縮小モードに入りました
2012年の3月に開設して以来、半ば意地で毎日更新をしてきましたが、先日もお報せしました通り執筆を優先するために本日から一定期間ブログ活動を縮小いたします。
具体的に言いますと、更新が「小説1」「通常の記事1」の週二回になります。また、いただいたコメントへお返事を差し上げるのも週二回程度になりますのでお返事に最長で4日かかることがあります。この記事は単なるニュースなのでコメント欄は閉じていますが、小説や記事(新しいもの・過去のもの両方)に対するコメントは大歓迎です。今まで通りに構ってくださると嬉しいです。
皆様のブログへの訪問はこれまで通り行い、読んで共感した記事に拍手させていただきますが、コメントを差し上げるのは例外をのぞいてやはり週二回のブログ活動日だけになります。
この期間を使って、最低でも長編小説を一本、中編ならびに掌編小説を4-5本書き終えたいと思います。通常モードに戻る時にまたお報せしますが、それまでは記事の更新と交流が減る事をお許しください。
どうぞよろしくお願いします。
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【小説】いつかは寄ってね
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は石川さゆりの「ウイスキーがお好きでしょ」を基にした作品です。えっと、私と同世代以上の日本人なら絶対に知っているはずですが、若い方は知らないのかな? いや、ずいぶん後までコマーシャルやっていましたよね。
とはいえ、サビの部分しかご存じない方も多いかと思います。ま、さほど意味のある歌でもなく、コマーシャルの世界にインスパイアされて書いたので、歌詞を追わなくてもいいかと(笑)
お酒のお店がこれで私の小説世界では五件目になってしまいました。(他の四つは『dangerous liaison』、『Bacchus』、『お食事処 たかはし』、マリア=ニエヴェスのタブラオ『el sonido』)本人はそんなに飲ん兵衛じゃないのになあ……。
涼子のイメージは、ずばり石川さゆり。「夜のサーカス」が完結したら、「バッカスからの招待状」をStella連載用にしようと目論んでいるので、その布石のキャラ配置でございます(笑)
![短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/12songs.jpg)
いつかは寄ってね
Inspired from “ウイスキーがお好きでしょ” by 石川さゆり
「いらっしゃい」
涼子は引き戸の方に明るい声をかけた。
「おっ。ハッシー」
カウンターの西城がろれつのまわらぬ口調で叫ぶ。入ってきたばかりの橋本はほんの少し失望したような顔をした。
「こんばんは。涼子ママ。なんだよ、もう西城さんが出来上がっているんじゃないか」
「へへっ。今日は直帰だったんでね。一番乗り」
西城は涼子にでれでれと笑いかけた。
『でおにゅそす』は、東京は神田の目立たない路地にひっそりと立つ飲み屋で、ママと呼ばれている涼子一人で切り盛りをしている。店の広さときたら二坪程度でカウンター席しかない。五年ほど前に開店した時には、誰もが長く続かないだろうと思ったが、意外にも固定客がついている。この世知辛いご時世だから安泰とは言えないが、この業界の中では悪くはない経営状況だった。
西城や橋本をはじめとする足繁く通う常連は、みな誰よりも涼子と親しくなろうと競い合っていた。そのほぼ八割方は既婚者だし、涼子もにっこり笑って相手をしているが特に誰とも深い仲になることもなかった。
「涼ちゃんだけだよ。どんな話でもニコニコと聴いてくれるのはさ。うちの嫁なんか、そういうグチグチしたことは聴きたくない、あんたは給料だけしっかり運んで来ればいいんだって……」
「うふふ。お子さんのお世話でイライラしていたんでしょうね。奥さま、本当は西城さんのことを大切に思っているわ。でも、吐き出してしまいたいことがあったら、いつでもここに来て言ってくれていいのよ」
涼子が微笑んでそういうと、西城はにやけて熱燗をもう一本注文した。負けてはならぬと、橋本も急いで飲みだす。
「単衣の季節かあ。まだ暑いだろう?」
橋本はおしぼりで汗を拭きながら、涼子の白地に赤やオレンジの楓を散らした小紋にちらりと目をやる。
「そうねぇ。でも、単衣を着られる時期って少ないから、着ないと損したみたいだし」
涼子は小紋の袖をそっと引いて、つきだしを橋本の前に出した。その動きは柔らかくて控えめだ。和服の似合う静かな美人だし、小さいとはいえ店を経営するんだから、誰かの後ろ盾があるに違いないと人は噂したが、この五年間にそれらしき男の影はどこにも見られなかった。
「なあ、ハッシー、知っているか。板前の源さん、入院したんだってさ」
西城が、赤い顔で話しかけた。源さんというのは、やはり『でおにゅそす』でよく会うメンバーの一人で、橋本とも旧知の仲だった。もともとはただの客なのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。
「え。どこが悪いのかい?」
「胆石ですって。先ほど、勤め先のお店の方がわざわざお見えになってね。しばらく来れないけれど、そういう事情だからって」
「へえ~。そうか。じゃあ、そんなに深刻な病状ではないんだね」
「ええ、不幸中の幸いね」
「でも、ってことは、涼子ママは困っているんじゃないの?」
「くすっ。そうね。源さんが作るほど美味しくないけれど、しばらくは私が作るので我慢してね」
そっと出てきたあさりの酒蒸しは優しいだしの香りがした。
「美味しいよ。でも、ママが困っているなら、何でも言ってくれよな。力になるからさ」
そういう橋本に西城も負けずと叫ぶ。
「俺っちだって、何でもするよ」
涼子はにっこりと微笑んだ。
自分で店をはじめていなければわからなかった人情というものがある。かつて一部上場の商社でOLをしていた頃、同僚が病欠をしたりすると「ち。この忙しいのに」という声が聞こえた。休んだ方はどちらにしても使いきれはしない有給休暇を使われてしまうことに納得のいかない顔をしたものだ。実際には涼子たちの仕事は他の誰かが代わりにできることで、それにどうしてもその日のうちに終わらせなくてはならないことでもなかった。仕事を休んでも月末には同じように給料が入ってきた。
けれど、この店をはじめてから涼子には有休など寝言も同然の言葉になった。一日休めばそれだけ収入が減る。たまたまその日に来てくれたお客さんが二度と来なくなってしまう心配すらあった。自分一人では解決できないことを、義務ではなくて親切心から手を差し出してくれる人たちのことを知った。顔や身長や肩書きや年収ではなくて、氣っ風とハートと実用性こそが涼子を本当に助けてくれるのだった。
思えば、考えてもいなかった世界に流れてきたと思う。あの商社に勤めていた頃は、この歳まで一人でいる可能性など露ほども考えていなかった。当時つき合っていたのは大手銀行に勤めるエリートで、他の多くの同僚たちのように結婚と同時に退職して家庭に入り、時々主婦同士で昼食会に行ったり買い物をしたりの浮ついた未来が用意されていると信じていた。実際に、彼はそんな未来を涼子に用意しようと考えていたのだ。
「ねえ。涼子ママはこんなにきれいなのに、どうして一人なの?」
橋本がほんのり赤くなりながら訊いてくる。
「おい、ハッシー、野暮なことを訊くなよ。誰かいい人が居るに決まってんじゃん」
西城が口を尖らせる。
涼子はそっと笑った。
「あのね。昔ね、運命の人に出会ってしまったの。どうしても結ばれることのできない人で、だからあきらめるしかなかったの」
涼子がそういうと、二人とも肩をすくめた。全く信じていないのがわかった。涼子がそんな風にはぐらかしたのははじめてではなくて、パトロンの存在を匂わせると固定客が減るからだろうと勝手に解釈していた。
本当のことなのにね。
姉の紀代子が連れてきた男の職業に、父親は激怒した。母親も眉をひそめて涼子に囁いた。
「何も水商売の男性を選ばなくてもねぇ」
「カタギじゃないの?」
涼子が仕事から帰って来た時には、挨拶に来たその青年はもう帰っていて、どんな職業か興味津々だった。
「バーテンですって」
「へえ」
「挨拶だけして、これから開店だからってさっさと帰っちゃったのよ」
「お姉ちゃんは?」
「彼を手伝うって大手町に行っちゃった」
涼子は優等生だった姉が、両親の許しが得られないまま彼と暮らしはじめたことに驚いた。そして、「関わるな」と言われたにも拘らず好奇心でいっぱいになって、会社帰りに大手町にあるというそのバーに足を運んだ。
『Bacchus』は小さいながらも味のあるしゃれたバーで、姉の選んだ男性はそのバーを一人で切り盛りしていた。繁華街から離れたオフィスビルの地下にあり隠れ家のような静かな店で、センスのいいジャズががかかっていた。涼子がぎこちなく店を見回していると微かに笑って「何が飲みたい?」と訊いた。
子供だと思っているんだ、そう思った涼子はちょっとムッとした。
「ウィスキーください」
飲めもしないのに、どうしようかなあと思っていると、すっとロングドリンクが出てきた。時間と秘密を溶かし込んだような深いウィスキーの味わいはそのままに、夢みがちな少女時代の憧れにも似た軽い炭酸水をそっと加えたウィスキーソーダだった。添えられたミントの葉が妙にピンと立って見えた。背伸びをしている未来の義理の妹への最初の挨拶だった。
紀代子は後からやってきた。涼子は邪魔をしないようにそっとカウンターの端に座って眺めた。時おりそっと二人で微笑みあっていた。とてもお似合いだった。その晩に涼子は田中佑二のことをすっかり氣にいってしまったのだ。
両親に認めてもらえなかった分、涼子が味方をしてくれたのが嬉しかったのだろう、二人は涼子をよく『Bacchus』に呼び、三人でいろいろな話をすることが多くなった。カウンターの端からゆっくりと眺めていると、佑二はそっと客たちに話しかけていた。社交辞令や上っ面の挨拶ではなく、一人一人に違った言葉で話しかけていた。哀しく酔っている客もいたし、楽しそうに報告をする客もいた。答えを探し自分の心の奥を探っている男。仕事の失敗を嘆く青年。逢えなくなった孫たちのことを想う老婦人。恋人に去られた娘。それぞれの人生に短い言葉や優しい相槌で答えながら、キラキラと氷が光を反射するグラスをそっと差し出す姿。涼子は姉の男性を見る目に感心した。
そして、涼子のつき合っていた「大手銀行くん」がクリスマスイヴにシティホテルを予約して、薔薇の花束とカルチェの指輪でプロポーズをしてきた。つい先日発売された雑誌の「クリスマスデート特集」の表紙から数えて3ページ目「ケース1」と、ホテルの選択からプレゼントまで全て一致していた。彼は涼子が知らないと思っていたのかもしれないが。急に醒めていくのがわかった。彼は仕事でどれだけの金額の取引に関わったか、ハネムーンはハワイに行ってできれば最新のロレックスを買いたいというような話題を、涼子の反応もまったく意に介せずに話し続けていた。
当時はバブルがはじけて間もない頃だった。彼の勤めていた銀行が統合されてなくなってしまうなんて事は誰も考えていなかった。とても浮わついていた時代でもあったのだ。涼子はよく考えてからプレゼントを返し、進もうとしていた道から引き返した。
でも、涼子にとって悲劇だったのは、「大手銀行くん」以外のプロポーズしてくれる男と出会えなかったことではない。涼子にはわかっていたのだ。一緒に人生を過ごしたい男性は、姉と人生をともにしようとしていることを。
あれからいろいろなことがあった。紀代子と佑二の間に何があったか涼子は知らされていなかった。両親に祝福されない関係、昼と夜の逆転した生活に疲れていたのは知っていた。でも、少なくとも最後にあった時に、姉は恋人のもとを去ろうとしているような氣配は全く見せなかった。ましてや、失踪したまま仲の良かった妹にも居所を知らせないままになるなんてことを予想することはできなかった。佑二が紀代子を心配して必死で探していたことは間違いない。もちろん両親や涼子も。一度だけカリフォルニアからハガキが来た。消印は姉が居なくなってから二週間ほど後で、姉の筆跡でわがままを許してほしい、探さないでほしいということが書かれていた。両親にも佑二にも謝罪の言葉はなかった。
それから二十年近くが経った。佑二はいまだに大手町の『Bacchus』で同じように働いている。彼の受けた傷と、涼子の両親との間に起った不愉快ないざこざのあと、涼子は『Bacchus』に以前のように行くことができなくなってしまった。
『でおにゅそす』を開店する時に、涼子は知人一同に挨拶状を送った。よりにもよって水商売をはじめたと激怒した両親はもちろん、商社時代の知人たちからもことごとく無視されたが、開店の日に佑二は見事なフラワーアレンジメントを贈ってくれた。深いワインカラーの薔薇をメインにした秋の饗宴だった。
『Bacchus』にちなんで『でおにゅそす』と名付けたことも、姉のことがあってもまだ好意を持ち続けていることも、きっと伝わったのだと思った。それでいいわよね、今は。
「涼子ママの好きな人さ。この店に来るのかな」
橋本は、誰が恋人もしくはパトロンなんだろうと、頭を働かせているようだった。
そりゃあ、来ないでしょうね。私が店を開けている時には、あの人も開店中。でも、いつかはこのカウンターに座ってくれないかな。そうしたら、私が作れるようになったことを教えてあげるから。佑二さんが私のために出してくれたあの絶妙のウィスキーソーダを。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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【小説】いつかは寄ってね
「十二ヶ月の歌」の九月分です。
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。九月は石川さゆりの「ウイスキーがお好きでしょ」を基にした作品です。えっと、私と同世代以上の日本人なら絶対に知っているはずですが、若い方は知らないのかな? いや、ずいぶん後までコマーシャルやっていましたよね。
とはいえ、サビの部分しかご存じない方も多いかと思います。ま、さほど意味のある歌でもなく、コマーシャルの世界にインスパイアされて書いたので、歌詞を追わなくてもいいかと(笑)
お酒のお店がこれで私の小説世界では五件目になってしまいました。(他の四つは『dangerous liaison』、『Bacchus』、『お食事処 たかはし』、マリア=ニエヴェスのタブラオ『el sonido』)本人はそんなに飲ん兵衛じゃないのになあ……。
涼子のイメージは、ずばり石川さゆり。「夜のサーカス」が完結したら、「バッカスからの招待状」をStella連載用にしようと目論んでいるので、その布石のキャラ配置でございます(笑)
![短編小説集「十二ヶ月の歌」をまとめて読む](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/12songs.jpg)
いつかは寄ってね
Inspired from “ウイスキーがお好きでしょ” by 石川さゆり
「いらっしゃい」
涼子は引き戸の方に明るい声をかけた。
「おっ。ハッシー」
カウンターの西城がろれつのまわらぬ口調で叫ぶ。入ってきたばかりの橋本はほんの少し失望したような顔をした。
「こんばんは。涼子ママ。なんだよ、もう西城さんが出来上がっているんじゃないか」
「へへっ。今日は直帰だったんでね。一番乗り」
西城は涼子にでれでれと笑いかけた。
『でおにゅそす』は、東京は神田の目立たない路地にひっそりと立つ飲み屋で、ママと呼ばれている涼子一人で切り盛りをしている。店の広さときたら二坪程度でカウンター席しかない。五年ほど前に開店した時には、誰もが長く続かないだろうと思ったが、意外にも固定客がついている。この世知辛いご時世だから安泰とは言えないが、この業界の中では悪くはない経営状況だった。
西城や橋本をはじめとする足繁く通う常連は、みな誰よりも涼子と親しくなろうと競い合っていた。そのほぼ八割方は既婚者だし、涼子もにっこり笑って相手をしているが特に誰とも深い仲になることもなかった。
「涼ちゃんだけだよ。どんな話でもニコニコと聴いてくれるのはさ。うちの嫁なんか、そういうグチグチしたことは聴きたくない、あんたは給料だけしっかり運んで来ればいいんだって……」
「うふふ。お子さんのお世話でイライラしていたんでしょうね。奥さま、本当は西城さんのことを大切に思っているわ。でも、吐き出してしまいたいことがあったら、いつでもここに来て言ってくれていいのよ」
涼子が微笑んでそういうと、西城はにやけて熱燗をもう一本注文した。負けてはならぬと、橋本も急いで飲みだす。
「単衣の季節かあ。まだ暑いだろう?」
橋本はおしぼりで汗を拭きながら、涼子の白地に赤やオレンジの楓を散らした小紋にちらりと目をやる。
「そうねぇ。でも、単衣を着られる時期って少ないから、着ないと損したみたいだし」
涼子は小紋の袖をそっと引いて、つきだしを橋本の前に出した。その動きは柔らかくて控えめだ。和服の似合う静かな美人だし、小さいとはいえ店を経営するんだから、誰かの後ろ盾があるに違いないと人は噂したが、この五年間にそれらしき男の影はどこにも見られなかった。
「なあ、ハッシー、知っているか。板前の源さん、入院したんだってさ」
西城が、赤い顔で話しかけた。源さんというのは、やはり『でおにゅそす』でよく会うメンバーの一人で、橋本とも旧知の仲だった。もともとはただの客なのだが、付けを払う代わりにカウンターの中に入り、つまみを用意することが多いので『でおにゅそす』の半従業員のようになっていた。
「え。どこが悪いのかい?」
「胆石ですって。先ほど、勤め先のお店の方がわざわざお見えになってね。しばらく来れないけれど、そういう事情だからって」
「へえ~。そうか。じゃあ、そんなに深刻な病状ではないんだね」
「ええ、不幸中の幸いね」
「でも、ってことは、涼子ママは困っているんじゃないの?」
「くすっ。そうね。源さんが作るほど美味しくないけれど、しばらくは私が作るので我慢してね」
そっと出てきたあさりの酒蒸しは優しいだしの香りがした。
「美味しいよ。でも、ママが困っているなら、何でも言ってくれよな。力になるからさ」
そういう橋本に西城も負けずと叫ぶ。
「俺っちだって、何でもするよ」
涼子はにっこりと微笑んだ。
自分で店をはじめていなければわからなかった人情というものがある。かつて一部上場の商社でOLをしていた頃、同僚が病欠をしたりすると「ち。この忙しいのに」という声が聞こえた。休んだ方はどちらにしても使いきれはしない有給休暇を使われてしまうことに納得のいかない顔をしたものだ。実際には涼子たちの仕事は他の誰かが代わりにできることで、それにどうしてもその日のうちに終わらせなくてはならないことでもなかった。仕事を休んでも月末には同じように給料が入ってきた。
けれど、この店をはじめてから涼子には有休など寝言も同然の言葉になった。一日休めばそれだけ収入が減る。たまたまその日に来てくれたお客さんが二度と来なくなってしまう心配すらあった。自分一人では解決できないことを、義務ではなくて親切心から手を差し出してくれる人たちのことを知った。顔や身長や肩書きや年収ではなくて、氣っ風とハートと実用性こそが涼子を本当に助けてくれるのだった。
思えば、考えてもいなかった世界に流れてきたと思う。あの商社に勤めていた頃は、この歳まで一人でいる可能性など露ほども考えていなかった。当時つき合っていたのは大手銀行に勤めるエリートで、他の多くの同僚たちのように結婚と同時に退職して家庭に入り、時々主婦同士で昼食会に行ったり買い物をしたりの浮ついた未来が用意されていると信じていた。実際に、彼はそんな未来を涼子に用意しようと考えていたのだ。
「ねえ。涼子ママはこんなにきれいなのに、どうして一人なの?」
橋本がほんのり赤くなりながら訊いてくる。
「おい、ハッシー、野暮なことを訊くなよ。誰かいい人が居るに決まってんじゃん」
西城が口を尖らせる。
涼子はそっと笑った。
「あのね。昔ね、運命の人に出会ってしまったの。どうしても結ばれることのできない人で、だからあきらめるしかなかったの」
涼子がそういうと、二人とも肩をすくめた。全く信じていないのがわかった。涼子がそんな風にはぐらかしたのははじめてではなくて、パトロンの存在を匂わせると固定客が減るからだろうと勝手に解釈していた。
本当のことなのにね。
姉の紀代子が連れてきた男の職業に、父親は激怒した。母親も眉をひそめて涼子に囁いた。
「何も水商売の男性を選ばなくてもねぇ」
「カタギじゃないの?」
涼子が仕事から帰って来た時には、挨拶に来たその青年はもう帰っていて、どんな職業か興味津々だった。
「バーテンですって」
「へえ」
「挨拶だけして、これから開店だからってさっさと帰っちゃったのよ」
「お姉ちゃんは?」
「彼を手伝うって大手町に行っちゃった」
涼子は優等生だった姉が、両親の許しが得られないまま彼と暮らしはじめたことに驚いた。そして、「関わるな」と言われたにも拘らず好奇心でいっぱいになって、会社帰りに大手町にあるというそのバーに足を運んだ。
『Bacchus』は小さいながらも味のあるしゃれたバーで、姉の選んだ男性はそのバーを一人で切り盛りしていた。繁華街から離れたオフィスビルの地下にあり隠れ家のような静かな店で、センスのいいジャズががかかっていた。涼子がぎこちなく店を見回していると微かに笑って「何が飲みたい?」と訊いた。
子供だと思っているんだ、そう思った涼子はちょっとムッとした。
「ウィスキーください」
飲めもしないのに、どうしようかなあと思っていると、すっとロングドリンクが出てきた。時間と秘密を溶かし込んだような深いウィスキーの味わいはそのままに、夢みがちな少女時代の憧れにも似た軽い炭酸水をそっと加えたウィスキーソーダだった。添えられたミントの葉が妙にピンと立って見えた。背伸びをしている未来の義理の妹への最初の挨拶だった。
紀代子は後からやってきた。涼子は邪魔をしないようにそっとカウンターの端に座って眺めた。時おりそっと二人で微笑みあっていた。とてもお似合いだった。その晩に涼子は田中佑二のことをすっかり氣にいってしまったのだ。
両親に認めてもらえなかった分、涼子が味方をしてくれたのが嬉しかったのだろう、二人は涼子をよく『Bacchus』に呼び、三人でいろいろな話をすることが多くなった。カウンターの端からゆっくりと眺めていると、佑二はそっと客たちに話しかけていた。社交辞令や上っ面の挨拶ではなく、一人一人に違った言葉で話しかけていた。哀しく酔っている客もいたし、楽しそうに報告をする客もいた。答えを探し自分の心の奥を探っている男。仕事の失敗を嘆く青年。逢えなくなった孫たちのことを想う老婦人。恋人に去られた娘。それぞれの人生に短い言葉や優しい相槌で答えながら、キラキラと氷が光を反射するグラスをそっと差し出す姿。涼子は姉の男性を見る目に感心した。
そして、涼子のつき合っていた「大手銀行くん」がクリスマスイヴにシティホテルを予約して、薔薇の花束とカルチェの指輪でプロポーズをしてきた。つい先日発売された雑誌の「クリスマスデート特集」の表紙から数えて3ページ目「ケース1」と、ホテルの選択からプレゼントまで全て一致していた。彼は涼子が知らないと思っていたのかもしれないが。急に醒めていくのがわかった。彼は仕事でどれだけの金額の取引に関わったか、ハネムーンはハワイに行ってできれば最新のロレックスを買いたいというような話題を、涼子の反応もまったく意に介せずに話し続けていた。
当時はバブルがはじけて間もない頃だった。彼の勤めていた銀行が統合されてなくなってしまうなんて事は誰も考えていなかった。とても浮わついていた時代でもあったのだ。涼子はよく考えてからプレゼントを返し、進もうとしていた道から引き返した。
でも、涼子にとって悲劇だったのは、「大手銀行くん」以外のプロポーズしてくれる男と出会えなかったことではない。涼子にはわかっていたのだ。一緒に人生を過ごしたい男性は、姉と人生をともにしようとしていることを。
あれからいろいろなことがあった。紀代子と佑二の間に何があったか涼子は知らされていなかった。両親に祝福されない関係、昼と夜の逆転した生活に疲れていたのは知っていた。でも、少なくとも最後にあった時に、姉は恋人のもとを去ろうとしているような氣配は全く見せなかった。ましてや、失踪したまま仲の良かった妹にも居所を知らせないままになるなんてことを予想することはできなかった。佑二が紀代子を心配して必死で探していたことは間違いない。もちろん両親や涼子も。一度だけカリフォルニアからハガキが来た。消印は姉が居なくなってから二週間ほど後で、姉の筆跡でわがままを許してほしい、探さないでほしいということが書かれていた。両親にも佑二にも謝罪の言葉はなかった。
それから二十年近くが経った。佑二はいまだに大手町の『Bacchus』で同じように働いている。彼の受けた傷と、涼子の両親との間に起った不愉快ないざこざのあと、涼子は『Bacchus』に以前のように行くことができなくなってしまった。
『でおにゅそす』を開店する時に、涼子は知人一同に挨拶状を送った。よりにもよって水商売をはじめたと激怒した両親はもちろん、商社時代の知人たちからもことごとく無視されたが、開店の日に佑二は見事なフラワーアレンジメントを贈ってくれた。深いワインカラーの薔薇をメインにした秋の饗宴だった。
『Bacchus』にちなんで『でおにゅそす』と名付けたことも、姉のことがあってもまだ好意を持ち続けていることも、きっと伝わったのだと思った。それでいいわよね、今は。
「涼子ママの好きな人さ。この店に来るのかな」
橋本は、誰が恋人もしくはパトロンなんだろうと、頭を働かせているようだった。
そりゃあ、来ないでしょうね。私が店を開けている時には、あの人も開店中。でも、いつかはこのカウンターに座ってくれないかな。そうしたら、私が作れるようになったことを教えてあげるから。佑二さんが私のために出してくれたあの絶妙のウィスキーソーダを。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。
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名前の話・愛称編
日本で一番有名なスイス人名といったら「ハイジ」ですよね。正確には「ハイディ(Heidi)」です。これは「アーデルハイド(Adelheid)」の愛称です。「つけたはいいけど長いのよね」で「アーデル」を省略ですね。最後についている「ィ(-i)」は何だと思いますか? これはドイツ語圏に共通する語尾で小さくて可愛いものにつけるのです。いくつかパターンがあって「ィ(-i)」「リィ(-li)」「ライン(-lein)」「ヒェン(-chen)」という具合に名詞によってつけるものが変わります。
私の連れ合いは非常に間抜けなことに「ちゃん」が「女の子などにつけられる呼称」だと説明されてからそれに勝手に「ィ(-i)」をつけて「○○チャンニィ」と発音することになってしまいました。普段は氣にも止めていませんが、日本人の方がいらっしゃって聞かれるとちょっと恥ずかしい。閑話休題。
日本で歌われている「おおブレネリ」という歌、これは二つはつっこみどころのある歌詞でして、まず「ブレネリ」という名前は聞きません。この歌詞を日本語に導入した方はドイツ語を知らなかったのでしょう。スイスにとても良くある女性名「Vreneli」を英語式に発音してしまったのですね。正しくは「フレネリ」です。「V」はドイツ語では濁らないのです。これは「フェレーナ(Verena)」という女性名での愛称です。フェレーナはスイスにやってきた聖女なのでスイスではとてもよく聞きます。「フェレーナ→フレーニー(Vreni)→フレネリィ」と愛称の愛称となって変化したのでしょうね。ちなみにウィキペディアで「Vreneli」を検索すると金貨が出てきます。スイスで発行され続けた金貨の愛称で持っているとかなりのお宝です。
この歌詞のもう一つのつっこみどころは「私のお家はスイッツァランドよ」ですかね。日本語なんだから普通にスイスと言えばいいものを何故かそこだけ英語にしています。でも、スイスにはわざわざ英語を使わなくても五つも正式な国名がありまして(Schweiz、Suisse、Svizzera、Svizra、Confoederatio Helvetica-独、仏、伊、ロマンシュ語、ラテン語)フレネリィが英語で国名を言うのはちょっと変です。
で、再び愛称問題に戻ります。ある女性が例えば「フェレーナ(Verena)」として洗礼を受け役所に届けられたとします。でも、普段はずっとフレーニー(Vreni)で通していると、表札もフレーニー、銀行のサインもフレーニー、結婚証明所のサインもフレーニーでOKなんですよ。日本でいうと「美知子さん」が「みっちゃん」でサインしちゃうって感じでしょうか。で、大往生なさり新聞に死亡広告が載ります。(スイスでは一般人でも死亡広告を新聞に載せるのです)そこには「Verena(Vreni)」とカッコ書きで愛称が書かれます。そうしないとフレーニーしか知らない人たちが困るからなんですね。
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今回の設定は、私の小説書き人生の中ではもっともつっこみどころのある無茶な設定です。なぜそうなってしまったのかのいいわけは追記に書きました。もっとも、この世界観では、それ以前に龍だの何だのがありますので、「はいはい、ファンタジーでしょ」でスルーしていただいても構いません。
さて、今回も 羽桜さんがとても素敵なイラストをつけてくださいました。しかも特殊な効果を狙って描いてくださいましたので、こちらもちょっと特殊効果をつけさせていただきました。羽桜さん、お忙しいところいつも本当にありがとうございます!
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(11)詩曲
連絡が途切れるはずだったのに、拓人はそうしなかった。
「明日、文化会館の大ホールで真耶と弾くんだ。上野に着いたら電話してくれ。楽屋に向かう裏道を教えるから」
行くとも言わないうちに楽屋を訪ねることになってしまった。瑠水は今日から着信拒否扱いになるものだとばかり思っていたので、連絡が来たことに驚いてしまい、電話が切れるまですっかり彼女扱いされていることに違和感を持たなかった。ちょっと肩をすくめて、仕事に戻る。嬉しかった。
その日の出演者は、真耶と拓人の二人の他に、著名なヴァイオリニストの吉野隆がオーケストラと一緒に共演することになっていた。真耶はクライスラーを、拓人はリストを独奏で弾き、二人でグリンカのソナタを演奏することになっていた。そして最後にオーケストラと一緒に吉野隆がショーソンの『詩曲』を弾くというプログラムだった。
瑠水を拾いに拓人が席を外している間に、吉野隆と真耶が控え室で二人になっていたのだが、瑠水と拓人が戻ると、吉野が声を荒げていた。
「私を誰だと思っているんだ。タレントまがいの女が失礼なことを言うな」
拓人が急いで楽屋に入ると、不必要に真耶の近くにいた吉野がかなりあわてて離れた。真耶の顔は怒りに燃えていた。どうやら拓人が席を外した隙に、真耶に迫って拒絶されたらしい。憤懣やる方ない吉野は捨て台詞のように言った。
「ヴァイオリンで大成できないから、ヴィオラに崩れたくせに」
「吉野先生。どうなさったんですか」
拓人はわざと冷静に訊いた。瑠水は拓人も怒りに燃えているのがわかった。真耶は軽蔑の表情で吉野を見ていた。
「なんでもない。この失礼な女とは一瞬でも一緒にいたくないね」
そういってストラディヴァリウスを持って、出て行った。
「大丈夫か、真耶」
「ふん。初めてじゃないわよ。こういう目に遭うのは。演奏で見返すしかないわよね」
「美人は大変だな」
真耶は口先で微笑んだ。
二人はプロだった。こんなことがあったのに、聴衆の前では、何事もなかったかのように演奏し、いつも通りの喝采を得た。瑠水は二人をますます尊敬するようになった。一昨日で、拓人と終わりになってしまわなかったことを、嬉しく思った。二人が演奏している間、瑠水は舞台袖に置かれたパイプ椅子に座って聞いていたが、ふいに妙な叫び声が聞こえた。
声は楽屋に続くドアの方から聞こえたので、瑠水はそっと立って、そちらを観に行った。そこには吉野隆がいて、左手を右手で押さえていた。血が出ている。瑠水はびっくりしてドアをそっと閉めると訊いた。
「どうなさったんですか」
「弦が切れて……」
左手の小指を傷つけたのだ。瑠水は急いでハンカチを取り出すと吉野の傷を覆い縛った。喝采が聞こえて、二人の出番が終わったことがわかった。休憩時間に入るのだ。
ドアが開いて拓人と真耶が出てきた。
「瑠水、なんで最後まで聴いて……」
拓人はいいかけて、吉野の手当をしている瑠水に氣がついた。
「吉野先生、いったい」
「急に弦が切れたんだ。小指がざっくり切れた。この指で弾くのは無理だ」
真耶はすぐに主催者を呼んで来た。休憩時間は二十分だ。その間に対策を練らなくてはならない。
「そんな……」
主催者は蒼白になった。オーケストラは準備に入っている。ソリストなしでは話にならない。今からでは代役のヴァイオリニストも頼めない。
「中止にはできないんですか」
瑠水は小さな声で拓人に訊いた。
「無理だろうな。オーケストラも切符を売っているんだ。一曲も演奏しないまま帰りますってわけにはいかないだろう。オケじゃ、代わりに速攻で別の曲を準備することも出来ない。代役を立てるしかないね」
そういってわけありげに真耶を見た。真耶もにやりと笑った。
「差し出がましいかも知れませんが、私が弾きましょうか」
「園城さん! 弾けるんですか?」
「もともとはヴァイオリンから始めましたしね。今でも家では両方弾くんですよ。今日は持ってきていませんから、楽器は手配していただかないといけませんけれど、楽譜はいりませんわ」
全員の目が、吉野隆のストラディヴァリウスに向いた。吉野はきまり悪そうに楽器を差し出した。
「お願いいたします。替えの弦は控え室にあります」
「面白くなってきた」
休憩が終わって、オーケストラは舞台に揃った。そして、吉野隆の代わりに、ストラディヴァリウスを持った園城真耶が舞台に出てきたとき、オケと客席の両方からどよめきが起こった。ヴィオリストの園城真耶がどうして、というざわめきだった。だが、全てを制するような自信に満ちた態度で、真耶は舞台の中央に立ち動きを止めた。指揮者が頷き沈黙が起きた。
不安な顔で舞台を見つめる瑠水に拓人は言った。
「大丈夫だ。聴いていてごらん」
オーケストラが、暗闇の中から這い出るように、悲観的な旋律で動き出す。管楽器、弦楽器も否定的な悲しみに満ちた音で舞台に広がる。そして、突然、全オーケストラが動きを止め、弓を構えた真耶に挑むように静寂が訪れる。真耶は雄々しく最初の旋律と和音を響かせる。その音には悲しくも力強い生命が込められている。これほどの力がこの細い体のどこに隠れていたのだろうか。オーケストラには生命が吹き込まれ真耶に従う。真耶のビブラートはさらに力強く響く。ヴァイオリンという楽器には魔力が潜んでいる。小さくとも、それは大量の楽器を引き連れ、遠慮なく聴衆の心に踏み込んでゆく。荒々しく、官能的に、悲しみをたたえて。
イラスト by 羽桜さん
このイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
もう誰も真耶がヴィオリストだということを意識していなかった。このストラディヴァリウスが誰に属するかも問題ではなかった。楽器は真耶に支配されている道具だった。音の魔法に引き込まれ、オーケストラですら彼女の音楽の世界に飲まれていた。真耶はただの容姿端麗な音楽家ではなかった。人びとの心を存在しない世界に引き込む魔女だった。瑠水は、自分がどこにいるかを忘れていた。ここは樋水ではなかった。しかし、瑠水を怖れさせる東京でもなかった。真耶がオーケストラを連れていくその先には、池の中で龍王が見せた虹色に光る黄金の王国があった。真耶の音楽には神域があったのである。
悲しみの旋律は、狂おしく激しくなり、燃え立つ。それは、目に見えぬ敵に戦いを挑む。焦燥感、苛立ち、そして絶望。しかし、その情念は全てを制し、狂ったように燃え上がり、自らに打ち勝つ。それでも消えぬ強い悲しみがビブラートとなって、むせび泣く。オーケストラが慰めるように長いリフレインを残して音を消し、真耶の弓が弦から離れると、しばしの静寂がホールを襲った。たった13分だった。そして割れんばかりの喝采、スタンディングオベーション。
瑠水は涙を流して、呆然と真耶を見ていた。拓人は笑った。
「やられたな。吉野のおっさんの顔を見ろよ。当分口を慎むだろうな」
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アニメ風にしていただきました!
![「詩曲」 by 羽桜さん](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/shikyoku_c2.png)
それでですね。なんと今回はカラーを四枚も描いてくださったのです。続けて表示すると表情が変わるようになっているんです。それで、JQuery使ってアニメ風に表示してみたのです。ちなみに、表示されている間にクリックすると、それぞれの大きいイラストが表示されるようにしてありますので、ぜひぜひ四枚とも大きくご覧になってくださいませ。
イラスト by 羽桜さん
この記事のイラストの著作権は羽桜さんにあります。羽桜さんの許可のない二次利用は固くお断りします。
それにしても、お願いする度にパワーアップして、新しいアイデアで素晴らしい挿絵にしてくださる羽桜さんの熱意には本当に感謝です。本当に本当にありがとうございます。
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【小説】北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』
糸と針で一つ。
あー、でも以前星恋詩を書いて下さった時のが凄く楽しかったので、あちらでもいいなあーーーー。
というわけで、お題の「糸と針」を、スカイさんの代表作『星恋詩』に絡めて書いてみました。前回のときのように二次創作ではなくて、オマージュして組み込んでみました。字数でいうと短いんですけれど、これ、氣にいっていただけるといいなあ。
北斗七星に願いをこめて - Homage to『星恋詩』
北斗七星のすぐ側の、さらさら天の川の音がさやかに聞こえる天のお宮に、三人のかわいいお姫さまが忙しく働いていました。天帝さまのお命じになった星の曼荼羅を秋の星祭りの宵までに美しくし上げるためでした。
一番年上のお姉様は、星の光をその糸紡ぎ機に織り込んで、銀色にキラキラと光る細い糸を作り出していました。真ん中のお姉様はその糸を張った織り機で、七色に光る曼荼羅をせっせと織っていました。そして妹姫はその曼荼羅を天の川のせせらぎに晒していました。すると、曼荼羅の地色が水のように透き通ってキラキラと輝くのでした。
「う~ん、そのおとぎ話はステキだけれど」
澄ちゃんは、なんともいえない声を出した。
澄ちゃんはそつのない子だ。学内テストの度に上から八位とか十一位とか絶妙の成績を残している。これが二位や三位だと先生に「クラス委員になれ」とか「○○さんの面倒を見てやってほしい」というように頼られたりするし、私の数学や家庭科みたいに下から数えた方が早いと、親が呼び出されたりしていろいろと面倒なのだ。
「ねえ。本当に、まっすぐ横に縫うだけでいいんだよ、麻衣ちゃん」
澄ちゃんの指摘通り、私の手元にある濃紺の布の縁取りは激しく曲がっている。自分でもわからない。どうしてこんなに不器用なんだろう。私の手元を見ながらてきぱきと縫っている澄ちゃんの手元の布の方は、家庭科の実習として提出したらさぞいい成績がもらえるだろう、ぴっちりとしたかがり縫いになっていた。
「いたっ」
私は、これで三度めに自分の指を針山にしてしまった衝撃に呻く。
「ちょっと、大丈夫、麻衣ちゃんったら」
全部澄ちゃんが縫ってくれたら、売っても大丈夫なくらい素敵な作品になる事は間違いない。でも、家庭科の作品ならまだしも(いや、それもダメだけど)、これだけは私は見ているだけってわけにはいかない。だって、私から星野君へのプレゼントなんだもの。
「アイデアは悪くないけれど、まさか麻衣ちゃんがここまで縫い物が苦手だとは夢にも思わなかったよ」
私が得意な、少なくとも澄ちゃんが感心してくれる程度には得意なイラストで、私は濃紺の絹の上に三人のお姫様とそれを見つめる星売りの姿を描いた。星売りは、とある(スカイさんっていう方だけれど)ブログで発表されている『星恋詩』という作品の主人公。星野君が教えてくれて以来、私も大ファンになってしまった作品だ。
今日は星野君のお誕生日。そして、秋の星祭り。だから、私はどうしても特別に心のこもった贈り物をしたかったのだ。無事に絵は描けたのだけれど、クッションにするためには縫わなくてはならない事に氣がついたのは昨日だった。頼れるのは澄ちゃんしかいなかった。放課後の教室で半泣きになりながら、慣れない針仕事をちくちくとする。澄ちゃんの名誉のために言っておくと、私の縫った分の五倍ちかくをプロのような美しさで仕上げてくれているのは澄ちゃんなのだ。
「絹ってね。昔、お侍さんが矢をよけるために使ったくらい丈夫な布なのよ。麻衣ちゃんが縫うにはちょっとハードルが高かったね」
澄ちゃん。正論だけれど、もうどうしようもないよぅ。
澄ちゃんは優しい。星野君も優しい。この二人がいなかったら、たぶん私の高校生活はかなり惨めになった事だろう。私は、いつも物語や絵の事を考えていてぼーっとしている。クラスには「どんくさい子」といって邪険にする人たちがいる。先生が「班を作ってください」というときも、「入れてください」といえなくてもじもじしてしまう。でも、澄ちゃんや星野君が氣付いてくれて呼んでくれる。女の子の澄ちゃんはともかく、星野君は男の子なので、私なんかに声をかけると他の子たちに「ひゅーひゅー」と言われてしまう。そのことで私がオロオロしていると、まったく歯牙にもかけずに「がはは」と笑った。
「星野君は競争率高いけど、麻衣ちゃんみたいにとことん頼りない子なら、かえってチャンスがあると思うよ」
澄ちゃんのいい方は身もふたもない。
べつに星野君の彼女にしてもらおうなんて大それた野望を持っているわけじゃない。ただ、伝えたいだけ。『星恋詩』いいよねって。いつもありがとうって。そして、お誕生日、おめでとうって。
クッションを入れて澄ちゃんがほぼ仕上げてくれた分と合わせて、閉じていく。
「いたっ」
「ちょっと、麻衣ちゃん、大丈夫?」
「うん、ごめんね、澄ちゃん。澄ちゃんも早く星祭りに行きたいよね」
澄ちゃんは首を振った。
「行くわけないでしょ。今夜はバルス祭りだからテレビの前で待機」
それからウィンクして声を顰めた。
「ほら、さっきからドアの陰で星野君が心配そうに見ているよ。さっさと糸止めして持っていきなよ」
ええっ。嘘っ。
「な、なんで星野君がここに?」
「麻衣ちゃんが私に頼んだときの声がでかすぎたのよ。星野君、耳ダンボだったもの。大体、待ち合わせもしないで、どうやって星祭りで渡すつもりだったのよ」
う……。確かに。
澄ちゃんは「じゃーね」と言って星野君の肩を叩いて出て行く。私は困って終わっていない運針を見た。こんなに曲がっているからやり直そうと思っていたんだけれど。あれ。北斗七星の形になってる。悪くないか。縫うの下手くそなのが私なんだから、これで許してもらおう。
「星野君。これ、お誕生日おめでとう」
クッションを手渡した。たぶん『星恋詩』の星売り以外は何がなんだかさっぱりわからないだろうな。星野君はちょっと笑った。
「ありがとう。糸と針がまだ刺さってる。これ、巨大な針山?」
私は真っ赤になって、糸を始末してはさみで切った。星野君は「おっ。星売りだあ」と嬉しそうに笑った。すぐにわかってくれたんだ。
それから、私たちは星祭りに行った。この世を彷徨っている星売りも、もしかしたら来ているかもしれないよ、そう星野君が言った。天のお宮の三人のお姫様が笑っている声が聞こえたような氣がした。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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ブログ更新頻度について
![エーデルワイス](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/P9070011s.jpg)
(本文とは関係ないですが、エーデルワイスです)
はじめこそはこんなに縮小して大丈夫? きっとみんなに忘れられてしまう、などと思ってましたが、結局毎日訪問してくださっている方の半分以上は縮小モードの私よりも更新頻度が少ない! なあ〜んだ。
それと、一つの記事あたりの拍手が増えたようです。つまり、これまでは弾丸のごとく記事を書き過ぎていて、読んで共感してくださる方がいるかもしれない記事もどんどん下へ送り過ぎていた?
実をいうと訪問数もほとんど変わっておらず、同じようにみなさんに構っていただけています。ということは、無理して前みたいに復帰する必要もないかなあと思いはじめています。
というわけで。この執筆期間が終了したら、もしくは執筆しつつ再開という形をとるとしたら、毎日更新はなくします。週に三回か四回の更新という形にしようと思っています。週に一度、火曜日か水曜日に小説を更新するのは確定です。いちおう、小説のブログなので。発表が詰まっている時には、週二回、つまり週末にもう一本公開する事もあります。その他に、その他の記事が週二回という感じですかね。
(って、いうか、今週は既に週二回モードじゃないし!)
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【小説】樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero (12)愛
![]() | このブログではじめからまとめて読む あらすじと登場人物 |
この作品は下記の作品の続編になっています。特殊な用語の説明などもここでしています。ご参考までに。
「樋水龍神縁起」本編 あらすじと登場人物
樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero
(12)愛
瑠水を抱いているのは拓人ではなかった。『水底の皇子様』でもなかった。
シンと私は肌と肌で触れたことはないのに、どうして私は彼の肌を思い出すんだろう。あのキスの先はなかったのに。あの時の私にとって、これは穢らわしいことだった。けれど、いま私がしていることは何だろう。他の人のことを想いながら、誰かに体をゆだねている。
なぜ二度目があったのか、瑠水には理解できなかった。一度で十分だろうに。
「フランス料理ばかり食べていると、たまには屋台の焼きそばが食べたくなるんじゃないの」
取り巻きの人も、何十人目かのガールフレンドも、それから真耶さんも、きっと呆れている。そんな不釣り合いな存在なのに、私はまったくありがたく思っていない。それどころか、私は結城さんに再び抱かれたことをこうして遠くから観るみたいに、どうでもよく思っている。私に飽きて放り出す前に、またピアノを弾いてほしい。もう一度。そうすれば、私はシンのところに帰って行ける。現実ではもう二度と逢えないシンに。
瑠水は真樹とのことを過去には出来なかった。拓人とのことも終わりに出来なかった。拓人に結婚を申し込まれた時に、あまりの驚きで何も言えなかった。拓人は言った。
「急いで返事はしないでくれ。君に時間が必要なのはわかっている。僕は氣長に待つつもりだから」
瑠水は拓人が遊んでいるのではないことを知り、罪悪感に悩まされた。この人の優しさに、どうやって応えたらいいんだろう。
拓人は、瑠水の心がここにないことに傷ついていた。数ヶ月前の拓人は女に心があるかどうかなんて考えたこともなかった。自分が一晩だけ愛して、あとは連絡先すら消してしまった女性たちが、どんな思いをするかなどということにも想像を向けたことがなかった。行為の最中に、別のデートのセッティングを考えたり、次のコンサートのテーマを考えたりしたこともあった。泣く女は苦手だった。せっかくの時間をどうして無駄にするのだろうと思った。だが、いま拓人は泣いた女たちの氣持ちがよくわかった。
瑠水は、誰かを深く憶っている。愛に囚われている。その牢獄は扉が開き、出て行くようにいわれているのに、自ら出て行くことを拒み、蹲っている。拓人はその牢獄から彼女を連れ出すことが簡単にできると思っていた。しかし、拓人が真剣になればなるほど、心を尽くせば尽くすほど、瑠水の心は深く牢獄の奥へと沈んで行く。その見えぬ男への嫉妬で拓人はどうにかなりそうだった。
瑠水のわずかな微笑みのために、一日中でもピアノを弾いてやりたいと思った。目が覚める前から、一日中、夜遅く夢を見始めるまで、常に瑠水のことでいっぱいになっている。階段の脇の大理石を見ると、レッスンで優しい音を奏でた瞬間に、花壇のストックの香りを感じるたびに、それどころか、水の入ったグラスに触れるだけで、想いは瑠水へと移っていく。真耶はこれが恋だと言った。ごく普通の、だれでもかかる麻疹みたいなものだと言った。だれもがこんな苦しい思いをするなんて信じられなかった。誰がこんなことに関わりたがるだろう。
「あの女のどこがそんなにいいの?」
嫉妬に駆られたナンバー208が言った。206だったかな? どうでもいい。
瑠水のどこがいいのか、自分でもわからない。最初はただの好奇心だった。畑が違って面白かったのかもしれない。だが、たぶん最初に嬉しかったのは、男としての自分ではなく、純粋に音楽に興味を示してくれたことだ。氣を引くためにピアノをほめてくれた女はいくらでもいる。だが瑠水は本当に僕の音楽が聴きたかったのだ。それが今の一番の問題になっている。
どうして音楽だけなんだ。
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中秋の名月
![中秋の名月](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/P9200005s.jpg)
19日は中秋の名月でした。満月で、しかもここ半月で珍しく夜に雲がかかっていない絶好のお月見日和でしたよ。スイスの人はお月見はしないし、中秋の名月だのウサギだのといっても通じません。だから何も言わずに一人でひっそりとお月見です。
で、写真にも撮ってみたのですよ。深夜と、それから翌朝西に沈む直前に。そう、愛機OLYMPUS SZ-31MRですよ。このブログでも何度か紹介して一人で感激しているんですけれど、この写真、ズームの手持ちで撮ったんです。「手持ち夜景モード」の威力を実感しました。ポケットに入るコンデジの手持ちでこんな写真が撮れるとは。あ、言っておきますがOLYMPUSからは一銭もいただいていません。検索で時々、いらっしゃる方がいるんですけれど、私はこの会社の関係者ではありません。他のカメラと比較してどうという事はできませんが、このカメラは今まで買った全てのデジカメで一番満足していますよ。
下の写真は、お供え用の月見団子ならぬ月見ホワイトチョコです。
![月見ホワイトチョコ](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/P9190021s.jpg)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 アペニンの麓にて - Featuring「プロフェッサー 華麗に登場」
丁度こちらの探偵もどきが イタリアを訪問中なので…
大道芸人たちの人物たちと酒場で会った とか 路上での演奏を見たとか 其の類でお願いします。
ウゾさんのブログの読者の方ならご存知、名探偵ハロルドとパスタを独自の調理法で茹でる優秀な弟子ワトスン君(本名不明)を中心にした大人氣シリーズ物のみなさんとのコラボをとのご指定です。
舞台に選んだのは、フィレンツェ郊外のプラトリーノ。死ぬまでに一度行ってみたい所に入っていたりします。
ウゾさんちのキャラで傍若無人に遊んじゃいましたが、魅力的な面々の本当の姿をご覧になりたい方は、ぜひウゾさんのブログへGO!
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ
![「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/B_AC.jpg)
![縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/B_Anex.jpg)
あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 アペニンの麓にて - Featuring「プロフェッサー 華麗に登場」
![アペニン像](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/Apenins.jpg)
「で、ここがなんだというのかね」
フィレンツェ郊外、バスに乗って数十分、終点プラトリーノで降りて五分ほど歩くと巨大な公園とおぼしき場所の入り口があった。
五人はその入り口に、後ろから入ってくる人が通れないくらいに広がったまま立ち尽くしていた。はじめに口をきいたのは、背が高く痩せて紫かがった青い瞳をした品のある青年だった。オーダーメードで作ったと一目で分かる質のいいグレーの背広をきちんと身に付けている。
「ここが、メディチ家の栄華、贅沢の極みを誇った、大公フランチェスコ一世が愛妾と暮らすために作ったヴィラ・デミドフ、またの名をプラトリーノのヴィラですよ」
そう答えたのは、やや個性的でカジュアルなチェックの背広を身に着けた緑の瞳の青年。
「でも、全然豪華には見えないんだけれど」
ふくよかと表現するのが妥当に思える女がサバサバした調子で言った。
「当時作られた驚異のほとんどが十九世紀までに取り壊されてしまって、なんてことのない英国風庭園ばかりが残っているのですよ。かつてはいくつものグロット、技術のかぎりを尽くした水仕掛け、豪華な建物がありましてね。大変な造営費用がかかったのですよ。父親のコジモ一世が威信をかけて作ったウフィツィ宮殿の二倍の増築費用がかかったんですからね。しかも、政治にはほとんど興味がなくここで呆けたまま死んだというのですから、無駄に金だけを持っている君にふさわしい場所じゃありませんか、アルフレド君」
アルフレドと呼ばれた灰色背広の青年は、チェック柄背広の青年の慇懃無礼、というよりはまったくもって無礼な態度に腹を立てている様子もなく、むしろ氣にいっている様子だった。
「グロテスクの極み、悪趣味な仕掛け、それを考えるとハロルド君、君にもぴったりだと思うよ」
アルフレドは、ハロルド青年に痛烈に応酬した。誰もハラハラした様子をしていない所を見ると、この手の会話は彼らの日常のようだった。
アルフレドの隣にすっと立っていた妙齢で薄い水色の瞳の女性が話の流れを全く無視して言った。
「お兄様。あちらに巨大な石像が見えますわ」
「ああ、あれが有名なアペニン像だろう。アペニン山脈の寓意だ」
「その通り。そして、その手前にあるのが、ワトスン君、君の大好きな池だよ。昔は釣り用と食用の魚がたくさん飼われていたそうだ。つまり、ここは君にもふさわしい所なのだよ」
ハロルドは、小柄で「I love fishing」と書かれたジャケットを来ているもう一人の青年にニヤリと笑いかけながら言った。わざわざ「昔は」と言っている所を見ると、どうやら現在は魚釣りができない事を知っていてわざと言及したフシがあった。
「あ、食べ物のいい匂いがするよ。あ、あそこにテントがいっぱい! 食べ物があるなら、ここは私にもぴったりって事よね! ゾーラ、いこう」
ふくよかな女性が、てきぱきと走り出した。アルフレドの妹ゾーラは笑って、「待って、アリア」と、その女性の後を優雅に追った。
かつて、メディチ家の栄華を誇り、大公が愛妾とこの世のもう一つの楽園を楽しもうとした広大な空間は、公園としてわずかな入場料で一般市民に公開されていた。テントの下でソーセージやらピッツァやら、ギトギトのフライドポテト、それに何で色を付けているのかわからないような毒々しいジェラートが提供され、タンクトップ姿の小太りの女性や、こんなところでいちゃいちゃしなくてもいいだろうというようなカップル、躾のされていない犬、それにビールで心地よくなりカンツォーネを歌う迷惑な親爺などがゴロゴロする、かなり格調低い空間となっていた。
アペニン像は、十一メートルもある多孔質の石灰岩でできている。怪物を押さえ込んだ老人のような巨像であるが、中は三層に別れたグロットとなっている。遠くからでもよく見えるが近寄ると、その大きさに驚く。売店のテントやそこでくつろぐ人びとがとても小さく見える。
夏はそろそろ終わり朝晩は冷え込む季節だが、日中の陽射しは強く、アペニン像の前の池とその水音は心地よかった。アリアは売店で、食べ物を買うのに夢中になっていたが、同行の四人は水音に混じって聞こえてきた音楽の方に目をやった。
そこだけは若干の人だかりができていた。そこにいたのは四人組の大道芸人で、灰色のドウランと服装でアペニン像のごとく装い緑色の蔦の髪飾りをつけていた。一人はギターをつま弾き、二人はフルートを手にしていた。奏でているのは、ヴィヴァルディのマンドリンコンチェルト。そして真ん中にいる眼鏡をかけた青年がそれに合わせて目にも停まらぬ早さで、次々花やリングやカードを取り出していく。
かつてこのヴィラ・デミドフには水オルガンがあったという。遠くアペニン山脈より引かれた水で、水の不足がちなこの土地に精巧な仕掛けの機械が自動で動いていた。水が溢れ、人びとを驚かせ、歓声を上げさせた。女たちの嬌声が響き、男たちはそれに心を躍らせた事だろう。長い中世を、キリスト教的節制のもと過ごした後に、突如として花ひらいたルネサンス。酒に酔い、人体の美しさに目覚め、遊び楽しんだ徒花の時だった。水音はアペニン山脈からの涼しい風を運んだ事だろう。
メディチ家の栄華はもはや遠い昔の歴史になってしまっている。今では、数ユーロの入場料を払って、カップルたちが寝そべりながら、家族が犬と戯れながら、あるいはジェラートやポテトを頬張りながら、大道芸人たちの奏でるバロック音楽と、めまぐるしく展開される手品を楽しんでいる。
しばらくすると、芸人たちは演技と演奏を止めて、別々のポーズで一カ所に固まって動きを止めた。そうするとそれがまるでもう一つの石像で、ルネサンス時代からの時の流れで蔦が生えてしまったかのような錯覚を呼び起こした。石像のパントマイムそのものもれっきとした大道芸なのだが、静かになり、動かなくなると、それはそれで氣になるものだ。水音が単調に響くのが堪え難くなり、人びとはコインを投げ入れだす。そうすると、彼らは少し動く。別の人間が2ユーロコインを投げ込むと、手品をしていた男の所にポンポンっと立て続けに花が咲いた。別の人間が5ユーロ札をそっと置くと、今度は女がフルートを奏でだす。それを繰り返して、四人はどんどんと稼いでいった。
「いやあ、『銀の時計仕掛け人形』いや、今回は『灰色の彫像』か。とにかく、この芸は本当に実入りがいいよな」
一時間後に、集まった金を回収して、専用財布にきちんと収めてから稔が言った。
「それに、ここに来てよかったわよね。街角と違って他に観光するものもあまりないから、観客が集中してくれて」
蝶子は灰色に塗られた顔のままニッコリと笑った。
「ワインを買ってくるか」
ヴィルが現実的な提案をすると、四人はあっという間にそれぞれのテントへと分散して、ワインやビールの他につまみになりそうなものを入手してきた。アペニン像の前で、それに似た灰色の彫像のような妙な集団が酒盛りをしているのは、それはそれでシュールな光景だったので、新しくやってきた観光客たちは物珍しそうに写真を撮った。
「あの~」
ピッツァを手にしたままアリアが近づいてくる。
「楽しそうなんだけれど、ピクニックに混ぜてくれない?」
意外な申し出に四人は顔を見合わせたが、特に断る理由もないので「どうぞ」と一人分の場所を作った。するとアリアは手を降りながら、離れた所でアペニン像を見ている(ワトスン君だけは池の中の方に興味がありそうだったが)仲間たちに叫んだ。
「お~い、ゾーラ、みんな、こっち! ここで食べよう」
「アリアったら、いつの間にピクニックに参加しているの?」
ゾーラが呆れたような声を出すと、その麗しい姿を見てレネの顔はぱっと明るくなった。
「では、ワトスン君、悪いが我々のピクニックの食料品を調達してきてくれたまえ」
ハロルドが言うと、池に未練たっぷりの一瞥をくれてからワトスン君がテントへと向かった。Artistas callejerosは、その間に場所を作って五人が座れるようにした。
それを見ていた他の観光客たちも、それぞれのワインやジェラートを持って次々とこの謎の集団の周りにやってきては座って、一緒に飲みだした。
それは壮大なピクニックとなった。先ほどまでただその場にいるだけで何の関わりもなかった同士が、プラスチックのカップに入ったワインで乾杯する。それからいつの間にか、カンツォーネを歌いだす者がいると、それに合わせて別の人間が歌いだす。Artistas callejerosも笑って、時どき伴奏をつけてやる。
レネはゾーラと話をしようと隣に座りたがるのだが、何故かアリアにどっかりと横に座られて話しかけられている。その間にゾーラは蝶子とヴィルに話しかけてフルートの話で盛り上がっている。
ハロルドとアルフレドは相も変わらず言葉の応酬を繰り返しながらも楽しそうにワインを飲んでいる。そしてワトスン君は稔と魚のことについて楽しそうに話していた。(ただし、ワトスン君は釣り、稔は皿の中の話をしていたが)
アペニン像は、大公フランチェスコがいたメディチ家全盛時代から、一度も見たことのない奇妙な大宴会を目にして、それが氣にいったのかほんの少し微笑んだようだった。それとも、それは秋の陽射しが池に反射してみせた眼の錯覚なのかもしれない。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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食器の話
![白い食器](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/P8250039s.jpg)
我が家には白い食器が多いのです。これは偶然でもなければ、私が白という清冽な色が好きなどという理由でもありません。実は、スイスで暮らしはじめた時にかなり貧乏だったからです。
スイスという国は、きちんと雇用されていると比較的たくさんのお給料がもらえる国です。もちろん、比較的ですが。けれど私の連れ合いのように自営で、しかも氣ままに生きているタイプだと本当に宵越しのお金もないのです。で、当時は私も仕事が見つかっていなかったので、切れ切れに掃除の仕事をしたりして入ってくる収入は本当にわずかで、切り詰めた生活をしていました。まあ、ゲームみたいに面白がっていたんですが。
で、食器を新品で揃えるなんてとんでもなく、セカンドハンドのお店(人びとがタダで置いていったものを格安で売ってチャリティにするお店)で揃えたのですよ。で、そこに出される食器というのはたいてい枚数などが半端できちんと揃わなかったりするのです。私たちは二人暮らしですし、全ての食器が6枚揃わなくてもいいのですが、やっぱり頻繁にお客さんが来てコース料理を出したりするので、バラバラな感じは嫌なんですよね。
それで購入する食器は白か透明のものだけと決めたのです。そうすると形が少し違っていてもテーブルに並べた時にそんなに違和感がなくなるのです。
頂き物のボウルや、マグカップやエスプレッソカップなどは、それぞれ色が入っていたりするのですが、基本的な食器が白いときれいにマッチしますし、追加購入する時などに、白だけと決めていると選びやすいのです。だから、食器ならそんなに高価なものでなければ新品を買えるようになった今でも、同じルールを頑に守っているというわけです。
写真の手前二つはスイスで購入したものですが、奥のポットは日本から持ってきたものです。実は私は東京でもちょっと有名な「おしゃれな雑貨の多い街」で育ちました。駅から自宅までのたった七分の道のりにものすごくたくさんの可愛い雑貨が物欲を刺激してくれたものですが、当時はその雑貨にふさわしくないごちゃごちゃした住まいでした。
で、この小じゃれたポットは、白かったという理由で選ばれて、スイスまでやってきて、広い空間でのしゃれたティータイムに使われる事となったわけです。
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【小説】夜のサーカスと紺碧の空
今回は、褐色の逆立ち男ブルーノに関する件です。大して話が進むわけではないのですが、まあ、チルクス・ノッテの仲間同士の関わり方がわかるかもしれませんね。次回以降は、最終回まで毎回話がどんどん進むようになります。なんて、毎月言っているような……
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![夜のサーカスと紺碧の空](https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/BlueSkys.jpg)
夜のサーカスと紺碧の空
晴天が続いていた。巷では誰一人まともに仕事をするつもりのない八月。夏休みに浮かれたイタリア上空を太陽の馬車が勤勉に移動していく。「人びとの休みは我等が繁忙期」こういうときだけはまともな経営者らしい発言をするロマーノに大きく反論する団員はいなかった。
実をいうと契約上チルクス・ノッテには一ヶ月の有給休暇があった。次の興行のプランの発表される前に申請すればいいことになっていた。実際に双子は毎年夏に二週間とクリスマスに二週間、一週間ずつずらして休んだし、ダリオは時々一週間ほどいなくなった。ちゃっかりもののマッテオに至っては、入団したてにも関わらずすでに九月の一週から休暇を申請していた。
ステラもそろそろ夏休みのことを考えようと周りを見回したが、ステラの知るかぎり絶対に有給休暇を申請しないメンバーが幾人もいた。団長ロマーノ本人、帰るあてのないブルーノとヨナタン、シチリアで離婚した妻といざこざがあって以来二度と帰らなくなったと噂のルイージ、それに家族がおらずライオンの世話を誰かに頼むのが嫌なマッダレーナだった。演目変更以来、ヨナタンとマッダレーナが親しくなっていくのが心配で、ステラは結局二週間の休暇の申請をしかねていた。
ダリオが休暇な上、移動で夕方の興行がないその日、昼の興行が終わったら街の食堂に行こうと言い出したのは確かブルーノのはずだった。ところが皆が私服に着替えて、さらに舞台点検を終えたヨナタンが出てくるまで待っても集合場所にブルーノは来なかった。
ヨナタン、マッダレーナ、マッテオ、マルコ、ルイージ、そしてステラの六人は、しばらく待っていたが、しびれを切らしたマルコがちょっと見に行った。そして、大テントを覗くとすぐに戻ってきた。
「ポールだ。待ってもしかたないよ」
すると、マッダレーナとヨナタン、そしてルイージはあっさりと動き出した。
「おい。少し待ったら」
マッテオが、ちょうどステラが言いたかったことを代弁した。マルコがその二人を追い越しながら言った。
「当分降りてこないよ。待っていたら、僕らが喰いっぱぐれてしまう」
ブルーノがなぜポールの上に登るのか、ステラはようやくわかりはじめてきたところだった。前回マッテオがその理由をマルコたちに問いただし、あけすけにステラに語ってくれたからだった。ブルーノは団長の夜伽をさせられているというのだ。そして、その後にはいつもポールの上に登ってしばらく降りてこない。高いポールの上から遠くここではないどこかをじっと見つめているというのだった。
団長が、妻であるジュリアがいるのにも関わらず、どうしてブルーノとそんなことをしなくてはいけないのか、ステラには納得がいかなかった。それにブルーノは男なのだ。
「つまり男色ってことだよ。そういえば、あいつ、最初のころ僕にも言い寄ってきたぜ。触るなセクハラ親父って一喝したら、笑っていたから冗談だと思っていたけれど」
ステラは思い出した。いつだったかマッダレーナが言っていた。
「ヨナタンがいまだに団長にオカマ掘られていないのも、その手の験かつぎの結果だしね」
ということは、ヨナタンはそういう目には遭っていないんだろうけれど。みんなはよく知っているんだ。ブルーノが、違法入国して他に行くところがないのをわかっていて、団長が嫌なことを強制しているんだって。ステラは憤慨した。
「ステラ、何か怖い顔しているけれど、ラビオリ、冷めちゃうよ」
隣に座ったマルコが指摘した。ステラが我に返ると、反対側の隣に座っているヨナタンが黙ってパルメザン・チーズの入れ物を差し出していた。
「いただきます」
そう言って、他のメンバーはラビオリを食べだした。
「何か言いたそうね」
ワインを飲みながら、マッダレーナがフォークを振り回した。
「ねぇ、談判しましょう!」
ステラはがたっと立ち上がって、仲間を見回した。
「何を?」
「ブルーノのことよ。ブルーノは立場が弱くて、嫌って言えないんでしょう。私たち仲間で団結して、団長にやめてください、かわいそうでしょうって言うのよ」
マッダレーナはクスッと笑った。マルコとルイージは何も言わずにそのままラビオリを食べ続けた。
「僕は、ステラの意見に賛成だな。なんていうのか、労働組合的な一致団結って悪いことじゃないと思うし」
そう言ったのはマッテオだった。潜在的な次のターゲットとしては他人事ではない。
ヨナタンは、ヨナタンは優しいから、賛同してくれるわよね。そう思ってステラは横を見た。ヨナタンは静かに言った。
「ステラ。ラビオリが冷めるから、早く食べなさい」
どうして? ステラは泣きたくなった。
食事が終わると、なんとなく白けたまま、全員がテントに戻っていった。ブルーノはまだポールの上にいるらしい。何もできないことに不甲斐なさを感じて、それにヨナタンが賛同してくれなかったことが悲しくて、ステラはそっと裏山を登っていった。
そこはこの興行がはじまってすぐにステラの見つけた場所で、一面に花の咲く草原の傍らに静かに涼をとれる木立があった。ステラは地面に座ってしばらく草原を眺めていた。明るくて輝かしい夏だった。真っ青な空が広がっている。世界が曇りのない明るさを見せつける。ステラは世の中の不公平について考えた。
アフリカで何があったのか知らなかったが、ブルーノは幸せを求めてここに来たはずだ。そして、一生懸命働いている。どこか外国で何があったのかわからないが、ヨナタンもここに流れ着いた。やっぱり一生懸命働いている。性格は違うけれど二人とも邪悪ではなくていい人だと思う。でも、苦しむときはそれぞれで、問題をオープンにして、協力しあっていこうとしない。ヨナタンはあんなに優しいのに人には一切関わろうとしない。大好きでも仲間以上の近さに寄って行くことができない。どうしてなんだろう。私には何もできないのかなあ。
かさっと音がして、ステラの近くに影が落ちた。ステラははっとして顔を上げた。立っていたのはルイージだった。ステラは急いで涙をぬぐった。
「ステラ。一緒していいかい」
ルイージが言った。ほとんど口を利いたことのないルイージが、わざわざ話しにきてくれたことに驚きながら、ステラはこくんと頷いた。
「さっきの話?」
「そうさな。お前さんは、納得できていないようだったし、他の連中は説明が苦手みたいだから」
「説明?」
ルイージは黙って頷くと、ステラの斜め前にある大きな岩に腰掛けた。ルイージも、人と関わるのが苦手なほうだった。だから、それぞれのことには無理して踏み入らないチルクス・ノッテの団員たちの態度をありがたく思ってきた。けれど、彼は良く知っている。その仲間たちの態度は冷たいのではない。本当に助けが必要な時、例えばルイージが何度か起こしてしまった「無花果のジャムがなくなった」事件の時に、仲間たちは一致団結して走ってくれるのだった。ルイージは忘れていなかった。最後の「無花果ジャム騒ぎ」で、入団したてのステラがどれほど骨を折ってくれたか。
「お前さんは、本当にいい子だ。ブルーノは時にお前さんに辛辣な事を言ったりするが、それを根に持ったりせずに、ひたすら彼のためを思って何かをしてあげたいと思っているんだろう?」
ルイージの静かな語りはステラの高ぶった心を落ち着かせていった。
「なあ、ステラ。お前さんはようやく17歳になったところだ。まだ、ボーイフレンドと長くつき合ったりしたこともないんだろう?」
ステラは黙って首を振った。学校にいた頃、同級生は次々とボーイフレンドができたと話をしてくれたが、ステラはヨナタン以外の人とつき合うなどということを考えたこともなかった。ルイージは笑って続けた。
「学校で習ったかもしれないけれど、全ての動物には子孫を残そうって本能がある。そして、それは時には頭で思っていることとは違う形で人間を支配してしまうことがあるんだよ。お前さんが、そしてわしが、誰かを愛している、大切にしたいっていう想いとは全く別の次元で」
ステラは少し不安になって、言っている事を理解しようと、その顔を見上げた。ルイージは彼女が理解できているか確認しながら、心配するなといいだけに頷いて続けた。
「その本能は、たぶん女よりも男のほうに強くて、その人をもっと支配してしまうじゃないかと、わしは思うんだよ」
「それは、その……」
「お前さんには好きな人がいるだろう?」
ステラは大きく頷いた。ルイージだって知っているはずなのだ。ステラがヨナタンに夢中なことは。
「もしお前さんの心から好きな人が、その本能に支配されて、お前さんがしてほしくない嫌な事をしたらどう思うかい」
ステラはとても驚いた。そして、ゆっくりと確かめるように言葉を選んだ。
「それは、つまり、ヨナタンが、変なことをしたがるってこと?」
ルイージは眼を丸くして、それから笑った。
「違う、違う。そういう話ではないんだよ。わしが言いたいのは。ヨナタンの話じゃない。ヨナタンにどんな性的嗜好があるかなんてわしにどうしてわかるかね。これは一般論だ」
ステラは少しだけ安堵したが、まだ話の主旨がつかめていなかった。
「う~ん。わからない。でも、どうしても嫌なら、嫌って言うかな。でも、それで嫌われるのはつらいな」
「そうだろう。どんなに好きな人にでも、されたくないことがあって、そのことで思い悩んでしまうことはあるんだ。そしてね、ステラ。まだ若い君にはわからないかもしれないけれど、その反対もあるんだよ。それで悩んでしまうこともあるんだ」
ステラはルイージの言っていることを理解しようとした。「好きな人に嫌なことをされる」の反対ってことは「好きじゃない人に嫌でないことをされる」ってこと? え?
「もし、ブルーノが本当に嫌だと助けを求めてきたら、ヨナタンもマッダレーナもみんな一致団結して協力するに違いないよ。だけれども、それまではわしらがどうこうすることじゃないんだ。わかるかい? どうしたいか、まずブルーノが知らなくちゃいけない。だからああやってポールの上で考えているんだ。わしらは待つしかないんだよ」
そういうと、ルイージは放心したように考えるステラをその場に残してまたテント場へと戻っていった。
ステラは大人の世界にはまだ自分の知らない秘密があるのだと思った。嬉しいことと嫌なことが同じであるかもしれない奇妙な世界。ヨナタンも、その大人の世界に属していて、ルイージと同じように考えていたから賛成しなかったんだろう。少し遠く感じた。それでも彼を好きであることは変わらないと思った。雲ひとつない青空のように明らかなことだった。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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【小説】大道芸人たち 番外編 〜 Andiamo! — featuring「誓約の地」
最後にお借りして登場していただいたのは、修平さまです。最初の回でお借りした杏子姐さんが惚れるくらいですからいい男に決まっています。で、こちらが最後までとっておいたのは、蝶子です。今回はカルちゃんは出番がなくなってしまいました。もっとも、この後、カルちゃん+Artistas callejeros+「誓約の地メンバーズ」がどこかで大集合する事になっています(たぶん)ので、修平さんもいずれはカルちゃんと知り合える事でしょう。
「Andiamo!」(行きましょう!)は、だらだらとフィレンツェにお借りした四人を足止めし、いつまでも遊んでいるArtistas callejerosが、「楽しかったね、じゃ、そろそろお開きにして出かけようか」というつもりでつけました。ついでにプラトリーノでArtistas callejerosはウゾさんちのキャラと宴会したりと好き勝手やっていましたが、そろそろ真面目に大道芸の旅に戻るようです。これほど長くおつき合いくださった読者の皆様、そして大事な大事なキャラをどーんとまとめて四人貸してくださいましたYUKAさん、ありがとうございました。
前回までの話とは独立していますが、一応シリーズへのリンクをここに載せておきます。
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 熟れた時の果実 — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Vivo per lei — featuring「誓約の地」』
『大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 薔薇の香る庭 — featuring「誓約の地」』
【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は2012年に当ブログで連載していた長編小説です。興味のある方は下のリンクからどうぞ
![「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/B_AC.jpg)
![縦書きPDF置き場「scribo ergo sum anex」へ行く](https://blog-imgs-56-origin.fc2.com/y/a/o/yaotomeyu/B_Anex.jpg)
あらすじと登場人物
大道芸人たち Artistas callejeros 番外編 〜 Andiamo!
— featuring「誓約の地」
「たまげるな」
赤茶けたタイルはコトーンと乾いた音をさせた。朝一番の予約で入ったのでほとんど誰もいないその部屋に青年は佇んでいた。中学一年生の時に美術の教科書で見た絵が目の前にある。思っていたよりもずっと大きい。あまりに大きいので、後ろに下がって見なくてはならない。巨大なあこや貝の上に乗って豊かな金髪で体の前面を隠している。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』。美術に興味があろうとなかろうと、題名と作者がすぐに浮かんでくるだろう名画中の名画だ。そして、その立ち位置で顔を右に向けると『春』があるのだ。
日本だったら、一つで美術館がひとつ建つレベルのお宝が、ここでは一つの部屋にいくつも押し込められている。そして、これはかつて彼が留学していたアメリカのいくつかの大きな美術館で目にした名画のように、財力にものを言わせて遠くから購入して集めて来たものではなく、これを描いた巨匠が、これを注文したメディチ家の主が生きて歩いたフィレンツェの当時の面影を残す建物の中にあるのだ。「ウフィツィ」。それは「事務所」を意味する。ルネサンスのこの巨大な建物は、実際にオフィスだったのだ。
「スケールが違う」
そう言って、もう一歩下がったところで、彼は誰かとぶつかった。
「うわっ、失敬」
思わず日本語で叫んでから、その東洋人の女の顔を見て、あわてて英語で謝った。
「Excuse me!」
女はちらっと白けた顔をして答えた。
「大丈夫です。日本語でも」
「え。日本人でしたか、重ね重ね失敬」
とっさに絶対に大陸の女性だと思ってしまったのは、その顔のせいだった。目がね、つり上がっているし。青年は短い髪をカリカリとかいた。
「早起きですね。宿題は朝の涼しいうちに、なんちゃって」
話題を変えるべく、そう青年が言うと、女性はニッコリと笑った。
「懐かしい事を言うのね。そうよ。混んで来たり、歩き疲れる前にここに来たかったの。あなたも?」
「ああ、ウフィツィ美術館は時間がかかるって仲間たちが言っていたから」
「お仲間たちは?」
「もう二度も見たからって、三人とも別のところに行った。自由行動日なんだ」
「へえ、私と一緒ね。良かったらこの先も一緒に観る?」
「お、よろしく。俺、石野修平っていうんだ」
「はじめまして。四条蝶子よ」
蝶子は大都市に行く度に必ず美術館を見て回るようになっていた。フィレンツェに来たのは初めてではないが、前回はパラティーナ美術館に行ったので、このウフィツィ美術館がお預けになってしまった。フィレンツェがすごいのは、このように必見の美術館が一つではないところだ。
ちらりと隣を歩く青年を見た。黒いジーンズに落ち着いたグレーのシャツというさりげない服装だが、よく見るとどちらもイタリアのディーゼルのデザインものだ。背が高い。普段一緒にいるゲルマン人や、ひょろひょろしているフランス人の背が高いのは当然だと思っていたが、ここにいる青年も日本人にしてはずいぶん長身だ。堂々として姿勢のいい歩き方や流暢な英語も日本人離れしていたのでハーフだろうかと思ったが、非常に整ってはいるものの外国人の血が混じっている顔には見えなかった。
「うわ、ここにもあった」
修平がフィリッポ・リッピの『聖母子と二天使』をみてぎょっとして言った。
「何が?」
「いや、なんていうのかな、犬も歩けば名画にあたる状態? 尋常じゃない美術館だ」
蝶子はくすくすと笑った。
「言い得て妙ね。しかも、こんなに空いているなんて日本じゃ考えられないわよね」
「ああ、これの一つでも来たら、それだけで長蛇の列。『立ち止まらないでください』と係員が声をからす状態になる事請け合いだよな」
それから、ふと思いついたように言った。
「でも、君はそういうところには行かないんじゃないか?」
「なぜそう思うの?」
「う~ん、勘。群れるのとか、大人しく行列で待つのとか、嫌がりそうに見える」
蝶子はケラケラと笑った。
「あたり。日本にいた時は、そんな時間もあまりなかったし」
「今は日本にいないのか?」
「ええ。こっちにいるの。あなたは旅行?」
「まあね」
蝶子は何か事情があるのね、とでも言いたげに曖昧に笑って、その話題からすっと離れた。それがあまりにも自然だったので、かえって修平はおやと思った。
「訊かないわけ?」
「言いたければ、自分で言うでしょう?」
あまりに広いので、全て観るのはあきらめて二人は出口に向かった。蝶子はいつもの習慣でハガキを買う。やっぱり『ヴィーナスの誕生』かしら。
「あれ、チェーザレ・ボルジアの肖像なんてあったんだ」
修平がコレクションの一枚をポンと指で叩いた。
「観たかったの?」
「いや、どうしてもこの絵が観たかったわけじゃないさ。よく考えたら、この場所にも彼が立っていたのかもしれないよな。そう考えるとすごいところだ」
シニョリーア広場の方へと歩きながら、二人はチェーザレとルクレツィア兄妹の事を話した。
「父親と兄に政治利用されて、右へ左へと嫁がされた悲劇のヒロインっていうけれど、こっそり好きになった人の子供を産んだり、慈善事業をおこしたり、ちゃんと意志もあった女性なんじゃないかしら」
「俺も、そう思う。時代の制約はあったにしろ自分の人生を精一杯生きたんだろうな。チェーザレもそうかも」
「彼は、評価のわかれる人よね」
「ああ。極悪人とも言われているし、稀代の政治家とも言われている。軍人になりたかったのに、父親に言われるままに枢機卿となった、父親に政治利用されたっていうけれど」
修平はちょっと考え込んだ。
「俺さ、むしろチェーザレは父親の駒である事に反発してのし上がろうとしたんじゃないかと思うんだ」
「どうして?」
「父親の言いなりな人間が冷徹にライバルを消すような判断力は持たないと思うからさ。彼は、教皇の息子としてじゃなくて自分自身の力を、このフィレンツェで試したかったんだと思う」
そう言って、周りにそびえる華麗な建物の数々を見上げた。
蝶子は微笑んだ。前向きで力強い人だ。この口調からすると誰かの言いなりになるまいと、プレッシャーをはねのけて生きてきたのだろう。本当に欲しい物を手に入れるために、全力を尽くしたにちがいない。蝶子はフルートのために戦った自分の人生と重ねあわせて、この青年に対して共感した。
フィレンツェ。明るくて力を感じさせる街だ。大聖堂の華やかで美しいシェイプ。大きくて高い建物。色鮮やかに飾られていながら調和した街並。エネルギーあふれる人びと。笑顔と歌。おいしい酒にたっぷりの料理。全てが朗らかでありつつ上品で、しかも力強かった。同じ道を歩きながら修平も同じ事を感じたのだろう、こう付け加えた。
「ここは、そんな氣にさせる街だよ。華やかで野心を呼び起こす。俺もやってやるって、心が奮い立つ」
「じゃあ、あなたも、親に反発してのし上がるの?」
修平はウィンクして答えた。
「もうとっくにしたよ。君は?」
蝶子はウィンクを返した。
「ずいぶん昔にね」
二人は声を上げて笑った。
シニョリーア広場の近くには、小さいが個性的な品揃えのセレクトショップがいくつもあった。蝶子はいつものように眼を輝かせたが、男性なのにその手のショップを嫌がらない修平を意外に思った。ヴィルはいつも露骨に嫌な顔をしたし、稔は蝶子がショッピングをはじめると逃げだした。レネですらしばらくつき合うと、ちょっと本屋に行ってきますと言い出すのだ。
「珍しいわね。こういう店、好きなの?」
「うん? ああ、職業的関心だよ。さすがなんだよなあ。この一点ものっぽいバッグ、斬新なんだけれど奇抜にはならないギリギリの線を守っている。それでいて、2ウェイで使える利便性も備えている。値段も手頃だ。ヨーロッパは保守的な面もあるけれど、こういうデザインに関しては本当にいいよ」
「そう言われて見ているうちに、本当に欲しくなってきちゃったわ。どうしてくれるのよ」
「あん? じゃあ、こっちの方はショルダーになるサイズで手頃だな。これにすれば?」
蝶子は修平をひと睨みすると、黙ってそのバッグを店の女性に渡して購入した。それだけでなく、今まで持っていたバックから中身を取り出して、新しいバックに入れ替えると、古いバックを処分してくれと店の女性に頼んでいた。
「え? なんで処分しちゃうの?」
さっさと店の外に出た蝶子を追いながら修平が慌てて訊くと、彼女は青いビロードの箱を新しいバッグにしまいながら答えた。
「私たち、持っていける荷物に限りがあるの。新しく何かを買ったら古い物は処分するの」
「私たち? 何の団体?」
「大道芸人よ」
修平は白い目をして言った。
「嘘つけ。そんなにしゃれた格好をした大道芸人がいるか」
蝶子は、彼がいつも行動を共にしている二人の女性と対抗できる小じゃれた様相だった。白とオレンジのシャープな幾何学模様のワンピースと白いパンプス。どう考えてもいいところのお嬢様か裕福な有閑マダムだ。
蝶子はシニョリーア広場にネプチューン像の側で写真を撮るたくさんの観光客を目にするとにやっと笑った。
「じゃあ、見ていて」
バッグから先ほどの青い箱を取り出すと、中から現れたフルートを組立てると箱を自分の前にそっと置いた。そして、大きく息を吸い込むと、澄んだ音色を響かせた。とても速くて軽快な曲で、周りにいた観光客たちが思わず振り向いた。ゴセックの『タンブーラン』。そんなに長い曲ではないのに、あっという間に人びとが寄ってきて、彼女が吹き終えてフルートを口から離すと、拍手がおこり、コインが投げ込まれた。蝶子は優雅な動きで箱を捧げ持つと、思わず引き込まれるような魅力的な笑顔で、ギャラリーの前をひと回りした。観客たち、特に男性は迷わず手持ちのコインやユーロ札をフルートの箱に入れていった。
そして、蝶子はその営業用スマイルのまま修平の前にぴたっと立って箱を差し出した。慌ててポケットを探ってコインを探る彼を見て声を立てて笑った。
「違うわよ。ちょっと持っていてって意味」
修平がその箱を持ち支えると、彼女は箱から中身を出して財布にしまい、フルートをテキパキ畳んで箱に収め、新しいバッグに投げ入れて言った。
「バッグの値段の四分の一は稼げたかしら。さ、お茶にしましょう」
修平は、一瞬ぽかんとしていたが、破顔して高らかに笑うと言った。
「了解。昨日見つけた劇的に美味いカフェに行こう。君、氣にいったよ。大道芸人のお仲間たちにもぜひ逢いたいな。俺の仲間たちにも引き合わせたいから、その話もしよう」
「いいわよ。私たち今晩、美味しいレストランに行く予定なの。よかったらそこに行かない?」
二人は、まだ蝶子の次の演奏を待っている観客たちを残して、シニョリーア広場から出て行った。太陽はフィレンツェの真上には来ていなかった。古都を楽しむ旅の休日は、まだ楽しく続きそうだった。
(初出:2013年9月 書き下ろし)
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