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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】やまとんちゅ、かーらやーに住む

今日の小説は『12か月の建築』4月分です。といっても、5月になってしまいましたが。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、沖縄県八重山地方の『かーらやー』(古民家)です。

石垣島には大学を卒業する年に1度だけ行きました。正直言って、あの美しい海と竹富島観光のことしか記憶にないのですけれど、今回の作品を書くためにあれこれ調べていたら興味深い事がたくさんあって「ずいぶんと勿体ないことをしたな」と反省しました。

当時印象に強く残っているのは、「石垣の近くに寄りすぎるな、ハブが潜んでいるかもしれないから」と言われたことです。今回、ハブに関する話が出てくるのも、その時の印象に引きずられているのかも。この話もオチはありません、あしからず。


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やまとんちゅ、かーらやーに住む

 赤茶の瓦に初夏うりずんの心地よい陽光が降り注いでいる。八重山伝統のこの手の家は『かーらやー』と呼ばれる。ちょこんと座ったシーサーは海を眺めている。その海からはずいぶんと離れている。

 沙織は、静かに縁側に座った。縁側からは海は見えない。外壁には門のようなものはなく、代わりに門の奥に石垣と同じ素材で作られた衝立ひんぷんが配置される。風の直撃を防ぎ、目隠しの役割も果たすが、人間に対しては単なる視覚的境界であって、侵入してこようとする他人を防ぐ事はできないだろう。

 沙織の前夫である亮太だったら、ここに住むことには大反対しただろう。彼は名護市内のマンション暮らしにすら耐えられなかった。

 そもそも沖縄県移住を提案して沙織を連れてきたのは亮太だった。そして、離婚とともに彼が内地に戻る時に、沙織が東京に帰ろうとしないことにひどく驚いていた。
「まさか、こんな所に住み続けるつもりか?」

 亮太にとって、沖縄移住はリゾート滞在の延長線だった。移住に伴う多くの問題を対処できるか、彼は考えてもいなかったらしい。

 半年にわたる強烈な湿氣、次々と襲い来る台風、賃金水準は低いのに、物価は東京並みどころか場合によっては高くつく。和食を食べられる店が少なく、面白いエンターテーメントも少ない。それらは、東京で少しネット検索すればわかることだったのに、亮太は本当に行き当たりばったりで移住を決めたのだ。

 だが、沙織もまた沖縄について亮太よりもわかっていたわけではない。東京を離れて美しい海のあるリゾート地で暮らせるのだと喜んでいたのだ。

 子供のいない若い夫婦として共稼ぎをしているが、沙織自身は移住で職探しをする必要はなかった。必要だったのはネット環境だけで、移住先の名護市でも問題なく仕事をすることができた。問題は亮太の方で、リゾートホテルで働く事のできた1年はよかったが、そのホテルが倒産してからはいくつかの仕事を渡り歩いた。

 仕事が変わる度に亮太はすさみ、沖縄に対する不満も積もっていった。

 沖縄うちなータイムと呼ばれる特殊な時間ルールもその1つだ。待ち合わせをして、5分前集合どころかぴったりにすら来ない。しかも長く待たせたことに対して謝ることもないと亮太は集まりの度に怒り狂うようになった。沙織にしてみれば、もう何年も沖縄時間を経験しているんだから、そんなことに目くじらを立てない方が楽なのにと思うが、そうはいかなかったらしい。

 少し遠くに飲みに行きたくても電車がないので行けない、お風呂に追い炊き機能がついていない、通販でものを頼むと送料が高すぎる、塩害で車が錆びた、治安が悪くヤンキーが多いなど、最後の方は毎日不満ばかり言っていた。沙織はそんな亮太にうんざりしていた。

 彼の浮氣が発覚した時に、沙織はすぐに離婚したいと言った。やり直したくなるほどの情が残っていなかった。亮太は「お前がそんなだから、他の女に安らぎを求めたくなったんだ」と言った。沙織の収入なしに賃料が払えなかったので、彼は東京に戻ることを決めた。

 沙織は反対に、沖縄本島を離れ石垣島に移住した。本土と較べて不便だし、人びとは閉鎖的だと忠告してくれる人もいたが、沙織はもともと引っ込み思案でエンターテーメントや物質的な便利さはさほど必要としないタイプだったので氣にしなかった。

 最初は石垣市に住んだが、1年ほど前に縁あって島の北寄り集落にある古民家を格安で借りるチャンスに恵まれた。

 折からの古民家ブームで、心地よく住める家はとてつもなく高い賃料だというのが常識となっている。けれど、沙織には偶然が味方した。

 亮太と離婚して戻した旧姓の宮里は、沖縄によくある姓だったので、あきらかに本土の人やまとんちゅなのに、沖縄の人うちなーんちゅのように処してくれる人がいたのだ。

 そしてもう1つは、沙織が亮太のように東京の生き方に固執しないで、島の人たちのやり方を受け入れ、仲間に入れてくれないことに関しては氣にせずに放置することができたからだ。しま言葉は永久にわからないだろうし、完全に島民として扱ってもらえることもないだろう。

 それで十分なのだ。

 この家に住まわせてくれるのも、大家が沙織のことを格別に思ってというわけではない。この家に、仏壇があるからだ。

 先祖崇拝の風習の残る沖縄では仏壇のある家は小さくても本家の扱いだ。普段は沖縄本島や、市街地のある島の南部にそれぞれ住んでいても、旧暦の正月やお盆には家族がその家に集まる。しかし、普段は誰も住まない家は傷む。湿氣の多い沖縄はことさら家が傷みやすい。

 沙織は、石垣市のアパートに住んでいたときに、大家に自分の生まれた『かーらやー』に住むのはどうかと打診された。家賃はとても安い。トイレと風呂が母屋にはないがそれも氣にならない。

 沖縄の他の多くの古民家と同じように、この家の南側には、床の間のある一番座と仏間のある二番座がある。北側の裏座はプライヴェートな居住空間だ。日差しが入りにくいので日中でも少し暗いのだが、夏の蒸し暑い中でも比較的快適に暮らせる。

 名護のマンションや石垣市のアパートと比較して、この古民家はずっと過ごしやすい。琉球瓦は熱を反射し、断熱効果が高い。また丸い形と平たい形をした2種類の瓦を組み合わせ漆喰で固めてあるので雨漏りは一切せず台風の強風にも強い。木造家屋にこの特殊な屋根を組み合わせた平屋は、古くても頑丈で快適なのだ。

 年に数回、大家の家族が集まり、一番座と二番座で宴会をする。沙織はしばらく参加してもいいし、その時だけどこかに旅行することもある。最近のお氣に入りの過ごし方は、高価なリゾートホテルに滞在し、ビーチを眺めながらカクテルを飲むことだ。

 それ以外は、誰にも邪魔されることなくこの家で静かに暮らしている。近くにスーパーマーケットの類いはないので、必要に応じて10日に1度くらい南部の市街地に買い出しに行く。

 仕事をするために通信だけは整っていないと困るのだが、幸い光通信が通っている地域で、初期工事費を自分で持つと申し出たら、大家はあっさりと導入を許可してくれた。それどころか工事費も持ってくれたのだ。「息子たちが大賛成だというのでね」と。

 庭にはバナナの木が植わっているし、小さな畑もあって、沙織は生まれて初めて家庭菜園にも挑戦してみた。と、いっても自給自足を目指しているわけではなく、台風が続いてスーパーの棚が空になるときや、買い物に行くのが面倒なときに足しになればいいか程度の動機からだ。本土ではあまり見ない島野菜の方が手間がかからずに育つ。タマナーとも言われるシャキシャキしたキャベツ、スターフルーツみたいな変わった見た目のうりずん豆、エンツァイと呼ばれる空心菜、失敗の少ない島オクラなどの他、スーパーで買ってきて食べた豆苗やネギの残った苗部分を再生するのにも使っている。

 オシャレな服を買うような店はないが、そもそもリゾートホテルに行くときでもないとしゃれた服は必要ないので、新しく服を買う必要性も感じない。映画館や美術館などもないのだが、デートをする相手もいないので、特にそうした施設が必要にはならない。こんなライフスタイルであることを見抜いたので、大家もこの家に住むことを提案してきたのかもしれない。

 休みの日には、朝から散歩をするような氣軽さで海へと歩いていく。赤・黄・ピンクのハイビスカス。濃いピンクのブーゲンビリア、パパイヤやバナナの木。近所には、あたりまえのように南国の植物が植わっている。石垣やシーサーは青空に映えて、南国にいるんだなあとしみじみと幸せを感じる。

 今日はいつもと違い、4月なのに夏のような日差しだったので、昼に帰ることはやめて、1日をゆっくりと海辺で過ごした。夕焼けにオレンジに染まった家々や南洋の花を楽しみながら歩く帰路は、いつもとは違う美しさだ。
 
「ぱんな」
声がしたので振り返ると、背の高い男が沙織に話しかけていた。

「えっと……」
沙織の口調から、方言がわからないとわかったようで、男は言い直した。
「そっちに行かないでください。ハブの目撃情報があったので確認しているんです」

 沙織は驚いた。4月なのにもうハブ?
「ええっ。スプレー、まだ買っていない……」

 自宅に出てきた時の対策として、噴射するタイプの駆除スプレーを去年は大家が持ってきてくれたのだが、まだ一度もでたことがない上、まだ4月なので今年は油断して自分で用意するのを忘れていたのだ。

 男は、不思議そうに彼女を見てから訊いた。
「もしかして、この近くに住んでいるんですか?」

「ええ。この道の突き当たりの比嘉さんのお家を借りています。石垣は対策補修されていますが、衝立ひんぷんがあるので、もしかしたら入って来ちゃうんじゃないかしら」

 男は、振り返って坂の上を見た。
「あそこですよね。街灯が正面を照らしているので、まず大丈夫でしょう。でも、心配だったら、あとで駆除スプレーをお届けしましょうか」

 沙織は、大きく頷いた。
「そうしていただけたら、助かります。すみません」

 男は、笑った。
「氣にしないでください。じゃあ、お家まで一緒に行きましょう、私の後ろを歩いてきてください」

 沙織は、頭を下げた。ハブ駆除の専門家だろうか。夕方とはいえまだけっこう暑いのに、長袖長ズボンの作業着で全身をしっかり覆っている。

 手には捕獲器を持っているし、この人といるならハブが出てきてもなんとかしてくれそう。でも、もし現れても悲鳴を上げて蛇を刺激しないようにしなくちゃ。沙織の緊張がわかったのか、男は再び笑った。

「そんなに怖がらなくても道の真ん中を歩いていれば大丈夫ですよ。まだ十分明るいですし、向こうから出てくることはほとんどないでしょう」
「はい。もともと東京育ちで、それに一昨年までは市街地に住んでいたので、慣れていなくって。ハブがでることがちょっと怖いんです」

 家の前に来たので、少しホッとしながらいうと、男は頷いた。
「そのぐらいの方がいいんです。サトウキビ畑に入っていこうとしたり、夜にふらふらで歩くような油断をすると、ちょっと危険ですから。じゃあ、後でスプレー、お届けします。車の中にあるので、20分くらいですね」

 沙織が頭を下げて、確認をしつつ歩いていく男を見送っていると、隣家の伊良部のお婆さんが出てきた。
今晩はくよなーら

「くよなーら、伊良部さん」
まだ伊良部おばぁと呼ぶ勇氣は出ない。

 伊良部おばぁは首を伸ばして、道を観察しながら去って行く男の後ろ姿を見た。
「おや。……もうハブがでたんだね。暑かったからねぇ」

「あ、ご存じの方ですか」
「向かいの平良やんの孫だよ。昇っていうんだ。他の兄弟はやまなぐーだったけど、あの子だけはまいふなーだったでなー」

 沙織が「?」という顔を見せたので、彼女は「あなたわー本土の人やまとんちゅだもんなー」と笑った。

 伊良部おばぁは、慣れない標準語を探しながら、ゆっくりと話した。
「だっからよー、あの子は、やまとぅ言葉で『大人しい』だったかね。でも、肚が座っているから、ハブが襲ってきてもなんでもなく捕まえる。あの調子で嫁さんも捕まえられればいいのに、そうはいかないみたいだねぇ。わー、どうばぁ?」

 沙織は、滅相もないと首を振った。離婚のことは面倒なので話していない。だから、いい歳してこんなところでグズグズしている晩熟娘だと思われているのかもしれない。
「そんな……あちらに失礼ですし……」

 伊良部おばぁは、はははと笑った。この程度のことを真に受けるなとでも言いたげだ。どうもまだ会話の受け流しはうまく出来ない。

「あ、ほれ、これはたくさん作ったチャンプルーよ、召しあがれおいしょーり
「あ。いつもありがとうございます」

 今日も、いただいちゃった。島豆腐チャンプルー。沙織が作るのと格段違ったものは入っていないのに、伊良部おばぁが持ってきてくれるお惣菜は、なぜだかとっても美味しいのだ。

 沙織は、ハブのこともすっかり忘れて米を洗い出した。日が暮れて辺りは暗くなった。東京では見たことがなかったほどの満天の星空が、『かーらやー』の赤瓦の上に広がっているはずだ。この家にたどり着くまでの、いくつかの住まいを思い出して、ここほど心地がいいと感じた場所はなかったなと微笑んだ。

「すみません」
一番座の方から声が聞こえる。あ。さっきの人だ。スプレー缶、持ってきてくれたんだ。

 先ほどの男が、生真面目な様子で立っていた。手には駆除スプレーを持っている。

「すみません。本当に助かります。おいくらですか」
沙織が訊くと、彼は首を振った。
「お代はけっこうです。万が一、使うことがあったら、ここの名刺の代表に連絡してください」

 市の環境課の名刺で先ほど伊良部おばぁが言っていたとおり平良昇という名が印刷されていた。頭を軽く下げると、昇は去って行った。

 ハブ捕獲の専門家とは別に親しくならなくてもいいんだけれど、市のお役人がああいう感じで仕事熱心なのは好感が持てるなあと、沙織は考えた。

 伊良部おばぁのチャンプルーは、どうしてこんなにごはんが進むんだろう。豚肉の風味だけでなく今日は島タケノコも入っていて香り豊かな上歯ごたえも楽しい。

 母屋にはないトイレやお風呂、玄関も入り口の鍵もない『かーらやー』にいつの間にか故郷のようになれてしまったのと同様、八重山の味にもすっかり馴染んだ。台風と湿氣に悩まされ虫とハブに怯えることはあっても、美しい海と満天の星、南国の花や果物のあふれる島の暮らしは、とても心地よい。

 きっとこのままこの島に住み続けるんだろうな。沙織はぼんやりと考えながら、チャンプルーを口に運んだ。

(初出:2023年4月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

野菜が育ってきた

5月になりスイスでも家庭菜園の本格的なシーズンに入りました。

畑のサラダたち

上の写真は、3月の終わりにお試しで蒔いた種からすくすく育っているサラダです。本来の畝から外れて育っている感じがありますが、水やりで種が流れたのか、猫がやって来て掘り返していったのか、真相はわかりません。その後極寒の4月もなんともせず、すくすく育ち、ついに私はサラダを購入しなくてよくなりました。今は、間引きも兼ねて少しずつ引っこ抜いている感じですが、それでも2人が食べるには十分な量が生えています。夏の間中、ここから引っこ抜いてきて食べられそうです。

畑の野菜たち

別の畝にも植えた種が次々と芽吹いています。手前は雪などにやきもきしたけれど、ついにしっかりと根付いた野良坊菜。そして、遠くに見えているのは大根です。昨年から自分でみよし漬けを作るようになったのですが、今年はシソだけでなく大根も自前で作りたいものです。

畑には、ほかにもニンジンやハツカダイコンなどが順調に育っていますし、ズッキーニ、キャベツ、ブロッコリーなども一応定植してみました。うまく育ってほしいです。枝豆は、はじめて直接種を蒔いてみました。そして、5月後半になったらオクラを定植する予定です。がんばれ、野菜たち!
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第17回『峠の宿泊施設にて』の前編お届けします。

めちゃくちゃ寒い思いをした一行は、峠のホスピスでひと休みすることにしました。

そういえば、架空世界での話を書くときに、氣にしているのが度量衡の名称です。例えばメートル法は使わないようにしています。それだけで嘘っぽくなりますから。とはいえ、完全に架空の用語を散りばめると、読む方はそのスケールが想像できなくなります。なので、「なんとなくそれっぽい」用語を作り出すようにしています。この辺はあまりこだわらずにスルーしていただくとありがたいです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -1-


 1時間ほど歩いて、一行はフルーヴルーウー峠にたどり着いた。グランドロン側は2本の道がこの峠の3森里シルヴァ・ミレ 手前で1つになる。

 巨大な山嶺である《ケールム・アルバ》を越える峠は東西にいくつもあるが、通年低地から全行程にわたり2頭だての馬に牽かせた4輪馬車が通れるのはフルーヴルーウー城下町からこのフルーヴルーウー峠を越えてセンヴリ王国のイゾラヴェンナに至る俗にいう《フルーヴルーウー街道》だけである。

 たとえばルーヴラン王国のタタム峠は大きく宿泊施設も立派だが、王都ルーヴと結ぶ街道の中央に非常に狭く危険な《悪道峡谷》があり、荷をロバに載せ替え2日ほどかけて通る必要があった。一方、2輪馬車であれば通れるアセスタ峠は雪深く10月末から4月末までは通れない。

 《ケールム・アルバ》にあるほぼすべての峠には、公的な宿泊施設ホスピスがある。フルーヴルーウー峠の宿泊施設は、フルーヴルーウー辺境伯爵領とトリネア侯爵領が共同で経営している。

 昨夜ほぼ眠れなかったため、マックスの提案で半日だけ宿泊用の部屋を借りて休み、昼食を食べてからイゾラヴェンナに向けて降りていくことにしていた。

 その手続きをマックスがしている間、フリッツを除く3人は食堂で暖かい茶を飲んでいた。誰が聞いているかわからないので、お互いに何も言わずにいたが、しっかりと温まった食堂は心地よく、ほっとしていた。

 フリッツは馬の世話をする下人たちに心付けを渡すために馬小屋にいた。下男の1人とともに彼が宿泊施設に向かうとき、旅立ちの支度を済ませた男とすれ違った。

 フリッツは、その男の顔を覚えていた。おとといの旅籠でのことだ。旅籠の女将がその客が泊まることを拒否したのだ。服装をみればかなり裕福だと思われるのに、女将は「今夜はいっぱいで」と言っていた。だが、どう考えても宿には十分な余裕があり、断る前に女将がレオポルド一行をちらりと見たことから、何か理由があるのだろうと思っていた。

 下男が男を振り返り、軽蔑を意味する舌打ちをしたのでフリッツは「なんだ?」と訊いた。下男は、はっとふり返り不躾な振る舞いを詫びてから言った。

「いまの男、立派な旦那様のように振る舞っていますが、ヴォワーズで刑吏としてしこたま儲けたヤツですよ。昨夜は傭兵団は泊まるわ、刑吏が来るわで、周辺民だらけでございました。旦那様がたが今朝到着したのは、むしろ幸運だったかもしれませんよ」

 宿泊施設ホスピスは、国や貴賤を問わず必要な保護を与えるための施設だ。必要最低限の簡素な設備だが、馬の世話をし、十分な量の食事を取り、夏でも雪の消えない土地で凍えずに一晩を過ごすことを約束する。

 それゆえ、商人や農民などの単なる平民だけでなく、刑吏・傭兵・売春婦・異教徒など周辺民として蔑まれていた人びとでも分け隔て無く宿泊することができるようになっていた。

 もちろん全行程を馬車で行くような貴族たちは、はじめからこの簡易な宿泊施設で一夜を過ごすことは予定していないが、馬の世話や休憩で立ち寄るため、平民たちとは区切られた若干豪華な食堂も用意されていた。

「傭兵団といったね。彼らはもう発ったのか?」
フリッツは、嫌な予感がして下男に訊いた。

「とんでもございません。ヤツら、昨夜遅くまで飲んで騒いでいましたからね。まだグースカ眠っています。なにやら、秋からはこの近くで仕事をするかもしれないとかで、ずいぶんと態度が大きく辟易しました。売春婦なども同行しているようで、目を覆いたくなるような醜態を晒しましてね。給仕の者たちはうんざりしておりました」

 下男と別れて廊下を進むと、マックスが見覚えのある女傭兵と小声で話している場を見えた。フリッツは、泊まっていたのはやはりあの南シルヴァ傭兵団だったかと思った。彼を見るとマックスは「ああ」と手を挙げた。

 女はフリッツを見ると「やあ」と言い、マックスに「じゃ」と言って立ち去った。

「頼むよ」
「わかった。ちゃんと皆に口止めしておく。その代わり、頼んだよ」

 フリッツは、マックスのところに歩いていき、言った。
「あの女は、たしか……」

「フィリパというんだ。そこで出くわしたときには仰天したけど、いたのが話のわかるあの女だけで助かったよ。他の男たちは酔い潰れてまだ寝ているらしい。僕たちの本当の身分について仲間たちに口止めをして欲しいと頼んだ。秋からの仕事と引き換えなので、上手くやってくれるだろう。おかげで騎士ゴッドリーを説得しなくちゃいけなくなったよ」

 マックスが手配したのは、5人で1つの部屋だった。単に仮眠をするだけだし、フリッツが警護上の心配をしなくても済むだろうと考えたからだ。部屋は簡素だが清潔で、マックスは、後で管理人に領地から慰労と賞賛を伝えようと思った。
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Posted by 八少女 夕

ルバーブをもらった

隣人にルバーブをもらいました。

ルバーブ

ルバーブは、日本だと「どこにでもある」タイプの野菜ではないかと思いますが、ヨーロッパでは季節になればどのスーパーでもみかけます。野菜と書きましたが、使い方としては果物に近いかもしれません。酸味の強い植物で、タルトやジャムなどで使うことが多いのです。

20年近く「どうしようかなあ」と思いながら調理方法がわからないからわざわざ買ったことはなかったのですが、「採れたてをどうぞ」と言われ、喜んで頂戴しました。

ネットで調理方法を検索したところ、梅干しペースト代わりにするというレシピもあったのですが、梅干しペーストは赤プラムで作るのでそれはやめました。

というわけでまずは定番のジャムを作りました。

ルバーブジャム作成中

一部は、煮込まずにマフィンに混ぜる予定で、これは歯触りが氣になると思われる皮を剥いて冷水であく抜きもしました。でも、その皮、きれいなピンクで捨てるのがもったいないなと思ったので、ジャムの方にツッコんでみました。

ルバーブ、はじめてジャムを煮てみて面白いなとおもったのは、ネットで書いてあったとおり、加熱するとあっという間に煮崩れるのです。あんなに硬かった皮もすぐに柔らかくなりました。

下の写真のピンクっぽい瓶入りのペーストがジャムです。こんなに簡単にできるジャムはないかも。

ルバーブで作ったもの

緑色のダイスは、マフィン用。またはトルテにでも入れる予定です。1/3だけそのままにして、残りは冷凍しました。そして、液体に浸かっているのは、ホワイトラム漬けです。ネットでみたのはウオッカ漬けだったのですが、我が家にちょうどあったのはホワイトラムだったので、氷砂糖といっしょに漬け込んでみました。6週間後に飲めるようになるそうです。飲むのは連れ合いですけれどね。

ルバーブ、非常に扱いやすいことがわかったので、これからときどき食卓に上がるようになると思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(17)峠の宿泊施設にて -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第17回『峠の宿泊施設にて』の後編お届けします。

睡眠と食事のために立ち寄った峠のホスピスには、一行の正体を知る南シルヴァ傭兵団が滞在していました。幸いものわかりのいい女傭兵以外はまだ寝ていて出くわさなかったので、無事に秋からの仕事とのバーターで口止めをしたマックス。

今回は、全員との再会になります。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(17)峠の宿泊施設にて -2-


 一同は昼までぐっすりと眠った。アニーは、フリッツに起こされた。
「いつまで寝ているつもりだ。お前が最後だぞ」

「えっ。申しわけございません、ラウラさま!」
アニーは寝ぼけて女主人に謝り、またフリッツに叱られた。
「こら。お前のご主人様は、『デュランさま』だろう」

 支度をして食堂に降りていくと、ほかの客たちは既に食卓に着席していた。

「おお。こっち、こっちへどうぞ、『旦那様』」
ことさら大きな声で呼んだのは、あの南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノだ。フィリパがしっかりと言い含めたらしく、「陛下」だの「伯爵様」などという発言は控えてくれている。

 見れば、彼らの用意した5つの席以外は埋まっているので、そこに座らざるを得ないらしい。ブルーノの隣にマックス、副首領レンゾの隣にフリッツが座り、その間にレオポルドが座った。向かいにラウラとアニーが座ったが、それでラウラはフィリパの隣になった。

 それとほぼ同時に、食事が運ばれてきた。宿泊施設ホスピスは、標高が高くて物資の運搬に手間がかかる上、貴賤多くの者が利用するので、豪奢なもてなしはなく、日によって決まったメニューが提供された。

 また、リネン類は清潔なものを使うように徹底され、利用者も食事前に手洗いをするように要求されるなど可能な限り疫病の巣窟にならないような工夫がされていた。干し肉、チーズ、フルーツなどに続き、豆のスープが提供される。

「なんだよ。またこのワインかよ。普通のワインはないのか」
レンゾが大きな声を出した。アロエの果肉入りワインは抗菌作用があり、聖騎士団も健康のためによく飲んだものだが、世間一般ではあまり受け入れられていない。

「ここにはこれしかないんだ。文句を言うな」
フィリパが低い声で言った。

 いずれにしても、傭兵団の男たちは、味などわからないのではないかと言うほど大量に飲んで大騒ぎをしている。昼間だというのに、売春婦相手に卑猥な冗談をいう者もいて、アニーは思わず下を見て顔を赤らめた。

 そうとうな喧噪の中、ブルーノはマックスに比較的小さな声で問うた。
「で、旦那がたは何しにここに?」

「なんでもないさ。ちょっとした酔狂だ」
「そんなわけないでしょう。ここの下男に聞きましたが、トリネアまで向かわれるらしいですね」

 あのおしゃべり下男め。マックスは思った。
「君たちこそ、センヴリには仕事で行くのか?」

「そうなんですよ。実は、来月トリネアに枢機卿猊下がいらっしゃるんでね。幸い秋までは時間があるんで、行ってみようかと。ご自分では身を守れない坊さんたちの周りには、いつもいい仕事が転がっているんでね。顔つなぎができないかってわけでさ」
ブルーノが上機嫌で言うと、レンゾが慌てた顔をした。

 マックスは、わずかに軽蔑のこもった目をして言った。
「つまり、枢機卿が割のいい仕事をくれたら、他に決まった仕事は放り出すってことかい」

 すると、ブルーノは大笑いした。
「まさか。旦那、俺たちはそんな不義理はしませんぜ。決まった仕事は、きっちりやるんだ。だがねぇ。そういう態度なのは俺たちの方だけでね」

 マックスが、わからないという顔をすると、フィリパが後を継いで説明をした。
「貴族の方々は、口約束はいくらでも反故にできるとお考えの方が多いんですよ。採用されなかったり、クビにされたりして、全員路頭に迷うような危険は侵せません。ゆえに大きな仕事については二手に分かれ半分の人員でこなします。そして、残りの半分は別の小さな仕事をこなしたり、新しいコネを探して積極的に売り込みに回るというわけです」

 なるほど。マックスは頷いた。騎士たちと違い、傭兵団は使い捨てにしても構わないと思う領主たちは多い。彼らは平民どころか周辺民扱いであり、名誉なども重んじられない。本人たちも、尊重されることなどは期待しておらず、それゆえ報酬にしか興味がなく、忠誠心などはない。

 だが、多くの似たような傭兵団の中でも、南シルヴァ傭兵団の評判は比較的よかった。要求する報酬は高いが、実力があることも知られており、従軍した戦いではほぼ負け知らずだった。

 フィリパは、もの言いたげな口調で続けた。
「幸い、つい昨日のことですが、アテにしていた仕事のうちの1つは、確実にもらえる算段がつきました。それが始まるまでに全員でトリネアへ行き教皇庁に顔の利くようにしようと今朝決めたのです」

 マックスは、軽くフィリパを睨み返した。『商人デュラン一行』の正体を吹聴しないでいてくれることを盾に脅されたようなものだからだ。

「ところで、5人だけで『買い付けの旅』をするなんて物騒じゃないですかい。よかったら、俺たちが護衛しますぜ」
レンゾがこれまた意味ありげにいった。

「君らの申し出はありがたいが、我々には護衛としてこのフリッツもついているし、私自身も、それなりに鍛えているんだ。身軽に旅をしたいので、ついてこられるのは遠慮したい」
商人デュランことレオポルドはきっぱりと断った。

 いい金づるになると期待していたレンゾは、少しがっかりしたようだったが、すぐに氣持ちを切り替えて大いに飲み始めた。

 一方、『商人デュラン一行』は、さっさと食事を済ませると、イゾラヴェンナに向けて出発した。
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Posted by 八少女 夕

生命は道を見つける

実はここしばらく人間が自然に対して行う蛮行に沈んでいたのですが、浮上した話を。

切り株から生える枝

今週はキリスト昇天の祝日で4連休でした。とはいえ、イタリア方面は渋滞になることがわかっているので、遠出はせずにいました。そんなわけでのんびり過ごしたのですが、普段はしないことをしようと思い立って、同じ村に所属するペトログリフを見学に行ってみました。その話は別に記事にしますが、その途中でこんな木々を見つけてちょっと嬉しくなったので、それについて語ります。

伐られた木

1か月ほど前のことですが、近所に生えている立派な木がほとんど伐られてしまいました。もちろん土地の所有者は木を伐採して売る権利はあります。でも、涼しい木陰を作っていた美しい木々を全部一斉に伐って光景が変わるほどの丸坊主にするなんてと、近所の皆が憤っていました。この写真のような木材の山が5つくらいできて、それを大きなトラックが根こそぎ持って行き、土地は無惨な切り株だらけになりました。散歩の度にそれを眺めるのがとても悲しかったのです。

切り株から生えた木

それが、金曜日にペトログリフを見るために、近くの山に登っている途中にかなり昔に同じように伐ったと思われる切り株をいくつも見たのです。この道を歩くのは初めてではないのですが、それまでは切り株にはさほど注目していなかったのですね。

見ると、切り株の根元から立派な木が2本も育っています。それに、冒頭の写真のように、切り株から新しい枝がぐんぐん生えている様子もたくさん見かけました。

私がかつてカオス理論とマイクル・クライトンにハマるきっかけをくれた映画『ジュラシック・パーク』には、数学者イアン・マルカムの「生命は道を見つける」という台詞がありました。「恐竜が勝手に増えないように最新テクノロジーで完璧に制御している」という人たちの傲慢さに対しての警告的な言葉で、ホラー的展開への一種の予言となっていた言葉ですが、今回の私が見た切り株から生えた生命に関してだけいえば、植物の生命力に対する讃美ともいえる言葉でした。

我が家の近くの切り株だらけの無惨な土地も、よく見ると残された切り株からひこばえが生えてきています。太陽光が直接差し込むようになった土地には、どんぐりやその他の木の実からの若苗がたくさん芽吹いているのが見えます。

たぶん私が生きている間には、かつての森のような土地には戻らないかもしれませんが、その後には再び緑豊かな散歩道に戻るのかもしれないと思うと、嬉しくなりました。「もののけ姫」のシーンのようにみるみる生えてくれればいいですけれど、現実はそうは行きません。でも、植物たちにはたくさんの時間があります。その時間を祝福したい想いでいっぱいになった午後でした。
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Posted by 八少女 夕

【小説】心の幾何学

今日の小説は『12か月の建築』5月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、モロッコの『リアド』とそれを彩るモザイク『ゼリージュ』です。

実は、モロッコはアフリカ大陸内のスペイン領セウタに行ったときに、半日ツアーで行ったことがあるだけなのです。なので、美しいリアド滞在はまだ未体験。めちゃくちゃ憧れているんですけれどね。


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心の幾何学

 ナナはスークを急いで横切った。この市場には、これまでに5度ほどしか訪れたことがない。観光客が土産物を探すマラケシュのスークなどと違い、観光客のさほど多くないこの町は、地元民の生活に即した品物のみが置かれ、大半が屋根のない露天だ。足下の乾いた埃っぽい土が舞い上がり、そこここに放置されたゴミを踏まずに進むことと、スリに注意することで神経をすり減らす。

 ベルナールが言うように、リアドに隠っていればいいのかもしれない。何かあったら、彼に対処してもらわなくてはならない。彼はため息をつきながら「だから、言っただろう」と子供を諭すように言うのだろう。

 でも、今日は『彼』に食事を振る舞うつもりなのだ。それにザタールがないなんて、あり得ないもの。ナナは、買ったスパイスを抱えて急いで帰路についた。

 ザタールはモロッコの万能ふりかけと言うべきミックススパイスで、塩、タイムの一種、白ごま、スーマックという赤い果実を乾燥させた粉などが入っている。肉を素焼きの壺で長時間煮込んだタンジーヤの付け合わせとして添えるパンはプレーンでもいいのだが、ナナはザタールをかけてから焼いたものが一番合うと思っていた。

 埃っぽく、灰色で、異国情緒もへったくれもない街角を、なんとか迷わずに進み、ナナはくたびれたピンクの壁がつづく一画の一番奥に向かった。それから、重い扉についた手の形をした取っ手を操作しながら解錠した。

 それまでの世界と、まったく違う光景が広がる。柔らかな円やくびれたカーブが優美なアーチ。透明ガラスと装飾が幻想的な陰影を作り出すランプ。細かい紋様のモザイクタイル。そして、金銀の刺繍で彩られた鮮やかな布の襞が織りなすオリエンタルな影。

 東京で過ごした子供の頃に読んだ「アラビアンナイト」の絵本にあった王宮さながらだ。フランスで知り合ったベルナールが「モロッコで暮らさないか」と誘ってきたときに想像していた世界そのものだ。

 大きな中庭を持つ古い邸宅を改装した宿泊施設として、日本をはじめとして世界の観光客にも人氣なリアドは、もともとはアラビア語で「邸宅」を意味する言葉だった。その意味で、ここもまたリアドには違いない。

 12世紀から15世紀に、レコンキスタが進むイベリア半島から逃げてきた有力者たちが建てたアンダルスとモロッコの建築様式が融合した邸宅の多くは、21世紀には観光客向けのエキゾチックな宿泊施設として生まれ変わった。

 このリアドも、かつてはそのブームに乗ろうと、水回りをはじめとして宿泊施設らしく改修されたが、マラケシュやフェズのように観光に適した町ではなかったので経営に行き詰まったらしい。ベルナールは、二束三文で売りに出されていたのを見つけたと自慢げに語った。

「僕はね。このリアドを完璧な状態に修復して『千夜一夜物語』の世界を再現したいんだ」

 パティオには、星形の噴水が置かれ、棕櫚やバナナの木が美しい木陰を作っている。2階はバルコニーがパティオを囲むようにあり、5つのテイストの違う部屋があった。

 ナナが使っている部屋は、ターコイズ・ブルーをテーマにした部屋で、とりわけバスルームの壁とタイルが美しかった。

 ベルナールに、モロッコ移住を提案されたとき、ナナは彼とここに住むのだと思っていた。実際には、常にここに住んでいるのはナナ1人で、ベルナールは年に2か月ほど滞在する以外は、月に3日ほど訪れるだけだった。

 パリにあるモロッコのインテリアを売る店は繁盛しており、彼はこれまで通りに2国を行き来して暮らすのだろう。

 彼が、電話で話している姿を見て、彼は離婚もしていなければ、ナナを正式なパートナーにしようとも思っていないことを知ってしまった。これは、日本でいうお妾さんにマンションを買い与えるのと変わらない事なのだと氣がつき、がっかりした。

 それは、日本で母親が受けていた扱いと同じだった。私生児だから、ハーフだからと受けた仕打ちには負けたくなかった。だから、フランスに渡り自分の力で生きていこうとした。けれども、フランスではナナは今度はアジア人として扱われた。1人前の仕事をさせてもらえなかったのは、人種差別のせいだとは思いたくなかったけれど、実力が無いと認めるのも悲しかった。しかも、結局、自分もまた愛人として囲われることになってしまった。

 日本やフランスに戻って、地を這うような生活をしながら独りで生きていく決意はまだつかない。このアラビアンナイトのような美しい鳥籠と、その外に広がる厳しい現実の世界の対比はナナを億劫にする。

 細やかな刺繍の施されたフクシアピンクのバブーシュを履く。ただのスリッパと違い、足にぴったりと寄り添う滑らかな革のひんやりとした肌触りが好きだ。足下には星や千鳥のように見えるタイルが敷き詰められている。何も知らなければただの床だが、ゼリージュ細工の仕事を知るナナは、足を踏み出すごとに畏敬の思いを抱き歩く。

 コンコンという、規則正しい音がする。ナナは、音のする方へと向かった。ホールの隅で、『彼』が働いている。ゼリージュ職人であるアリーだ。

 細かくカットしたタイルを組み合わせて、幾何学模様のモザイクを作り出す装飾をゼリージュと呼ぶ。古くからイスラム圏で広く使われていたゼリージュは、その膨大な手間から現在ではほぼモロッコだけに継承されている。

 白、黒、青、緑、黄、赤、茶の釉薬を塗って焼いた伝統的なタイルを、360種ほどもあるという決められた形に割っていく。組み合わせるときに、他のタイルとのあいだに隙間が出来ないように、それぞれを完璧な形にしていかなくてはならない。それは氣の遠くなるような作業だ。

 アリーは、そうした技術を継承した職人だ。ベルナールの依頼で、この邸宅の装飾を修復するために時おり通ってくる。

 ナナが、話をすることが一番多いのが、このアリーだ。掃除を請け負うファティマや、グロッサリーを搬入してくれるハッサンとも定期的に顔を合わすのだが、この2人は英語もフランス語も話さないため話し相手にはならない。

 ナナは、パティオの奥に設けられた木陰の読書スペースで本を読んで過ごすことが多い。日本にいたときには積ん読になっていた多くのシリーズものは、この木陰で何回か読破した。

「それは、中国語?」
そう訊かれて、顔を上げたのが、アリーとの最初のコンタクトだった。訛りはあるがフランス語だ。

「いいえ。日本語よ」
「ああ、君は日本人なのか」
「半分ね。でも、東京で生まれ育ったの。読むならフランス語よりも日本語が楽なのよ」
「そう。面白いね。本当に縦に読んでいくんだ。ああ、右から左に進むんだね」
「そうよ。アラビア語もそうよね」
「まあね。横方向にだけど」

 たわいない話だが、ベルナール以外の人と、ごく普通の会話をするのは久しぶりだった。単語だけでようやく意思疎通をするだけのファティマたち。買い物の時にフランス語が達者な売り子と話すこともあるが、ぼんやりしていると高いものを売りつけられたりスリに狙われたりするので世間話に興じることはほとんどない。

 アリーは、それ以来、籠の中の鳥のように暮らすナナにとってこの世界に向けたたった一つの窓のような存在だ。何かを売りつけるためではなく、雇用主として阿るわけでもなく、ただその空間と時間を共有する相手として接してくれる。そんな彼と話す時間を、ナナは心待ちにしている。

 それは、不思議な感覚だ。

 パリにいたとき、ナナはベルナールとの逢瀬を渇望していた。彼の妻よりも、ずっと彼を愛していると思っていたし、モロッコ行きを決めたときには愛の勝利に酔いしれた。4つ星ホテルの空調の効いた部屋での情交も、このリアドで格別に選んだターコイズ・ブルーの居室での睦みごとも、ベルナールとの強い想いと絆の当然の帰結だと感じていた。

 でも、いつの間にかベルナールに1日でも多く滞在してほしいという願いはなくなっていた。嫌いになったわけではないし、離婚するつもりがないことに対して怒っているわけでもない。ただ、彼の存在が、日々どんどんと希薄になっていくだけだ。

 ベルナールがやって来て、滞在するとき、ナナは彼を精一杯もてなす。店員が上得意客をもてなすように。覚えたモロッコ風の料理は、ベルナールを満腹にした。赤い部屋、オレンジの部屋、緑の部屋で楼閣に住む娼婦のように、彼を悦ばせた。それは、『アラビアンナイト』の世界に住まわせてくれる主人に対するナナの義務だと感じていた。

 そして、彼が去ると、ナナはどこか安堵している。再びひとりに戻ったことに。そして、中庭に響く静かな水音の向こうから聞こえてくるゼリージュ・タイルを作る規則正しい音に、心が震えるのだ。

 小さなタイルが組み合わされる。それは単なる装飾やパズルあそびではなく、自然を手本とした幾何学の魔法だ。シンメトリカルに広がる多様性。シンプルと複雑さの絶妙な組み合わせ。そして水の揺らめきや木漏れ日の揺らぎまでが計算され尽くしたかのように美しさを倍増する。

 大量生産があたりまえのこの時代においても、ゼリージュのタイルはすべて手作業で作られる。粘土を乾かし、釉薬を塗って焼いたタイルを1つ1つ蚤を使って小さなパーツに切り取っていく。ごく普通のセラミックタイルの300倍もの値段がすることに驚愕する人も多いが、この手作業を目で見たら納得するだろう。

 ゼリージュのタイルを使ったインテリアは、パリでは金持ちの贅沢だが、ここモロッコでは1000年以上も受け継がれてきた伝統であり、創造主たる神への讃美と感謝でもある。イスラム世界のほとんどで失われてしまったこの伝統を、モロッコのゼリージュ職人たちは黙々と受け継いできた。

 アリーの茶色い手が、なんでもないようにタイルを組み合わせ、それを固定していく。繊細な作業をしているようには見えないのに、出来上がったタイルの組み合わせは完璧だ。それは、自然の造形と似ている。1つ1つは好き勝手に育っているように見えるのに、光景となった時にはすべてのパーツがきちんと収まるべきところに収まり、調和し、美しく、畏敬を呼び起こす。

 ナナは、彼が働いているときには黙ってそれを見つめる。息を殺し、身動ぎもせずに、世界のパーツが正しい位置に納まっていくのを待つ。

 学生の時、図書館で「千夜一夜物語」の訳文を読んだことがある。后であるシェーラザードが1001夜にわたって夫である暴君に話をすることになったきっかけは、もともとシャフリヤール王の后が奴隷と浮気をしていたからだった。王の后となったのに、浮氣なんかしなければいいのにとその時は単純に思ったけれど、いまならその后たちに少し同情することができる。

 ここのように美しい、それとも、もっと煌びやかな王宮に閉じ込められた后は、ハーレムを戯れに巡回する夫君がいつやって来るのかも知らない日々を過ごしていたのではないだろうか。ちょうどナナにとってのベルナールと同じだ。そして、王は自分は自由に複数の女性を楽しみつつ、后が他の男に抱かれているのを見たら憤り、その首をはねた。そして、女性不信から生娘と結婚しては翌日に殺すということを繰り返したのだ。

 ナナは、絶えず聞こえている水音と、棕櫚の枝を揺らす風を感じながら、ひたすら働くアリーの手元を見ていた。アリーとの間に、后と奴隷との間に起こったような展開はない。おそらくアリーはナナに対して女性としての興味は持っていないだろう。ナナにしても、この感情をどう捉えるべきなのか、はっきりとした定義はできない。

 わかっていることは、今のナナにとって、訪れに心躍るのはもうベルナールではなくなっているという事実だ。

 アリーが仕事の合間の休息をとるとき、ナナは淹れたての甘いミントティーを持っていく。銀のティーポットから金彩の施された小さなガラスの器に熱いお茶を注ぐ。このポットの取っ手は素手で持つのは難しい。最初の時に、鍋つかみを持ってきてあたふたしていたら、アリーは笑って代わりに注いでくれた。それ以来、お茶を注ぐのはアリーだ。

 そういえば、正しいモロッコ風ミントティーの淹れ方を教えてくれたのもアリーだった。初めて持っていった午後、一口飲んでから黒目がちの瞳をナナに向けた。
「これ、どうやって淹れた?」

 ナナはポットを指さして答えた。
「お茶っ葉とミントを入れて、熱湯を注いだの」

 アリーは、彼女をキッチンに連れて行った。そして、正しい手順を見せてくれた。

 まずポットに茶葉を入れる。1人用ポットなら小さじ2杯。もう少し大きいポットは3杯だ。そこにやかんの熱湯をグラス1杯分だけ注ぎ、すぐにグラスに戻す。かなり濃いお茶だ。
「これはお茶のスピリットだから、あとでまた使う」

そして、浸る程度の熱湯を再びポットに入れるけれど、そのお茶は捨ててしまう。これを2度行う。
「これで苦みを取るんだ」

 そして、そこに大量のミント、小さじ大盛り3杯の砂糖、そして、とっておいた「お茶のスピリット」を入れてからお湯を注ぎ、それを中火にかける。そうやってお茶とミントをしっかりと煮出す。

 出来上がったお茶の底に砂糖が固まっているように思われたので、スプーンでかき混ぜようとしたら再び笑われた。
「こうするんだよ」

 彼は、そのままグラスにお茶を注いだ。少しずつポットを持ち上げ、最終的にはかなり高いところからお茶を注いでいる。そして、グラスに入ったお茶を再びポットに戻す。これを何度も繰り返すことで中の砂糖は均一に混じるらしい。

 それ以来、ナナは正しいモロッコ式ミントティーアツァイ・マグリビ を作るようになった。最初は抵抗があって砂糖を少なめにしていたけれど、アリーと一緒に飲むために彼に習った量を入れるようにしてみたら、苦みとのバランスがよくその強烈な甘さにも慣れてしまった。高いところからお茶を注ぐのでミントの香りが辺りに広がる。

 添えたデーツをかじりながら、しばらくさまざまなことを話して過ごす。
「日本でもお茶を飲むんだろう?」
「ええ。でも、お砂糖は入れないのよ」
「へえ」
「それに、いいお茶は、60℃ぐらいの温度で淹れて、苦みを出さないようにするの」

 同じ植物を使っていても、ミントティーと玉露は、まったく違う飲み物だ。ナナにとって障子と畳のある部屋で居住まいを正して飲む玉露は、もうとても遠い飲み物になってしまった。色鮮やかなゼリージュと中庭の棕櫚や椰子の木、噴水の水音と木漏れ日の中で飲むミントティーこそが、いまのナナの現実そのものだ。

 ティーグラスを持つアリーの茶色い手を見ながら、ナナはこの午後が永久に続けばいいのにと願う。共にいたい相手がベルナールでないことに思い至り、心の中で自分を嗤う。

 ベルナールにとって『千夜一夜物語』の具現であるリアド。経年で崩れていた細部を修復する魔法をかけに来るアリー。甘言と欺瞞の満ちた華やかな籠の中で王への忠誠を失った后の物語。人の心もまた小さなパーツで織りなされるモザイクだ。

 金彩の輝くグラスには今日もまた、なんと名付ければいいのかわからない強烈な甘さと苦さが満ちている。

(初出:2023年5月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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せっかくなのでゼリージュの作り方を紹介した動画を貼り付けておきますね。


FROM CLAY TO MOSAICS
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Posted by 八少女 夕

すでに食べきれていない?

隣人から借りた畑と、連れ合いの工場前のプランター、そして、キッチンの窓辺と3カ所でやっている家庭菜園の続報です。

畑の様子

昨年は連れ合いの工場のプランターだけでそれも実験的に植えた野菜だけだったので「なんだ。頑張ってもお店で野菜は買い続けなくちゃダメなんだ」と思っていました。借りた部分はさほど広くないと思っていたので(タダだし文句はありませんでしたが)正直言って、3月畑に種を蒔いた時は「秋に少しは食べられるのかな」ぐらいに思っていましたが、とんでもありませんでした。

現在の畑の様子です。完全無農薬で、水やりと適当な雑草取りしかしていないのですが、なんかすごいことになっています。

毎週買っていたサラダは、この夏は一切買わないでしょう。毎日、収穫しては食べ、収穫しては食べを繰り返しているのに、増えていく一方です。あんなに種を蒔くんじゃなかった(笑)

初ダイコン

ダイコンは、間引きがもったいなくてグズグズしていたら、いきなりトウが立ちはじめたので慌てて収穫をはじめました。もっと大きくしたかったのになあと思いつつ、これ(合計50グラム)でみよし漬けを作りました。みよし漬けなら多少スが入っていても問題なし。

葉っぱももったいないので、ダイコン、ハツカダイコン共に全部食べています。

ズッキーニやオクラ、それに大豆などは、まだまだ小さいのですが、ようやく暖かくなってきたので、これからは大きく育つと思います。

プランター

連れ合いの工場前のプランターは、例年のトマト栽培に加えて、今年はプランターバッグを使ってジャガイモとサツマイモも作ります。ジャガイモはいい感じに育っていますが、サツマイモは初挑戦なのでドキドキです。

プランター

そして、こちらも連れ合いの工場前のプランターで、深い根を張るものを植え始めました。ゴボウの発芽に苦労しています。ダイコンの仲間はこちらでもどんどん繁っています。ニンジンもようやく本葉が出てきました。

最近、スーパーに行って野菜売り場の前で「何にしよう」と悩むことがなくなりました。買い物から帰って大量の野菜を処理する事もなくなりました。その日に使うサラダは畑から取ってくるので、冷蔵庫がサラダで埋まることもなくなりました。青菜系も畑やプランターにあるものでたいてい何とかなります。

ジャガイモは、先日ついになくなったのでまた買い足しましたが、10キロ以上のまとめ買いだとかなり安いので、そうやって買うようになり、たぶん我が家の収穫まで持ちそう。

冬の間、セールだと買ってきて冷凍させたり乾燥させたりした野菜もまだあるので、今年はもうあまり野菜を買わずに済んでしまいそうです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(18)身体のきかない職人 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第18回『身体のきかない職人』の前編お届けします。2回に切るには短かったのですが、1度で終えるにはちょっと長かったので、困りました。

今回から、現代風に言うと「国境を越えて異国に入った」状態になりました。フルーヴルーウー峠の南側はセンヴリ王国の支配下になります。モデルにしたのはアルプス越えをしてイタリアに入るルートですね。ここからは、センヴリ王国の支配下であるだけでなく、直接の領主はトリネア侯爵ということになります。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(18)身体のきかない職人 -1-


 その日は、昨夜の寒さが嘘のように暖かく、イゾラヴェンナに到着した頃にはむしろ暑いといってもよいほどだった。《ケールム・アルバ》を越えてトリネア侯爵領に入った途端、フルーヴルーウー辺境伯領ではほとんど感じなかった湿度を感じるようになった。イゾラヴェンナは、標高でいえばフルーヴルーウー城下町よりも高いのだが、太陽の光はずっと強く感じられ、男も女も誰ひとりとして外套などは身につけず、袖をまくり上げて歩いている。

 ギンバイカやオリーブ、そしてマンネンロウなど、《ケールム・アルバ》の北側では見られない植物がそこここに見られた。また、見上げるほど大きな栗の木がたくさんあり、緑色のイガがたわわに実っている。

 イゾラヴェンナは、トリネア侯爵領では3番目に大きな街だ。大聖堂の立派な塔をはるか彼方からも見ることができた。

 マックスは、貴族などが好む豪奢な旅籠のある大聖堂の近くを避け、トリネアの街に向かう街道にほど近い西側の地域に向かった。そこは職人たちの住む地域で、靴屋、毛織物工、染物屋、鉄工、石工、塗装工などの工場兼住居の他、同職組合の事務方を兼ねる特殊宿泊施設もいくつかあった。

 開業可能な親方資格を取得するために、どの職業であっても職人たちは少なくとも3年以上の遍歴をしなくてはならない。その遍歴の間、生まれ故郷には足を踏み入れてはならず、故郷からの経済援助も得てはならないことになっている。

 その代わりグランドロン、センヴリ、ルーヴラン各王国内の各組合は、同職組合からの正式な資格証明書を提示されれば、たとえその街での修業受入れ先を用意できない場合でも、2泊の宿と飲食ならびに次の街までの路銀を提供しなくてはいけないこととなっていた。

 イゾラヴェンナの職人街は、各地から集まる遍歴職人たちの宿泊先を職業組合ごとに手配するのではなく、いくつかの組合が共同で大きめの宿泊施設を経営していた。この施設が満室でない場合は、組合に所属していない旅人も有料で宿泊することが可能だった。

 既知の貴族たちと鉢合わせする可能性を避けるためだけではなく、あまり接点を持つことのない手工業者の世界を見てみたいというレオポルドの希望を叶えるため、マックスはこの宿泊施設または近隣の旅籠に泊まるつもりで案内した。

 幸い宿泊施設はさほど混んでいなかったため、5人の宿泊を受け入れてくれた。ただし、男女同室を許可していなかったので、男性3人、女性2人に分かれて宿泊することになった。

 ラウラと同室だと知らされてアニーは傍目からもよくわかる喜びようだった。その様子を見たフリッツはムッとした様相だった。

「なんだ。さんざん不平を言っておきながら『妻』と離れるのはいやなのか」
レオポルドが意外そうに訊くと、フリッツはさらに心外だという表情をした。

「そんなわけないでしょう。まるでいままで私があの娘にちょっかいを出していたかのような言い方をしないでください」

「ちょっかいを出すくらいの面白みがあればちょっとはマシな……」
「何とおっしゃいましたか」
「いや、なんでもない」

 主従のやり取りを聞いていたマックスは、顔を背けて奇妙な咳をした。見ると笑いを堪えているようだ。

 食事までの時間、一同は食堂に隣接されている居間で寛いでいた。その居間にはいくつかの丸テーブルとひじ掛け椅子が置かれていて、5人ほどの職人たちが意見交換をしていた。それぞれは異なった職業のようだが、それぞれの通ってきた地域についての情報は参考になるらしく盛んに質問し合っている。

「ヴォワーズ大司教領? いや、あそこは、毛織物工だけでなくて、今いかなる遍歴職人をも受け入れていないと聞いたぞ」
「本当か? ヴァスティエラは疫病で組合自体が閉鎖されたっていうし、センヴリ王国内で受け入れ先を探すのは難しくなってきたな」
「こうなったら、グランドロンに戻った方がいいのかもしれないぞ」
「とりあえずトリネアで探してみてダメならまた北上するか」
「トリネアからなら、そのままルーヴランに入るのもありかな」

 職人たちの話を聞いていたマックスは、ラウラが戸口に視線を向けていることに氣がついた。その視線の先には、1人の痩せた男がひとりで立っていた。
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