ではなく他の作曲家の作品をとり上げたりもしますが(実際第19回では邦人作品も取り上げています)、毎回のプログラムはほぼショスタコーヴィチのみということの方が多いです。なお、公式にショスタコーヴィチ「専門」はオーケストラ・ダスビダーニャさんは否定されています。

www.dasubi.org

ykanchan.hatenablog.com

このエントリでは、私の愛着を込めて「ダスビ」と略称させていただきますが、ダスビは毎回素晴らしい演奏を繰り広げてくれます。定期演奏会は毎年1度で、ファンが全国から足を運ぶ珍しい団体となっています。毎回チケットは争奪戦になるのですが、今年は珍しく直近まで余っていたようです。今回のホールはすみだトリフォニーホールでしたが、私が座った3階席はかなり空いていました。ただ、前方席はほぼ満席で、やはり人気の高さがうかがえます。今回は錦糸町という場所が若干不利だったのかなという気はしました。特に羽田空港からだと若干不便なんですよねえ。特に地方の方は乗り換えを嫌がりますし、また錦糸町だと山手線の外側なので、空港からの運賃が跳ね上がるということも、今回最後まで席が余っていた理由かもしれません。ただ、私はどちらかと言えば昨年の東京芸術劇場よりはすみだトリフォニーの方が好みです。東京劇津激情がダメというわけではないんですが・・・

昨年のエントリを以下に挙げておきますが、昨年はメインがショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」。そして今年は交響曲第8番でした。これはいわゆるショスタコーヴィチの「戦争三部作」と言われる一つになります。たいてい「レニングラード」の後は第8番であることがダスビは多いです。

ykanchan.hatenablog.com

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そして、1プロとしては、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が演奏されました。一つ一つレビューします。

①歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人組曲(1991年ジェームズ・コンロン編)
ムツェンスク郡のマクベス夫人」は、ショスタコーヴィチが書いた2つのオペラのうち、最も有名なオペラです。初演は大成功でしたが、不倫を題材にしたことからかなりの問題作とされ、初演から間もなくして演奏禁止の憂き目にあってしまいます。

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ただ、実は題名がショスタコーヴィチの意図を暗示しているとされ、地方の商家を描くことで地方社会の閉鎖性や後進性を提起するものだったようです。ダスビが今回取り上げたのも、そのあたりの問題提起もあったようです。毎回分厚い冊子がダスビの売りですが、ざっと流し読みしただけでも、ショスタコーヴィチがこの曲に込めた複雑に絡み合った社会の問題を提起しようとしたことに対する、団員たちの共感が見て取れます。

このオペラは組曲にもなっていますが、このコンロン版は上記ウィキペディアには登場しません。この版はアメリカの指揮者ジェームズ・コンロンが1989年にケルンで振った後、ニューヨーク・ナショナル交響楽団での演奏の時に編曲したものを組曲にしたものです。この辺りはさすがショスタコーヴィチを中心に演奏を行うダスビならではです。どこかの「SNSにこそ真実がある!」とか叫んでいる人たちはこれを捏造だとか言い出すんでしょうか・・・以下の音源を参考に、ダスビが採用した可能性は極めて高いと個人的には考えますが、これくらいを検索できないんでしょうか。

ml.naxos.jp

そう考えると、SNSにこそ真実がある!とか言っている人たちには何かう・・・おっと、誰か来たようだ。

さて、組曲というものはたいていオペラで演奏される順番通りになっていないことが多いのですが、このコンロン版のその一つです。と言っても実はほぼオペラ通りなんですが、ただ一つの例外が、第1曲目の「イズマイロフ家の中庭で」です。実はこの曲は第4幕第9場で使われる曲なのです。ただ、サスペンスドラマの導入かと思うような、ティンパニが地の底から段々大きく響いてくるかのような始まりをするので、まるで導入かと思ってしまいます。このティンパニがまたうまいんです、ダスビは。硬くぶっ叩いてくれるのは私好みでありながらも、しなやかでもあり、ゆえに雄弁なんです。ティンパニで雄弁な演奏が聴けるなんて、さすがダスビです。

ただ、この組曲、ある意味最後をいきなり提示して、その回想みたいな印象も構成からは受けます。映画やドラマをたくさん見ている人であれば興味がわく構成なのではと思いますし、演奏時間も考えた時、その構成は興味深いと団員の方が考えたからこそ、このコンロン版を選んだのかなと思います。実際当日も2時間30分ほどのコンサートとなりました。まあ、ダスビだとあるあるなので驚きはないんですが・・・普通は2時間で終わるコンサートが多いので、2時間だと思っていくと焦るということがあるので、ご注意を。

弦楽器もやせた音が少ないのも本当に素晴らしいと思います。実際ダスビの団員さんは首都圏だけでなく地方の方もいらっしゃるので、東京のアマチュアオーケストラと述べましたが実際には日本のアマチュアオーケストラというほうが正確かもしれません。その意味では、まさにダスビのレベルは日本のアマチュアオーケストラのレベルの高さを見せつけるものでもあります。特にこの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では、ppとffの差による繊細な表現もあり、魅力的な演奏でした。さらに、ここで取り上げられている音楽は、どれもどちらかと言うと例えば不倫ドラマによくあるキスシーンや濡れ場と言った男女の関係がすぐ予想されるものではなく、むしろ人間の暗い内面を描いたような音楽が選択されています。それはまさしく、ショスタコーヴィチがこのオペラで描きたかった、社会の後進性による悲劇の一端が不倫という形で表れているという問題意識だと思います。その意味では、現代社会に於ける男女関係の捉え方にも警鐘を鳴らすということもあったのでは?と、今回この組曲が取り上げられたのをきっかけに考えました。

交響曲第8番
交響曲第8番は、上述したように「戦争三部作」とも言われる作品で、第2次大戦を題材に作曲された作品です。ただし、ショスタコーヴィチが作曲するわけですから単純なものではないことは明らかです。ショスタコーヴィチはこの作品を「楽観主義的な、陣せぢ肯定的な作品」としていますがそれは例えば当局による「ジダーノフ批判」などを怖れたからだと個人的には考えます。第1楽章の主題展開部では思いっきり慟哭の叫びとなっていますし、最終第5楽章フィナーレは音楽が消え行って終わります。途中に確かに明るい音楽も存在しますが、基本的には哀しい音楽がそこにあります。

ダスビの団員さんたち、そして今回もタクトを振られた長田先生もおそらく同様だと思いますが、ショスタコーヴィチの戦争に対する複雑な気持ちに共感しているように思います。特に第1楽章主題展開部の慟哭部分、そのフォルティシモの何と強烈なこと!ホールを満たす大音量。まさに音のシャワーを浴びるという表現が相応しい、強烈な音楽に包まれます。いや、ぶっ叩かれると言うほうが適切でしょう。それだけ、作品に込められたショスタコーヴィチの想いに共感する演奏者たちの気持ちが乗っていました。

前回第8番が演奏された、第22回にも足を運んでいますが、その時よりもさらにパワーアップした演奏です。

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それはおそらく、戦火が世界を覆っているような、何かきな臭いことになっていることが背景にあるのではと思います。例えば、ウクライナであり、例えばガザと、虐殺にも等しい惨状がそこにあります。そんな中で、穏やかな曲を選択できないでしょうし、昨年の「レニングラード」に続き第8番をとなったのは自然な流れだったのではと思います。その戦火への想いが、演奏に反映されるのは、ダスビの団員さんにとっては逃れようのないことだったのではないでしょうか。果たして、戦争という手段が適切だったのかは、もう今から考えるべきことのように私には思われます。ドイツの戦略家クラウゼヴィッツは、「戦争とは政治の延長」と語り、目的を達成するための手段だと述べていますが、同時に実はクラウゼヴィッツは戦争に拠らない解決方法があれば取るべきとも「戦争論」の中で述べています。そのテクストで言えば、この時期にショスタコーヴィチの第8番を聴くというのは、非常に意義深いことだと思います。戦争と言う「政治問題を解決するための行為」は人命の犠牲が多すぎ、その犠牲に果たして見合うのか?ということです。勝った方も負けた方も、果たしてそれは釣り合うのか・・・特に、第1楽章主題展開部で出てきた旋律は、最終第5楽章で繰返されるため、むしろこれこそショスタコーヴィチがが言いたい核心ではと個人的には思いますし、演奏もその部分が最も強烈であり共感しているところだったと思います。特に今ウクライナで起こっていることは、遡れば第2次世界大戦、あるいはそれ以前のウクライナとロシアとの関係にまでさかのぼれるため、仮に停戦が実現できたとしてもその先の交渉は難航するでしょう。それはちょうどショスタコーヴィチが作品に込める想いにつながる、彼が生きた時代に理由を求めることができるわけですから。

その意味でも、今回交響曲第8番が選択されたのだろうと、個人的には思います。通常は次回は来年で定期演奏会は確かに来年なのですが、何と!この夏に特別演奏会を実施するというニュースが冊子に!ちょうど今年はショスタコーヴィチ歿後50年の記念の年。ついに私が願っていた第14番が演奏されます!これは必ず足を運ぼうと思います。8月11日に、江戸川区総合文化センターという多少デッドなホールですが、期待値大です!特に第8楽章「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」を、ダスビがどのように表現するのか、今からワクワクします!

 

聴いて来たコンサート
オーケストラ・ダスビダーニャ第31回定期演奏会
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ作曲
歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人組曲 ジェームズ・コンロン編(1991年)
交響曲第8番ハ短調作品65
長田雅人指揮
オーケストラ・ダスビダーニャ

令和7(2025)年2月23日、東京、隅田、すみだトリフォニーホール大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:合奏団ZERO第33回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和7(2025)年2月16日に聴きに行きました、合奏団ZERO第33回定期演奏会のレビューです。

合奏団ZEROさんは東京のアマチュアオーケストラです。このブログでも何度か取り上げているアマチュアオーケストラで、私が参加しているFacebookのグループ「クラシックを聴こう!」にメンバーさんが参加されております(第2ヴァイオリン)。

tokyo-met.com

ykanchan.hatenablog.com

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上記2回とも中野ZEROホールですが、本来は杉並公会堂で演奏することも多いようで、今回は杉並公会堂でした。実は、このZEROさんが杉並公会堂で演奏するのを心待ちにしていたのです。そもそも、最初足を運ぼうとしていたのが第19回定期演奏会で、場所が杉並公会堂。ちょうどアマチュアオーケストラが協奏曲を演奏するというので興味を持っていたことから、合奏団ZEROさんへの興味は始まっています。その時はピアニスト小林亜矢乃さんが私の職場に関係する人だったのでチケットがあったのですが、職場の配置の問題で行けずじまいでした(もう少し早く上司から提案されていたら足を運べたのですが)・・・ようやく前回と前々回で足を運べたわけですが、その時は2回とも中野ZEROホールだったので、今回はワクワクしていました。

今回のプログラムは以下の通りです。

スメタナ 歌劇「売られた花嫁」序曲
ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
チャイコフスキー 交響曲第4番

合奏団ZEROさんはたいていプログラムに協奏曲もしくはオーケストラ付き歌曲を入れることが多いように思います。これはアマチュアオーケストラとしてはかなり意欲的なことです。むしろ第31回のように入っていないことのほうが珍しいくらいです。ではなぜ協奏曲をアマチュアが入れるのが意欲的かと言えば、自分たちだけではなく他者とアンサンブルを作っていかないといけないから、です。しかも大抵はプロとの共演になるわけで、実力差もあります。その状況でどのようにアンサンブルを作っていくかが問われますので、非常に難しいのです。

今回のソリストは、印田千裕さん。幅広く活躍されているヴァイオリニストで、CDもかなり出されています。当日会場にも売られていましたが、宮前フィルの東さんの時同様、予算等の関係で買えなかったのは残念です・・・

chihiroinda.com

合奏団ZEROさんの実力は判っていますが、とはいえ、ブルッフのヴァイオリン協奏曲は結構歌う作品なので、どこまでオーケストラが歌えるかという部分も聴きどころです。

スメタナ 歌劇「売られた花嫁」序曲
1プロはスメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲。中学校の音楽鑑賞の時間などで、副読本には必ずスメタナの代表作の一つとして掲載されていることが多い、スメタナ作曲のオペラです。

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スメタナの音楽は、チェコ民族音楽に立脚しつつも、後期ロマン派と融合しているため、後期ロマン派らしさもありながらも生命力があるのが特徴だと個人的には考えています。今回も指揮者松岡さんはテンポとしては速めを採用し、喜劇であるこのオペラの本質を浮かび上がらせていました。冒頭、主題がいろんな楽器に受け継がれて奏されていく様子が聴いていてワクワクします。最後までスメタナが作品に込めた、チェコの人々の悲喜こもごもを描くことを見事に表現されているのがすばらしい!やせた音もないですし、これってプロオケなの?と初めて聴いた人は驚かれることでしょう。それだけ、そもそも合奏団ZEROさんのレベルが高いんですよね。毎度感服します。

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番は、ブルッフのヴァイオリン協奏曲の中でも最も有名で人気が高い作品です。ですがこの曲、アマチュアオーケストラにとっては楽章が繋がっていることが演奏面で大変な所だろうと思います。以下のウィキペディアの説明では省かれていますが、第1楽章と第2楽章は明確につながっており連続して演奏されます。気が付いたら第2楽章に入っていますので、特に集中して演奏しないといけないということになります。

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そのうえで、今回のソリストが印田千裕さんということを勘案すれば、そのレベルの違いというものも考慮して練習しないといけないわけです。つまり、自分たちのレベル向上という意味合いが強い、ということです。私としては合奏団ZEROさんだからこそ安心して聴いていられますし期待もしますが、とはいえ各人日々の生活があり仕事もある中でレベルの向上を目指すわけですから、その苦労は半端じゃないと思います。私もアマチュア合唱団員だったころ、毎日退勤後銀座から青山一丁目まで歩いてからだを鍛えていたことを思い出します。レベル向上には単に練習するだけでなく、しっかりと声が飛ぶ体を作らねばならなかったからです。同じ様なことを合奏団ZEROの皆様もやられているはずです。

結果は・・・まさに歌うブルッフソリストの優しく歌うヴァイオリンに、アインザッツの強く流麗、そして雄弁なオーケストラ。ザ・後期ロマン派という演奏です。重厚感はあまり感じず、ブルッフの歌謡性が前面に出ており、第2楽章の歌謡性の高い楽章に重きを置いたブルッフの魂が、そこにありました。実際はかなり重厚な響きなのですが、それを全く感じさせない流麗さなのです。これが後期ロマン派、特にブラームスあたりの時代の作品の魅力だと思いますが、その魅力を存分にオーケストラもソリストも味わっており、さらに聴衆も酔いしれた演奏でした。アンコールはパガニーニの「24のカプリース」から第20番。美しさは天下一品!

ただ、気になったのはソリスト印田さんのヴァイオリンに多少力強さがなかったこと。美しさを追及したせいだとは思うのですが、もう少しオーケストラに合わせてアインザッツを強めにしても良かったかな~という気がしました。この辺りはあえてかもしれませんし、パガニーニでは力強さもあったので、指揮者松岡さんとの話し合いでそうなったのかもです。この辺りはもう好みなのでいい悪いではないんですが・・・ただ、第3楽章はとても生命力があって、魂で楽しんでいる様子が印象的でした。やはり多くのCDを出されているだけあるなあと思います。

チャイコフスキー 交響曲第4番
指揮者松岡さんが「第5番よりも難しいので今回採用」と冊子で語っておられたのが、今回演奏された第4番です。チャイコフスキーがフォン・メック夫人からの支援を受けて心身ともに充実した時期に書かれた作品ですが、ちょうど結婚生活が破綻していた時期。そりゃあ、鬱屈したものがそこには反映されるよねえと思います。特に、チャイコフスキーをLGBTQと捉えれば、そこに異性の奥様が無理やり入ってくれば想像はできます。

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その意味では、演奏するほうもかなり内面を掘り下げるとなった時に苦労すると思うのです。つまり、LGBTQではない人がLGBTQの内面を推しはかり、作品の本質を掬い取るためには、相対化せねばならないからです。これ、意外と人間が苦手とするものです。それが得意なのであれば、正直宗教などが理由の戦争など世界からなくなっています(ついでに言えばトランプ大統領が再選されることもなかったでしょう)。苦手とするからこそなくならないのです。ですがチャイコフスキーの、特に交響曲を演奏する場合はその相対化という作業が必要になります。

そのうえで、交響曲第4番という作品はリズムも特徴的で、しかもこれも意外と歌う作品。聴き手には簡単そうに見える旋律も、演奏するとなるとむしろ困難、無理と言っても過言ではないでしょう。ですが、別に普通の「性」の人であったとしても、自分の理想と現実とのギャップに苦しむということは良くある話で、それがチャイコフスキーの場合は異性との婚姻だったと考えれば、相対化できるので共感できる部分は多々あるわけです。そこをどう感じて自分のものとして表現するか・・・リズムも複雑な点もありながら、です。

当日は、指揮者松岡さんはゆったり目なテンポで入りました。私としてはもう少し速いほうが好きですが、全く拒否というほどの遅さではありません。明らかにアマチュアのレベルを考慮してという意識が見えました。ただ、私としてはもう少しオーケストラを信じてテンポアップしても良かったかな~と思っています。合奏団ZEROさんはすでにレベルは東京のアマチュアオーケストラの中でもトップクラスなので。そうするとさらにチャイコフスキーの苦悩がはっきりしたように思います。今回の演奏でも十分表現できてはいますけれど。

でも、激しさという意味において、多少弱かったかなという気はします。それでも吠える金管チャイコフスキーの魂の叫びの様でしたし、第3楽章のピチカート・オスティナートは、チャイコフスキーの中のつかの間の楽しさという感じでした。全体としては素晴らしい演奏でした。最後のクライマックスではもう団員全員全開の演奏!残響が完全に終わる前に始まった万雷の拍手がそれを物語っているでしょう。ブラヴォウもブルッフと同等飛びました。

合奏団ZEROさんだと協奏曲も交響曲もほぼ安心して聴いていられます。これは私にとっては本当にありがたいことで、一種の精神安定剤の役割を果たしています。この場を借りて御礼申し上げます。次回も是非とも足を運べればと思っています。次回はシューマンの「春」とブラームス交響曲第4番。交響曲詰め込みであると同時に、対照的な二つをどう演奏し分けるのか、今から楽しみです。

 


聴いてきたコンサート
合奏団ZERO第33回定期演奏会
ベドジヒ・スメタナ作曲
歌劇「売られた花嫁」序曲
マックス・ブルッフ作曲
ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第4番ヘ短調作品36
二コロ・パガニーニ作曲
24のカプリースより第20番(ソリストアンコール)
印田千裕(ヴァイオリン)
松岡究指揮
合奏団ZERO

令和7(2025)年2月16日、東京、杉並、杉並公会堂大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。