かんちゃん 音楽のある日常

かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:リヒテル・イン・イタリー

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、リヒテルのイタリア公演時のアルバムです。

リヒテルは様々な録音を残していますが、これはリヒテルの1962年イタリアツアーで演奏した曲を集めているわけですが、実はシューマンの曲ばかり集められています。このイタリアツアーでは様々な作曲家の作品が演奏されていますが、このアルバムではシューマンばかりとなっています。この時の様子はドイツ・グラモフォンとEMIとに録音されていますが、これはEMIの方となります。

集録されているのは、「蝶々」「ピアノ・ソナタ第2番」「ウィーンの謝肉祭の道化」の3曲です。これは渋い選曲だなあと思います。シューマンを取り上げるにしても、この3曲を取り上げるケースは少ないと思いますし、玄人好みでしょう。それを自信をもってコンサートピースに持ってくるリヒテルはやはりただモノではないですし個性的です。

「蝶々」は作品2というシューマン若い日の作品ですが、ロマン派の作品らしい文学との関連が強い作品です。「蝶々」と言うのは昆虫のことを言うのではなく、元になった小説「生意気ざかり」を書いたジャン・パウル・リヒターが自身の文学の中でロマン的な詩的理念の象徴として出て来るもので、「蝶々」を表現したと言うよりは作品の中に出て来る仮面舞踏会の様子を蝶々に見立てたその様子を表現したものと言えます。

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ですので曲を聴いていても蝶々が飛んでいるというよりは、その様子が蝶々のように見えるその風景や内面性が前面に出ていると聴こえます。リヒテルも決して昆虫を表現しているわけではなく、情景や人間の内面に迫っているように思います。

第2曲目のピアノ・ソナタ第2番はシューマンらしくないと言われますがロマン派らしい作品とも言えます。この曲をリヒテルが選んだというのも興味深いです。かなりシューマンが悩みながらも完成させた苦労作とも言える作品です。ですが演奏を聞く限りでは、それほど霊感がないとも思えず、リヒテルは第2番をかなり評価したうえで、どこか自らの苦悩と重ね合わせているのかなとも思います。

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最後の「ウィーンの謝肉祭の道化」は事実上のピアノ・ソナタとも言われます。確かにシューマン本人が最初は「ロマンティックな大ソナタ」と名付けようとしていたそうです。ある意味第2曲目との対比で持ってきたのかなとも思います。リヒテルの演奏はこの曲でもダイナミックかつ繊細で、手を抜く素振りがありません。

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シューマンピアノ曲ベートーヴェンの時代に比べるとテーマが多彩で、まさに「ロマン派」という音楽運動に相応しいと言えます。リヒテルの演奏は勿論、このプログラミングを見ても、ロマン派という音楽運動に対する共感を感じます。そのうえで、聴衆に「ロマン派という音楽運動とは何か」と問いかけるものでもあるように思います。そう考えると、シューマンの曲ばかりならべるということ自体にも意味があるように私には思えます。シューマンと言えばロマン派を代表する作曲家であり、ロマン派という音楽運動の方向性を決定づけた作曲家とも言えます。そのシューマンという作曲家、ひいてはロマン派という音楽運動を聴衆に考えさせるプログラムは魅力的です。リヒテルと言えばその演奏のすばらしさが語られることが多いですが、こういった曲目もまた、演奏家の個性が現れるものだなあと改めて考えさせられます。私もアマチュアオーケストラのコンサートをその演奏レベルだけでなく曲目で判断することが多いのですが、ようやくクラシック音楽という芸術が何たるかを理解できる年齢になってきたのかなとも思います。願わくばそういう経験をもっと若い時期にできると良かったなあと思いますが、まあそれはもうしょうがないでしょう。少なくとも若い人たちにはもっとそういう経験をしてほしいと願っています。そうなると人生はもっと豊かになります。

景気が悪くなかなか若い人もそういう経験がしずらい状況ですが、今あるものをうまく使って豊かさを実感できる仕組みがあるといいと思いますし、その一つの手段が図書館であってほしいと願っています。小金井市立図書館や府中市立図書館のライブラリはその一翼を担っていると言えましょう。できればさらなる充実を願います。

 


聴いている音源
ロベルト・シューマン作曲
パピヨン(蝶々)作品2
ピアノ・ソナタ第2番ト短調作品22
ウィーンの謝肉祭の道化 作品26
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:リヒテル名演集2

東京の図書館から、2回にわたりまして取り上げております、小金井市立図書館のライブラリである、スヴャトスラフ・リヒテルの名演集、今回はその第2回です。

今回は第2集ですが、第2集に収録されているのは、ショパンシューベルトシューマンドビュッシーラフマニノフプロコフィエフです。イタリアとイギリス、そしてポーランドにおけるライヴ録音から抜粋されています。

ライヴ録音であるせいなのか、それぞれピアノがダイナミックであることも、この録音の特徴の一つです。例えば、2曲目のショパンエチュード第12番は有名な曲ですが、そもそもエチュードは「練習曲」なんです。けれどもそのピアノの激しくまるで嵐ような・・・超絶技巧のリストなどとは距離を置いたはずのショパンですが、実際にはかなり激しく弾くこともできます。そもそも激しさを内包しているとも言えます。「革命」という題名はリストの命名とされショパンは革命を意識してはいなかったと言われますが、それでもどこかに革命を支持するようなドグマが常にショパンの心の中にあったのかもと思わざるを得ませんし、リヒテルがその内面をスコアから掬い取ると自然に激しくなるのかもしれません。

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続くシューベルトベートーヴェンに近い時代の作曲家であり、ベートーヴェンが認めた作曲家のひとりでもあります。ショパンに比べますとおとなしい音楽ですが、かといってその音楽は人間味があり、このリヒテルの演奏はどこか暖かいものです。

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続くレントラーは舞曲。楽し気な様子が目に浮かびますが、連続して演奏されるのも特徴です。17曲の中から第1番~第5番までをつなげて一つの作品のように演奏しています。そもそもこのように遊ぶための作品なのかもって思ってしまいますし、少なくともリヒテルは遊べる曲だとの解釈で演奏しています。軽薄ではなく内面性も持つ音楽は、悲しい時も踊って忘れてしまおう!と言われてるように感じます。

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続くシューマンのアベッグ変奏曲。想像のアヴェッグという人に献呈された曲ですが、若い情熱が迸るような作品でもあり、リヒテルシューマンが誰かを想っているように弾いています。

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6曲目から8曲目はドビュッシーの「版画」。象徴主義ドビュッシーの音楽を誠実に表現しています。ドビュッシー印象派と言われますが最近は象徴主義というカテゴライズが一般的になっており、下記ピティナの解説もその路線になっています。3つの音楽それぞれのシーンが浮かび上がるかのよう。

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9曲目から11曲目もドビュッシーで「前奏曲第1巻」。各曲に標題がつけられているのが特徴ですが、その標題から何を想像し、弾くのかというところにドビュッシーが求める「練習」があるのかもと思う作品ですし、実際リヒテルも想像力の翼を広げているように聴こえるのです。

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12曲目から18曲目はラフマニノフの「練習曲」。これは古典的な練習曲でありながらも、ラフマニノフが活躍した時代が反映された練習曲だと言えます。ここにはショパンドビュッシー、そしてラフマニノフそれぞれの練習曲が抜粋で収録されているわけですが、それぞれに個性があって、求めるピアノの「練習」が異なる点もまた聴きどころ。さらに練習のはずなのにがっつり弾くとこれが練習?と思わんばかりの内面性を持つ音楽がズラリ。リヒテルが演奏で表現したかったのも、練習とは何ぞや?ということなのかもしれません。

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最後はプロコフィエフの「つかの間の幻影」。1915~17年に作曲されたという時代を反映した音楽です。時代とピアノの性能を存分に生かした調性で表現したいものとは何かを追及する演奏が求められると思いますが、リヒテルはその理想を実に誠実に表現していると思います。

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これだけ盛沢山の演奏から見えてくるものは、リヒテルの音楽に対する向き合い方です。誠実かつ繊細で大胆な表現は、作品が持つ魂を掬い取っているように聴こえます。そしてリヒテルのピアニズムの幅広さ。それはリヒテルの音楽に対する誠実さがあって初めて実現するように思います。技術的基礎を、表現にどのように使うのか。技術をひけらかしても人の心を感動はさせられないという信念があるかのようです。こういうピアノの演奏は私は好きです。どの閥がどうのとかは、評論するときは確かに考慮はしますが、感動するためには重要ではないと思います。要素の一つでしなく、全部では私自身の中にはありません。リヒテルの演奏に私が共感し感動するのは、その実直なスタイル故だなあと、改めて思うところです。さて、現代は誰がそんな演奏をしてくれるのか・・・リヒテルに感動しながら、若い人にも注目していきたいと思います。

 


聴いている音源
フレデリック・ショパン作曲
練習曲第1番ハ長調作品10-1
練習曲第12番ハ短調作品10-12「革命」
フランツ・シューベルト作曲
アレグレット ハ短調D915
17のレントラーD366から
第1番イ短調・第3番イ短調・第5番イ短調・第4番イ短調・第5番・第4番・第1番
ロベルト・シューマン作曲
アベッグ変奏曲作品1
クロード・ドビュッシー作曲
版画
前奏曲第1巻から

野を渡る風
アナカプリの丘
セルゲイ・ラフマニノフ作曲
前奏曲第3番変ロ長調作品23-2
前奏曲第5番ニ長調作品23-4
前奏曲第6番ト短調作品23-5
前奏曲第8番ハ短調作品23-7
前奏曲第12番ハ長調作品32-1
前奏曲第13番変ロ短調作品32-2
前奏曲第23番嬰ト短調作品32-12
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
束の間の幻影 作品22から
第3番:アレグレット
第6番:コン・エレガンツ
第9番:アレグレット・トランクイロ
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

音楽雑記帳:Qobuz、始動!私の視点

音楽雑記帳、今回は音楽配信サービスQobuzについてです。

Qobuzはフランスで設立された音楽配信サービスです。1億曲もの作品を揃え、ストリーミングもダウンロードもできるサービスです。

www.qobuz.com

私は今までe-onkyo musicを使ってきましたが、10月16日についにサービス終了。Qobuzに統合されました。そのQobuzが10月23日にプレオープンしましたので、早速データ移管をして会員になりました。なお、ダウンロードだけであれば無料で会員登録できますが、ストリーミングを楽しむためには定額会員になる必要があります。現在はstudioプランだけですが、Sublimeというダウンロード時に割引になるサービスはないそうです。翌24日には正式オープンしたそうですがそれでもSublimeプランは設定されていません。この辺りの理由はわかりません。

一方で、先日このブログではe-onkyo musicで購入した音楽ファイルは再ダウンロードできないと述べましたがそれは誤りで、どうやらデータ移管された後では再ダウンロードできるとのことです。ただし、不可のものも存在するということで、実際どれが可能でどれが不可なのか、私自身の購入履歴を見てみますと、何と・・・

まず、バッハ・コレギウム・ジャパンの録音は全て不可、そのうえで東京フィルのベートーヴェン第九とヴィヴァルディのフルート協奏曲でエンジニアが手動でリサンプリングしたアルバムは不可、となりました。それ以外は再ダウンロード可能です。バッハ・コレギウム・ジャパンに関しては、Qobuzで新たなラインナップがあって、そちらは購入可能となっています。まあ、全体の中では少数なのですが、結構気に入っている録音が軒並み不可となったのはちょっと寂しいです。ローカルにあるファイルがいつまでも無事でいてくれることを願うのみです・・・

ただし、e-onkyo musicになかった音源がQobuzには存在するのは大きな収穫です。おそらく来月ご紹介することになるかと思いますが、フローリアン・ヘルガート指揮オーケストラ:コンチェルト・ケルンによるモーツァルトのレクイエム、オシュトリーガ版の録音が存在することは確認済みです。この音源はパナムジカさんでも紹介されていますが、パナムジカさんでCDを買うよりも    Qobuzでハイレゾを購入してダウンロードするほうが音質がよく値段も700円ほど安いのが特徴。この点ではQobuzへの移行は正解だったのかもと思います。

www.panamusica.co.jp

ストリーミングサービスだと一人プランなら1ヶ月1280円ほどですので、さらに安いと言えます。ただし私はストリーミング会員にはならず無料会員でダウンロードのみを選択しました。ハイレゾだと高くつきますが仮にラインナップに希望する音源がなくHMVなどでCDを買うことになった場合はハイレゾのみの購入よりも高くなるためです。ストリーミング会員になるのはもう少し先にしようと思います。一年の中でほとんどCDを購入することがなければ、その時ストリーミング会員になろうと考えています。まあ、以下のサイトでも言及されていますが、いろいろ問題点はあるようですし・・・この辺りは、使って見ながら判断でいいと思います。

audio-renaissance.com

決済もクレジットカードだけでなく楽天ペイ、d払い、auかんたん決済が選べるので、クレジットカード持ってないんだけどという人もスマートフォンさえあれば購入可能です。銀行振込はありません。現金決済が通常という人はスマートフォンをお持ちなら電話料金と一緒に支払いという形が選択できます。ただしそれもまとめてになりますので買い過ぎにご注意を。そういう人はストリーミングサービスを選択するほうがいいかもしれません。あくまでもストリーミングサービスは私の見立てでは視聴が出来るという事であり気に入ったらダウンロードしてくださいというスタンスだと思われます。まあサイトから消えてもその時だけ楽しめればいいという人はストリーミングサービスをどんどん楽しめばいいと思いますが、クラシックファンだとむしろ手許に持っておきたいという方が多いと思いますから、ストリーミングサービスを楽しみながら「これいい!欲しい!」となった時だけ購入してダウンロードという使い方がいいと思います。ただ、短い時間の視聴は無料でも出来ますので、その機能を使うだけでいいという方は、私と同じように無料会員になりいいなと思ったものだけダウンロードでいいと思います。

プレーヤーに関しましてはまだダウンロードしていないので何とも言えません。様々な方が音質に関して述べられていますので現時点ではそちらに譲りたいと思っています。なぜなら私自身はTune Browserでいいと思っているからです。実はQobuzでラインナップされている音楽ファイルにはCD音質も存在しますし24bitだけでなく16bitも存在しますし、何なら96kHzどころか88kHzも存在します。それでもいい音でなるでしょうが私のようにリサンプリング再生が普通になっている人の場合だと、補正して聴けるようそもそも最初からTune Browserを使うほうが無駄がないですしPCのリソースを使わなくて済みます。一応こんど音源を買う時にはアプリをダウンロードしておこうとは思いますが、たぶん音質からしてTune Browserで十分だろうと予想しています。そう判断した暁にはQobuzのプレーヤーは削除でもいいと思っています。ただ、私自身はソニーのMusic Center for PCアプリをいまだ保有していますが、仮にQobuzのプレーヤーでも十分行けるとなった場合には、Music Center for PCを削除でもいいかなと思っています。ここ2、3年のネットワークオーディオやストリーミングサービスの進展を鑑みますと、すでにMusic Center for PCも時代遅れの感がぬぐえないからです。

少なくとも、Qobuzのオープンは日本で本格的なネットワークオーディオやストリーミングサービスの開始をつげるものと考えて差し支えないでしょう。海外由来であるからこそ、日本のサイトではなかなかない音源を見かけることもできますし何なら日本でまだ発売されていないような音源も先に購入できるかも。いろんな問題点はありますが、私も上記サイト同様、まずはオープンを祝いたいと思います。一年待たされていろいろ問題点はありますが、クラシックファンにとっては使いやすいものになったのではと思います。後はラインナップ次第ってところですが、それは今後見守りたいと思います。

 


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

音楽雑記帳:「ティトゥス・ウコンドン」に見るダンスとモーツァルトの存在、そして与えた影響を考える

音楽雑記帳、今回は2024年10月20日に聴きに行きました、藝大プロジェクトの「ティトゥス・ウコンドン」を見て考えたことについてです。テーマはダンスとモーツァルトの存在、です。

藝大プロジェクトの「ティトゥス・ウコンドン」については、先日エントリを立てました。

ykanchan.hatenablog.com

実は、ここで書ききれなかった点があります。それは、幕間で演じられるダンスと、モーツァルトの存在です。そのため、今回はその2点に焦点を絞って述べたいと思います。

1.ダンス・・・パントマイムを導入する意義はその歴史にあり

まずダンスなのですが、今回はコンテンポラリーダンスということでパントマイムが導入されていました。演出は古楽ヴァイオリン奏者でもある布施砂丘彦さん。そもそも、演出を前から手がけているそうで、しかもミヒャエル・ハイドンの演奏を手がける「ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト」を立ち上げて活動されている方でもあります。

note.com

ブックレットで解説を書かれた、慶應義塾大学文学部教授の西岡尚生先生はその中で「幕間劇全体は『無言劇die stumme Vorstellung』だと言うが、明らかに音楽を伴ったもので、演劇台本には『宮廷舞楽師が稽古をつけた』という記述や第1部に関しては『悲劇的舞踊』という言葉も見られるので、恐らくダンス(舞踊)の要素を取り入れたものだったのだろう。それゆえ、本稿(私註:当日のブックレット)では以下、この幕間劇を『バレエ・パントマイム』と呼ぶこととしたい。」とあります。以前にも参照したウィキペディアのパントマイムの項目を見てみましょう。

ja.wikipedia.org

そもそもが「無言劇」という日本語訳があり、そのうえで現在のパントマイムが主にヨーロッパ、とくにフランスなどで発展したことを踏まえますと、そもそも今回の幕間劇のような形が中欧に於いて存在したことが、現在のパントマイムに発展する基礎となっていると考えていいわけです。その発展の歴史を鑑みれば、初演当時を類推する時、パントマイムを選択したことは当然だと言えます。この辺りに、布施氏の深い教養が見て取れます。クラシック音楽は単に楽譜を見て音を出すだけではなく、その背景や歴史も踏まえる必要があることを明快に示しており、そのような教育を受けていることを証明してみせたと言えます。

こういう選択が普通にできてしまうだけの才能が、現代日本には私たちが知らないだけで綺羅星のごとく存在しているということなのです。まさに中島みゆきが歌う「地上の星」(NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」の主題歌)そのものです。

www.youtube.com

※上記YouTubeは旧作ヴァージョン

2.「ティトゥス・ウコンドン」とモーツァルトとの深い関係
①1770年上演時にはいないのにモーツァルトが参考にして曲を書いた?

ティトゥス・ウコンドン」は1770年にラテン語初演がなされていますが、実はこの作品はモーツァルトと深い関係があると言われています。何と!初演時にはいなかったはずのモーツァルトが「ティトゥス・ウコンドン」を参考にして曲を書いたというのです。その作品は「救われたベトゥーリア」。

www.marimo.or.jp

上記サイトでも、また上記サイトも参考の一つにしている東京書籍「モーツァルト事典」でも、「救われたベトゥーリア」に「ティトゥス・ウコンドン」の影響があったとの記述はないのですが、恐らく情報が古いものと思われます。藝大プロジェクト当日の冊子で慶應義塾大学文学部教授の西川尚生先生は最終合唱が「ティトゥス・ウコンドン」の「主に向かって喜ばしく歌を歌え、僕たちよ!」MH.142を下書きにしていると、近年の研究成果から述べています。そういえば、このMH.142も最終合唱なのです。さらに西川先生はこの合唱が「トールス・ペレグリヌス(第9詩編唱定式)」と同じだと言われています。私個人の視点では、全体の中の最後のほうに持ってくるという構造が似てもいます。また、「救われたベトゥーリア」における多少グロテスクな表現も、「ティトゥス・ウコンドン」を参考にしたものとも言えるのかもしれません。

②1774年上演時にはモーツァルトがいた?

ティトゥス・ウコンドン」は初演が1770年、ドイツ語上演が1774年(ウィキペディアはこちらを採用)ですが、その1774年上演時には、モーツァルトがいたと言われています。聴きに来ていた?いえ、楽団の一員としてだと言われています。

1770年の初演時は、モーツァルトはイタリアへ旅行しておりその場にいることができていません。しかし1774年の上演時には、ミヒャエル・ハイドンが楽長を務める宮廷楽団の一員として参加していたであろうとされています。最低でも聴衆として参加していたのではと言われています。なぜなら1774年にはモーツァルトは上演されたザルツブルクにいたからです。さらに言えば、そもそもモーツァルトはミヒャエル・ハイドンを師と仰ぎ、親交も深かったのです。そのため、どうやら初演時には楽譜をミヒャエル・ハイドンからもらっていた可能性が高いとされています。証拠はモーツァルトが無くなった時の遺産目録の中に「M.ハイドン氏のプロローグ」というのがあるからです。これが「ティトゥス・ウコンドン」の楽譜ではないかと推測されています。「ティトゥス・ウコンドン」は当時の「学祭劇」で、その序曲は「プロローグ」と言われていたからです。

ゆえに、その関係性から、モーツァルトは1770年の上演から間もなく楽譜をハイドンから受け取り「救われたベトゥーリア」作曲の参考にし、さらには1774年には上演に足を運ぶもしくは参加したと考えられるわけなのです。ある意味状況証拠ですが、それでも関係を十分うかがわせるものです。さらに言えば、モーツァルトが晩年に作曲した名作「魔笛」のタミーノの服装は、「きらびやかなヤヴォ―ニッシュの狩猟服を着て登場」とあり、この「ヤヴォ―ニッシュ」とはヤ―パニッシュ、つまり日本風と考えられます。それはもしかすると、「ティトゥス・ウコンドン」における「ショーグンサマ」や「ウコンドン」の服装を念頭に置いた可能性もあるわけなのです。確かに、どこか東洋的な雰囲気すら漂うのが「魔笛」ですが、当時高山右近大友宗麟がヨーロッパにおいて聖人扱いされていたことを鑑みますと、東洋的なものを貴ぶ空気が作曲に影響したとも言えますし、「魔笛」作曲時にもモーツァルトはミヒャエル・ハイドンを師と仰いでいたと考えることも可能だと言えます。また、当時の東洋や日本に対する尊敬の空気は、後年ベートーヴェン交響曲第9番を作曲する時にも影響を与えた可能性も指摘できるかと思います(モーツァルトベートーヴェンも共に「トルコ行進曲」を作曲していますが、それ以外については長くなりますので割愛します)。

このように、「ティトゥス・ウコンドン」は私に様々な視点を与えてくれるものでした。高山右近と聞いた時に「八王子で第九があるがこっちに行かねば!」と判断したわけは、そもそも大友宗麟がヨーロッパでよく知られていた存在だと知っていたからです。やはり大きな影響があったかと驚くばかりです。私たちが現在西洋音楽を聴く時に、先人たちの足跡も想像しながら聴きますとまた違った視点が見えているのではないかと思います。いや、彼らはキリシタンでしょ?関係ないよというア・ナ・タ。キリシタンと対峙した豊臣秀吉徳川家康もまた、ヨーロッパでは意外と知られている存在でもあるのです。私自身は、「ティトゥス・ウコンドン」の「ショーグンサマ」はそのテクストからは豊臣秀吉徳川家康を足して2で割ったようなキャラクターだと感じています。特に徳川家康は英国に対し通商を求めた人でもあり、実はそれほど嫌われた人でもないのです。最終的にはキリシタン弾圧に至ってしまったので通商はなりませんでしたが、この点に関しては昨年NHKがドキュメンタリー番組を制作されていますので、NHKオンデマンドに登録されている方は是非ご覧ください。その番組を見ていたことも、今回私が足を運んだ理由でもありました。

クラシック音楽を聴くことが、ひいては日本史を学ぶきっかけになり、現代を考えるきっかけになろうとは!次回11月のコンサートも現在足を運ぶ予定を立てております。その時にはまた、「コンサート雑感」のコーナーで語りたいと思っております。

 


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東京の図書館から~小金井市立図書館~:リヒテル名演集1

東京の図書館から、今回から4回にわたりまして、ピアニストのリヒテルの名演をご紹介します。小金井市立図書館のライブラリである、リヒテルの名演集をまずは2回に分けて取り上げます。今回はその第1集です。

スヴャトスラフ・リヒテルは、旧ソ連出身のピアニストです。日本でも著名なピアニストであり、特に東西冷戦の中「雪解け」の時期に西欧デビューし、鮮烈な印象を与えた人です。調律をヤマハの調律師に頼んだことでも有名で、そのピアノ制作の様子はNHKプロジェクトX」でも取り上げられました(その調理師が、私の知人でもある瀬川玄さんの御父上です)。

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そのリヒテルの名演を集めたのが今回のアルバムです。第1集にはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻から5曲、ハイドンピアノソナタ第44番(ランドン版では第32番)、それとショパンのバラードが2曲とポロネーズ第7番が収録されています。

バッハの平均律クラヴィーア曲集は第1巻が選択され、第1番、第4番、第5番、第6番、第8番が選択されています。まず第1巻が当時新たに作曲されたものであり、第1番と第4番はハ長調ハ短調、第5番と第6番がニ長調ニ短調、そして第8番が変ホ短調と、味のある選曲になっているのもセンスの良さを感じます。バッハが世界を構築しようとしたとも言える平均律クラヴィーア曲集の神髄を少ない曲でいかに表現するかを、限られたリソースの中で実現した選曲と言えます。リヒテルのピアノは淡々としつつも歌っている部分もあって、「ピアノで弾くことの意味」を考えながら弾いているように聴こえます。

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ハイドンのピアノ・ソナタ第44番ト短調は、ウィキペディアピティナで表記が異なっており、どういうことなのかちょっとわかりません。ホーボーケン番号と作品番号で突合すれば、ピティナの第32番で間違いないと思いますが、そのあたりもウィキペディアの表記が混乱しています。こういう点が、私がピアノ曲でなるべくピティナの方を参照する理由でもあります。ピティナに準拠すればハイドンの疾風怒濤期の作品ですが、ウィキペディアに準拠すると偽作の疑いが濃厚です。おそらくリヒテルピティナの考え方だと思います。古典派らしい形式美の中に、すがすがしさすら感じられるリヒテルのピアノは、確かに鮮烈なデビューを飾るだろうなあと思います。

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下記の曲目では一応CDの通りにしておきますが、間違っている可能性があることを御承知おきくださいませ。

3曲目はショパンの作品が3つ。ショパンはバラードを4曲作曲しましたが、その中から第3番と第4番が収録されました。ピティナの解説を読む限り、この二つは同じバラードであっても性格が異なることがわかります。その二つをリヒテルも弾き分けていますが同じように弾いている部分もあり、リヒテルの解釈を楽しめます。

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ポロネーズは有名な第7番を選択。ショパン最晩年の大曲を、まるで全体を〆るために持ってきたような印象を持ちます。リヒテルのピアノは大胆かつ繊細。誌的な音楽が自然と満ちています。

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こう見て来ると、編集方針にも特徴がみられます。バッハから始まり、ハイドン、そしてショパン音楽史を俯瞰しているんです。古典派だとベートーヴェンでしょ?という突っ込みもあると思いますが、あえてハイドンだったのではないかという気がします。それぞれ、後世の作曲家に影響を与える役割を持った作曲家であるということを鑑みて、あえてハイドンだったのではと私個人は解釈しています。ハイドンベートーヴェンの師だったわけですから。バッハは鍵盤楽器の祖ともあがめられますし、ショパンはロマン派以降のピアノという楽器の可能性を見せた作曲家でもあります。ハイドンはさらに言えば、意外とクラヴィーア曲を書いていることは忘れられています。その功績を振り返るという意味もあると思います。ベートーヴェンの実績は誰もが認めるところですし。

こう見てきますと、リヒテルのピアノだけでなく、選曲という観点もこのアルバムには反映されていると思います。コンサートピースをどうするかは、演奏する側としては毎回悩むことですし、それは演奏家の意志の表明でもあるわけですから。「聴く」ということはどういうことなのかを、いきなりぶつけて来るあたりは、玄人好みのアルバムだと思います。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
平均律クラヴィーア曲集第1巻から
 第1番 前奏曲とフーガ ハ長調BWV846
 第4番 前奏曲とフーガ ハ短調BWV849
 第5番 前奏曲とフーガ ニ長調BWV850
 第6番 前奏曲とフーガ ニ短調BWV851
 第8番 前奏曲とフーガ 変ホ短調BWV853
ヨーゼフ・ハイドン作曲
ピアノ・ソナタ第44番ト短調Hob.XVI:44
フレデリック・ショパン作曲
バラード第3番変イ長調作品47
バラード第4番ヘ短調作品52
ポロネーズ第7番変イ長調作品61「幻想ポロネーズ
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:シフラが弾くリストのハンガリー狂詩曲2

東京の図書館から、2回シリーズで取り上げております、小金井市立図書館のライブラリである、ジョルジ・シフラのピアノの、リストのハンガリー狂詩曲全集、今回は第2回として第2集を取り上げます。

第2集に収録されているのは、第9番~第15番と、スペイン狂詩曲です。あれ?第15番まで・・・

どうやら第15番の「ラコッツィ行進曲」までしか収録されていないようです。他の録音では第16番と第19番もあるようですが、それは録音時期が違うので・・・

このアルバムが収録されたのは、1958年。一方で第19番なども収録されているのは1972年。なぜこの違いがあるのかはネット検索しただけではわかりません。収録時間の都合上とも考えられますが、私はあえて第15番までにしたと考えるところです。なぜなら、最後に収録されているのがスペイン狂詩曲だからです。

時間的には、スペイン狂詩曲は12分ほどの演奏時間です。であれば、さらにいくつかは収録できるはずなのです。それをあえてやらないということは、収録時間の他に原因があると考えるのが自然です。ここでもう一度ピティナの解説を上げておきましょう。

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ここで重要なのは、ハンガリー狂詩曲は19曲ある中で、作曲時期が二つに分かれる、という点です。第1番~第15番までは、リストが1839年と1846年にハンガリーを訪問し、その後「ハンガリーの民族旋律」S.243と「21のハンガリーの民族旋律と狂詩曲」S.242としてまとめられた曲が基礎になっています。第16番~第19番は。晩年の1882年から1885年に作曲されたものなのです。

つまり、この全集は、第1期とも言える1839年と1846年にリストがハンガリーを訪問した時期の作品にフォーカスを当てている、ということになります。この時期は、リストがピアニストとして活躍していた時代になります。一方の第16番~第18番が作曲された時代は最晩年ということもあり、作曲家として活躍し、さらに精神世界を深めていった時代です。ある意味、リストの音楽の性格が違うのです。

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その点を、シフラが考慮したという点は否めないと思います。聴いている私達からすればどちらも同じリストの作品なので問題ないのですが、ロマ出身でリストの芸術を深く愛しているシフラとすれば、二つは分けて考えたいという想いがあったのかもと想像するところです。

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シフラは演奏家ですから、演奏家時代のリストが触れて作曲した作品にシンパシーを感じるのは、ある意味自然なことだと言えます。自身もロマであるシフラとすれば、ロマらしい音楽が第15番までであり、ゆえに生き生きと演奏するという意識があったのだろうと思います。実際、この第2集においては、テンポの揺れはさらにはっきりしていますし、歌いあげてもいます。そのうえで強く厳しい音もあり、リストの音楽の内面性が存分に表現されています。そして、その内面性を表現する道具の一つが、超絶技巧であるという点が、前面に押し出されています。これがシフラの芸術なのかと思いますと、唸るほかありません。

ただ単に音楽に身を任せているだけなのに、音楽が内包する深みが感じ取れる演奏は、いつまでも聴いていたくなります。シフラに関してはいろんな評論がありますが、私自身は作品の内面を自然と浮かび上がらせる名ピアニストという印象をこの演奏からは受けるものです。

 

 

聴いている音源
フランツ・リスト作曲
ハンガリー狂詩曲
 第9番変ホ長調「ペストの謝肉祭」
 第10番ホ長調前奏曲
 第11番イ短調
 第12番嬰ハ短調
 第13番イ短調
 第14番ヘ短調
 第15番イ短調「ラコッツィ行進曲」
スペイン狂詩曲嬰ハ短調
ジョルジ・シフラ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:藝大プロジェクト2024「西洋音楽が見た日本」第1回「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年10月20日に聴きに行きました、藝大プロジェクト2024「西洋音楽が見た日本」第1回である、「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」のレビューです。

藝大プロジェクトとは、東京藝術大学が行うコンサートのことで、一つのテーマを特集するものです。今年2024年は「西洋音楽が見た日本」と題して、2回を予定されております。今回はその第1回目として、ミヒャエル・ハイドン作曲の音楽劇「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」が取り上げられました。

ミヒャエル・ハイドンクラシック音楽ではよく知られた作曲家であるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟です。私も以前ミサ曲などをこのブログで取り上げております。ミヒャエル・ハイドンに関する私のエントリは「かんちゃん ミヒャエル・ハイドン」で検索していただきたいと思います。まずミサ・ヒスパニカのエントリがヒットして、その欄外に過去に私が上げたミヒャエル・ハイドンのミサ曲に関するエントリが並んでいるはずですので、ぜひお読みいただければと思います。

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さて、私の過去のエントリを皆様に検索していただく手間を取らさせていただくことになったのは、この音楽劇が結構ヴォリュームがある作品だからです。そもそも、「西洋音楽が見た日本」なのになぜミヒャエル・ハイドン?と思った方もいらっしゃるかと思います。ドビュッシーなどもっと後の時代なのではと思う方もいらっしゃると思います。実際私もそう思っていた一人です。ところがです。17世紀~世紀にかけて、ヨーロッパでは日本を取り上げた音楽劇が盛んに上演され、そのための音楽も作曲されているのです。その一つが、「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」です。

実は、ティトゥス・ウコンドンとは、戦国~江戸時代の戦国武将である、高山右近のことなのです。

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高山右近キリシタン大名です。「ウコンドン」は「右近殿」がなまって発音されたものだと言われています。「ティトゥス」は当時同様に取り上げられていた大友宗麟(彼もキリシタン大名)の家来の名前と言われており、混同されたと解釈されています。実はこの音が劇以外でも高山右近は取り上げられており、その時は「ユストゥス・ウコンドヌス」という題名になっており、ユストゥスは高山右近の洗礼名である「ジュスト」から来ています。洗礼名がミヒャエル・ハイドンが作曲する時には大友宗麟の物語と混ざったのだろうと、当日配られた冊子の中で慶應義塾大学の西川尚生教授(音楽楽)が述べられています。

そもそも、大友宗麟もヨーロッパではよく知られたキリシタン大名で、絵画にもなっていることは先日放送されたMHK「歴史探偵」でも取り上げられています。ではなぜそれだけヨーロッパで取り上げられているかと言えば、当時日本に来ていた宣教師がイエズス会に逐一報告をしていたからです。

この「ティトゥス・ウコンドン」もそういった宣教師からの報告が背景にあって成立しています。とはいえ、ミヒャエル・ハイドンが作曲したのが1770年と高山右近が活躍した時代からはすでに200年近くの時代が立っています。高山右近がマニラで病死したのが1615年。そこから数えても155年がたっているわけです。なのでどうしても高山右近の実情からはかけ離れた、ヨーロッパ人の想像の物語になっています。とはいえ、実はそのテクストを見ますと、日本史を勉強した人であれば歴史に即した情景がいくつも入っており、特に豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけての禁教令、伴天連追放令などの史実に即した内容にもなっているのが特徴です。西川教授は当時の音楽劇の影響を受けていると述べられていますが、それは明らかに宣教師の報告が元になって様々な音楽劇が作られたため、「ティトゥス・ウコンドン」もその歴史の延長線上にあると言っていいと思います。

http://mozart.music.coocan.jp/258.pdf

そもそもこの日本人キリシタンたちを取り上げた音楽劇は、カトリック教会の学校において上演される学校劇でした。西川氏の記述に寄れば、学生がその上演の中心になっていたとのことで、キリスト教の教義の教育の側面があったわけです。そのためか、特にこの「ティトゥス・ウコンドン」ではキリスト教の教義を守ることにストイックな様子が描かれており、ともすれば狂信的です。一方、ウコンドンの家族以外の人たちはキリスト教に対して懐疑的、あるいは否定的で、むしろ棄教を進めるくらいですし、信仰も守るためなら死を選ぶという選択をおろかだとというセリフもあります。なぜキリスト教の教育でそのようなセリフなのか?と言えば、恐らくそれも宣教師の報告を下敷きにしていると言えるからです。実際、今回の上演に関してはセリフの変更は重複などの削除にとどめほぼそのままとのこと。

ティトゥス・ウコンドン」は1770年にまずラテン語で上演されますが、その4年後の1774年に今度はドイツ語で上演されています。ウィキベテアでは1774年で記載がありますが、実際にはその4年前に初演されており、筋書には変更がほぼないそうです。今回の上演は250年ぶりの復活公演とのことですが、テクストは1774年にドイツ語で上演されたものに即しているそうです。

この音楽劇に於いて、音楽は実はごく一部ですが、実は音楽劇そのものとはっきりわかっているのは二つの合唱だけ。後は他のミヒャエル・ハイドンが作曲した作品を転用しつつ、恐らく一緒に演奏されたであろうと推測されている舞曲が入っています。今回の上演は具体的には以下の通りになっていました。

オラトリオ「悔悟する罪人」MH.147「序曲」
第1幕「ウコンドンへの恩寵」
 音楽舞台劇「祖国への敬虔」MH.148より「フェルトムジーク」
第2幕「ウコンドンへの陰謀」
 合唱「主に向かって喜ばしく歌を歌え、僕たちよ!」MH.142
バレエ曲MH.141より第1部
第3幕「ウコンドンへの憎悪」
第4幕「ウコンドンの寛大で強い心」
 合唱「鹿が川の流れに向かって走っていくように」MH.143
バレエ曲MH141.より第2部
第5幕「ウコンドンの三重の勝利」

このほかには、カーテンコールにおいてもミヒャエル・ハイドンの曲が演奏され、盛り上げていました。また、当時の史料からは確認できていませんが、演出家の判断で打楽器が別に配置され(当時効果音を電子楽器かカセットテープなどのメディアを使うなどと言うことはなかったため)、管弦楽ピリオド楽器)が客席から見て左手、打楽器が右手に配置されました。合唱団はホールのパイプオルガンの席のところに配置されました。なお、ホールは東京藝術大学奏楽堂。よく知られている上野公園の中にある旧奏楽堂ではなく、東京藝術大学音楽学部に学生のための施設としてキャンパス内にあるホールです。当たり前ですが何と響きのいいホールであることか・・・

その管弦楽、打楽器、合唱団はすべて東京藝術大学音楽学部の学生が担当。演じるのはプロの俳優の方々。舞台装置や衣装などは東京芸術大学美術学部の教授や学生が担当。私は音楽学部だけかと思っていましたら、美術学部も参加していることに驚きました。まさに「藝大プロジェクト」という名にふさわしい布陣だと思います。さすがに俳優は藝大では無理なのでプロを読んだのでしょうが、それ以外は全て大学総出というのはいいなあと思いました。私は中央大学文学部史学科国史学専攻卒業ですが、サークルは史蹟研究会だったので、学祭が近づいてくると各班ごとに展示のためのアトラクションを、夜なべをして作っていたことを思い出します。あの時は音楽をやっている人たちは一丸になっていていいなあと思っていましたが、今回の藝大プロジェクトでも音楽学部の学生は演奏で、そして演劇のほうでは美術学部の学生がそれぞれ上演と言う一つのアトラクションを作り上げるために、夜なべをしたこともあったんだろうなあと思いますと、微笑ましく思いましたし、音楽学部の学生の演奏はプロと言われても分からないほどのレベルでした。その高いレベルが、劇を盛り上げる役割をしっかり担っていました。

この劇の取り上げるということはある意味を持つわけですが、ブックレットでは芸術に触れることによって世界を知るためという趣旨のことが書かれてありましたが、同感です。最終第5幕においてはウコンドンの信仰によって危機が訪れますが、実は第2幕あたりからウコンドンとショーグンサマ(豊臣秀吉徳川家康が一緒になったようなキャラクター)を追い落とすため、過信と僧侶が悪だくみをして計略するという物語になっており、最後でその悪だくみが明らかになって、本来処刑されるはずだった家族が生きていることに発狂して「なぜ生きているのだ!信仰は?」と叫ぶシーンなどもあり、信仰とは?と問いかけるものにもなっています。これは作曲された1770年というタイミングもあるかと思います。ちょうど教会の権威が低下していく時代が背景にあるわけです。さらに仏教がキリスト教を非難する場面では、私など日本史に詳しい人であれば「仏教だって一向宗などは近いのでは?」と思いますし、また政治による宗教弾圧も一向宗もそうですしまた鎌倉新仏教でも日蓮宗なども弾圧を受けています。そしてその風景は現代でも世界を見回せばいくらでもあるわけで、実に現代的な問題を提起している普遍的なテーマを持っているわけです。それを芸術に触れることで一人一人が考えるきっかけになることが、私は芸術の役割だと信じて疑いません。私自身も今回の上演に関して共感した一人です。むしろテーマとしてそれがあるはずだと思ったからこそ、今回チケットを取った次第でもあるのです。なんと言っても日本史の「文学士」です、私は。

クラシック音楽と日本史をこよなく愛する私は、このコンサートはどうしても行かねば!と思った次第だったのです(実は八王子ではアマチュアオーケストラでベートーヴェンの第九が演奏されるにも関わらずそっちは断念しています)。芸術の普遍性をこれほど感じるコンサートも珍しかったですし、全面に押し出していたのも素晴らしかったです。第2回は日本の作曲家の作品が並ぶようで、今回のコンサートを経て、そちらも行こうかなと思っております。それは来月になりますので、こうご期待です!

 


聴いて来たコンサート
藝大プロジェクト2024「西洋音楽が見た日本」第1回 「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」
ミヒャエル・ハイドン作曲
音楽劇「ティトゥス・ウコンドン 不屈のキリスト教徒」MH141-143
音楽舞台劇「祖国の敬虔」MH.148より「序曲」
トルコ行進曲」MH.601(布施砂丘彦編)※
ディヴェルティメント ホ長調MH.7より第4楽章「バッロ、プレスト」(布施砂丘彦編)※
※はカーテン・コールに演奏
小泉将臣(ティトゥス・ウコンドン)
山森信太郎(ショーグンサマ)
岡野一平(モロドン)
稲岡良純(イエモンドン)
森永友基(ゴモルドン)
小口準也(ツミコンドン)
松平凌翔(ヤクイン)
市川フー(シャルンガ)
笹川幹太(クシャンガ)
渡邊真砂珠(クララ)
久保田里奈(マルチアル)
大石麻椰(マテウス
坂部星空(シモン)
伊藤キム(振付・ダンス)
金子美月(ダンスアシスタント)
朝岡聡(司会)
長澤莉佳(管打楽)
布施砂丘彦(構成・演出)
東京藝術大学音楽学部有志合唱(合唱指揮:中山美紀)
東京藝術大学音楽学古楽科有志オーケストラ

令和6(2024)年10月20日、東京台東、東京藝術大学奏楽堂

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。