scribo ergo sum
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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012

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Posted by 八少女 夕

多民族のひしめく所

現在連載中の「郷愁の丘」。いただくコメントを読んでいて「あれ、やはりアフリカは日本から遠い?」と思う事がしばしばあります。中でも現地の人たちに関する記述で、「あ、これは全く馴染みのない事なのか」と氣づかされる事が多いです。

市場の女たち

「郷愁の丘」の舞台はケニアですが、実を言うと私のケニア、タンザニア、ジンバブエ、南アフリカ共和国で経験した事とその現地に住んでいる人たちと話していて感じた事を混ぜて記述しています。だから正確にはケニアだけの話じゃないのです。

だだ、ケニアと南アフリカが同じであるわけはありません。地理も歴史も文化背景も違います。

私が「郷愁の丘」で書こうとしているのは、アフリカの現状に関する問題提起ではないですし、歴史や文化の紹介でもないのです。その一方で、あの地を舞台にしたのならば、避けて通れない記述もあります。日本で「ケニア十日間の旅」などと聞いたときにイメージするのは、おそらくライオンやゾウなどの野生動物だと思うのですが、それだけではないのですよね。

ケニアは多民族国家です。「白人」と「黒人」という分け方は乱暴すぎます。が、どこまで分ければ適当であるかと考えると悩ましいところです。

いわゆる黒人で一番人数が多いのはキクユ族。テレビでおなじみでよく知られているのはマサイ族ですが、彼らは少数派で、その他に何十もの部族があります。言葉も生活様式も文化宗教もさまざまです。

白人といっても、植民地時代からいるケニア生まれケニア育ちの白人の他に、ここ何十年の間に移住した人たちやその子供たちもいますし、仕事で来たばっかりの人たちもいるのです。それぞれが、それぞれのコミュニティに属しながら、お互いに影響し合いつつ存在しています。

その他に、外国人では、白人による植民地時代より前に広がっていたムスリムの影響があり、インド人も多く、さらに政治的な関係が深い中国人もいます。

日本にとって遠いんだなと思うのは、「白人による黒人差別」とか「人類皆兄弟」とか、そういうキーワードによる観念が一人歩きしていて現状とマッチしていないと感じる時です。もちろんそれぞれのキーワードは間違いではないのですが、そんなに単純な問題でもないのです。

例えば「白人と黒人のもらっている給料が違う」という事実があって、それを「不平等」と断じるのは簡単です。でも、給料をある一定時間の労働量に対する対価と考えると、平均的な白人一人の労働量は、平均的な黒人数人の労働量に匹敵してしまうという事実があるのです。この辺は、白人よりもさらに(それも自主的に)働いてしまう日本人には目にしない限り理解できない事なのかなと思います。

差別して虐待したりする事は、決してすべきではないのですが、その一方で全く同じに扱う事が実質不可能であるのは、実際に彼らと知り合わない限りなかなか理解できないと思います。

これは本来は肌の色の違いによるものではないのです。それでも部族や民族、社会文化や風俗の違いによる集団の差異は存在するということです。もう少しわかりやすく言うと、同じヨーロッパにいる白人でも「ゲルマン人」と「ラテン人」は個別の人の事はさておき一般的には振舞いや考え方などが違うというのはイメージしていただけるでしょう。同様に「キクユ族」と「マサイ族」も全く違います。もちろん植民地時時代からいるイギリス系ケニア人とキクユ族のケニア人も違うのです。

私の小説は、日本社会を舞台に展開する事もありますが、そうでない事が多いです。登場人物も、日本人も結構いますが、相対的には外国人の方が多いでしょう。彼らを動かす時に、もちろん日本人である私の脳内から出てきたのですから全く自由にはなっていませんが、出来る限り日本人しかしないような言動や考え方を書き込まないようにしています。

出発点がそこにあるので、時おり読者の方には「?」と思われるような前提条件をあえて説明せずに書いている所があります。もしかするとその辺が、わかりにくさになっているのではと、少し不安になっています。というわけで、時おりこうやって、別記事で説明を入れようと思っています。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

いつかアフリカに帰る

なんかものすごく久しぶりだなあ、このカテゴリー。

アフリカの太陽

先日、「陽炎レールウェイ」というお題に合わせて小説を書くにあたって引っ張りだしてきたのが、1996年の暮れにおよそ2ヶ月滞在したアフリカの記憶でした。

ケニアに1ヶ月ちょっと、それからジンバブエとタンザニアのザンジバル島に滞在したんですよね。そのジンバブエで知り合ったのが、現在の連れ合いです。予定もなかったのにスイスに流れてくることになったきっかけがこの旅でした。

それから、スイス移住後しばらくしてから、遅れたハネムーンみたいな形で、1ヶ月ほど南アフリカ共和国にも滞在しています。

また、ブラックアフリカとは違いますけれど、エジプトやスペイン領セウタとモロッコなども折にふれて訪問していますので、おそらく一般の日本人よりはたくさんアフリカ大陸に行っている方かなと思います。

でも、「本当にアフリカの好きな人」ほどはたくさん行ってはいないなと思います。つまり「アフリカに魅せられて、血が騒ぐ」という方ですね。そういう方こそ、本当の意味でのアフリカ好きだと思うんです。それでいうと私は、まだまだ「エセ・アフリカ好き」ですね。

「一度アフリカに行ったものは、必ずアフリカに帰る」

この言葉は、アフリカに行った人は必ず耳にすると思います。「もう一度アフリカに行く」じゃないんです。「帰る」なんですよ。例えば私がアメリカに行っても、そこは単なる滞在先で、決して私の帰属する場所にはなりません。「一度スイスに来たものは必ずスイスに帰る」と言われても私の心は「嘘つき」と反応します。帰属意識というものはそんなに簡単には生まれません。

でも、アフリカだけは、そういわれることに、私の心も納得するのです。

アフリカの大好きな方は、アフリカに旅行することを「里帰り」と表現します。遠くて、費用もかかり、トラブルに遭う確率も多くて、なぜそんな苦労していくんだと思われるでしょうが、アフリカというのはそういう風に人を呼ぶのです。

「エセ・アフリカ好き」の私にも、その「呼ぶ力」は効力を発揮し続けていたようです。小説を書くために一度考え始めたら、サバンナの強烈な記憶がしつこく呼び覚まされるようになったんですよ。

で、予定もなかったのに、「ニューヨークの異邦人たち」の構成の一部を変更して、アフリカの話も入れようかなと思っています。(どうせあれはオムニバスの予定だったし)

いや、そうじゃなくてアフリカ編だけ切り離して中編になっちゃうかもしれません。って、あれはアメリカの話じゃ……。

シマウマ

さてさて。判官びいきの私が、一番親しみを持っている野生動物。プンダ・ミリアことシマウマです。アフリカ滞在中も、どういうわけかこの動物のことにばかり頭がいっていました。

サファリを愛する方々はご存知の通り、シマウマは「その他大勢」扱いの動物です。ライオンやチーターを好んでウォッチしたい方にとっては、ただの食糧でしょう。でも、私はシマウマを見る度にワクワクしていました。つまり、サファリの間、かなりの時間ワクワクしていたことになります。シマウマは、きっと私のトーテムに違いない(笑)
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

何も予定のなかった日々

「アフリカの話」カテゴリーをずっと放置していましたね。久しぶりに戻ってきました。あのアフリカ旅行は、多くの意味で私の人生のターニングポイントになったのですが、その一つが「ただ心と体を休める滞在」という体験でした。

ハイビスカス

それまでの私は、いわゆる休暇というものの意味をわかっていませんでした。休暇というのは休むためのものです。でも、たとえば「十日も休みがあるのだから旅行に行かないと」「海外に行ったんだから観光しないと」という具合に予定を入れてしまっていたのです。さらにいうと「せっかくの機会に何もしないのは怠惰だ」という強迫観念にさらされていたのかもしれません。

ムパタ塾を終えて、一人旅でアフリカを周ることにした時も、せっかくアフリカにいるのだから何かをしたいと思っていました。でも、もちろん自分で行き当たりばったりで周るほどには無謀でなければ、それが出来るほどの知識があるわけでもなかったので、いくつかの希望を言って現地の旅行会社の方(日本人)にアレンジしていただいたのです。ジンバブエやザンジバル島にも行きましたが、それ以外にケニアでしばらく過ごしました。日本人のお宅にお邪魔して滞在させていただいたりもしたのですが、リゾート・ホテルに泊ったりもしました。

わざわざアフリカに来てリゾートホテルと思うかもしれませんね。私も思いました。でも、ナイロビは安宿に泊れるような治安ではなかったですし、泊ったとしてもやはり危険で現地の人なしには外には出られないのですよ。で、たまにはいいかとウィンザーホテルというリゾートホテルに泊まる事にしました。ここはゴルフリゾートなんですが、私は一人だしゴルフもしないので、はっきりいって何もやることがないのです。

ムパタ塾でお世話になった方が「これ、面白いからヒマなとき用に」と貸してくれたのが、先日ご紹介したクィネルの「燃える男」をはじめとするクリーシィシリーズでした。で、私は庭を散歩するか、この本を読むか、レストランに食事に行くか、そうでなければお風呂に入るという二泊三日を過ごしたのです。ずっとシャワーしかなかったので、バスタブは嬉しかったので、九回も入りました。

今のようにスマホやタブレットなんかありませんでした。ブログもやっていませんでした。家族との連絡はこちらが一方的に送りつけるハガキだけなので、リアルタイムでは誰ともコンタクトできません。もっというとコンタクトしなくてはならないプレッシャーもなかったのです。

そのときに、これまで自分がどれだけ必要のない「予定」というものに追い回されていたのかわかったのです。好きなだけ眠っていい、好きなだけお風呂に入っていい、誰とも連絡が取れないし、取らなくてはいけないと心を砕くこともない。たった三日でしたがそのリフレッシュ効果は考えてもいなかったものでした。

やがてスイスに来るか、日本で暮らすかという決断をする時に、私は便利で「やることの選択には困らない」東京よりも、平和で何もないスイスの田舎生活を選択しました。

現在の私の生活は、それまでと同じように、仕事をして、家事をして、それから余った時間で創作をしてという、かなり詰まったスケジュールです。健康に恵まれ、チャンスもずいぶんたくさん与えてもらったおかげで、「やることがない」状態や「やりたくても何も出来ない」状態になったことはほとんどなく、普段はやるべきことで埋まっています。だからこそ、週末や休暇の過ごし方だけは必要以上に追われずにのんびりできることを優先するようになりました。

土日ごとに何をしようかと考えることはありません。新刊情報や新製品、話題のドラマもここにはありません。代わり映えのしない田舎ですが、私には必要でない予定には追われない生活のほうが幸せに思えるのです。それを氣づかせてくれたのは、いま思えばあの何も予定のないホテル滞在でした。あの体験が、私の世界を変えるきっかけとなったのかもしれないなと思うのです。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

雷鳴の轟く煙

連れ合いが大家の許可を得て、サクランボ狩りをしたんですが。どうやら30キロ近く穫ったらしい。義母と私だけでそれぞれ10キロ渡されて途方にくれています。ようやく3キロでジャムを作りましたが、のこりの7キロ近く、さてどうしようか。
で、今日の話題はサクランボではなくて、連れ合いつながりで


ヴィクトリア大瀑布

トンガ語ではMosi-oa-Tunya(雷鳴の轟く煙)というこの瀧、ヴィクトリア大瀑布の名前で知られています。世界三大滝の一つでアフリカのジンバブエにあります。

多分、私が自力で行った外国の中で、もっともアドベンチャーだったのはこのジンバブエ旅行でしょう。そして、人生の冒険の出発点でもありました。この瀧を眺める豪華ホテル、ヴィクトリア・フォールズ・ホテルで偶然出会ったスイス人と、どういうわけか人生の道のりが交差し、本日12年めの結婚記念日を迎える事になったのですから。

旅をはじめるまでは、道を外れていく事に大きな不安がありました。せっかく入った会社をやめてこの後大丈夫だろうかとか、私は何のために生きているんだろうかとか、自分のやっている事に全く自信がありませんでした。

でも、アフリカでいろいろな人に逢い、別の世界を知り、そしてこの瀧のようなスケールの大きい自然に対峙しているうちに、正しい道が一つしかないと思い込んでいた自分の小ささを知ったのです。

その後の道は外れっぱなしです。でも、何とかなっている。私は自分の通って来たすべてを肯定しながら前を向いて歩く事が出来ています。

この瀧は大きなターニングポイントでした。私をここへ連れて行った運命に感謝の気持でいっぱいです。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 13 -

お忘れかもしれませんが、終わっていません。まだ続けます。「ムパタ塾のこと」です。

遊園地のアトラクションや映画と違って、野生動物の世界に台本はないので、望んでも簡単に見られないものがあります。それだけに、遭遇してしまった時の驚きとドキドキは強くて、生涯忘れられない経験になります。

誕生

私たちがそんな場面に遭遇したのは、旅も後半に入った頃だったでしょうか。トムソンガゼルが、群れから離れてたった一匹でいたので変だなと思ったのです。そしたら、私たちの目の前で出産がはじまったのです。草食動物は生まれてすぐに立ち上がり、すぐに歩くという事ぐらいの知識は持っていました。人間の出産ほど長くはかからない事も。とはいえ、人間の出産の大変さ、子供が立ち上がって歩き出すまでの長い時間を考えると、そのプロセスの早さには驚きます。

私たちの車が近くに陣取ってすぐに出産ははじまりました。お尻から黒いものが出てきたなあと思ったら、それから十分くらいでもう半分以上出てきたのです。そして、生み終わるまでに30分はかからなかったように記憶しています。

けれど、その時間が私には永遠のように思われました。もし、馬小屋で馬が生まれるような事であれば、こんなにスリルは感じなかったと思います。けれど、そこはマサイマラ国立公園のど真ん中で、いつライオンやチータなどの肉食獣がやってくるかわからない状態なのです。トムソンガゼルの母親もその緊張を感じていたと思います。急かすように仔の周りの粘液をなめていました。

仔ガゼルは、ヨタヨタとなんども倒れながらもついには立ち上がりました。そして、母親の乳房に吸い付きました。でも、それでめでたしめでたしではありません。母親は、いま生まれたばかりの仔ガゼルを急かすように歩かせていくのです。仲間のもとへ、安全な群れのいるところに。子供が生き延びるためには、ゆっくりと出産のあとの幸福をかみしめている時間などないのです。

これが野生の世界なんだなと思いました。私たちは、そのガゼルを群れのもとに送り届けたり、肉食獣が来ないように見張ったりする事は出来ません。そういうことは許されていないし、たとえ許されたとしても全ての生命を食物連鎖の厳しい掟から守る事は出来ないのです。

ガゼルたちは「生き甲斐がない」とか「貧富の差がある」などということに迷う事はないでしょう。彼らの目的はただ一つ、生きて、生き延びて、子孫を残す事です。

用意された感動ではなく、ありのままの生命の神秘を目にして、私はアフリカまでやってきた意味があったなと思ったのでした。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 12 -

それでも続けるムパタ塾の話。

マサイマラの小学生たち


ムパタ塾のカリキュラムの一つとして、現地の小学校を訪ねて、彼らと触れ合い、サッカーボールや文房具などを寄付するという日がありました。でももちろん子供たちとはひと言もコミュニケーションできないわけなんですが(子供は英語も話せませんしね)、わーっと寄って来たり、一緒に歌ったりして少し触れあったわけです。

この子供たち、屈託のない年相応の子供たちではありますが、それでも日本の子供たちとは少し違うような氣がします。中には、赤ん坊の妹を背中に背負って十キロも歩いて学校に通う子供がいるとききました。両親がいなくなってしまい、隣人や救済機関の援助を受けながらも妹の面倒を見ている十歳くらいの子供もいるとか。学校から帰って、かまどに火をおこし、煮炊きをする子供。それができるんだというのは驚きでした。

かつては、女性は初潮と同時に結婚していた、つまり十二、三歳で大人扱いだったことを考えると、もともとヒトはそのくらいで独り立ちできたということなのかもしれません。社会が複雑になり、子供が親の元で過ごす時間が長くなった先進国では、エネルギーのすべてが脳の発達に向けられているのか、小学校卒業ぐらいの年齢で「さあ、後はご自分で」といわれても困るのが普通だと思います。スイスもそうです。二十五歳になっても料理どころかまともに掃除すらできない人もいます。

アフリカの子供たちと、日本やスイスの子供たちでは置かれた環境が違います。だから簡単には比較できないことはわかっていますが、それでも、人間の成長の速度というのは、実は育てている方(親や社会)が決めてしまっているのではないだろうかと、思ったのです。

私の母親は、あまりこまこまと世話を焼かない人でした。そのおかげで私は中学生の終わり頃にはガスの火でご飯を炊いたり、簡単な食卓を用意することができる程度にはなっていました。塾に行ったりもしていなかったので、親を手伝う時間もありましたしね。

いまの私は、全く怖がらずに薪ストーブに火をくべたり、十キロ以上を歩いたり、ドイツ語しか通じない人たちと会話したり、日本にいた頃には「無理!」ということをあたりまえにしているわけですが、これも歳を食ったからではなくて、必要ならば10歳でもできるんだろうなと。

小学校訪問のことを思い出しながら、そんなことをうっすらと考えた私でした。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 11 -

まだ続くのかと呆れていらっしゃる方もおいででしょうが、軽く無視してみます。ムパタ塾の話です。

黄昏れて……

アフリカというと時おりこんな意見を耳にします。「なんてかわいそうな貧しい人たち。誰もが幸福になる権利があるのに」この手の言葉を聞いたら、どんな人が発しているのかまず知らなくてはなりません。もしその人がアフリカのことをテレビでしか知らない人であるのなら、その言葉にはあまり重みはありません。

誤解されると困るのですが、人種に優劣があるとは思ってはいません。そして、アフリカやアジアやその他の開発途上の国で悲惨な状況のもとで暮らしている人がいることも確かです。だから発言が間違っているといいたいのでもありません。

ただ、「人はみな同じ」という発想には賛同できません。「豊かさ=西欧資本主義国の暮らし」という基準にも納得がいきません。何千万年もの間、自然とかかわり合いながら大地のもとでエコロジカルに生きてきた人たちにプラスチックの買い物袋とウォシュレットのある生活を「ほら、幸せでしょ」と押し付けることはナンセンスだと思うのです。

彼らは私たちとは別の時間感覚を持っています。「ほら、このデジタル時計をはめることができる生活をするためには、きちんと時間通りに蟻のように働かないと」と説教をしても意味がないと思うのです。

彼らが平均で受け取る給料はとても額が低いのです。はじめにそれを聞いた時、私も憤慨しました。けれど、あとで彼らの仕事ぶりとそれを監督する人を見て思いました。「まあ、ちっと安いかもしれないけれど、安すぎるってほどでもないかも」

生産性というものはほとんどなく、一人でできることを十人ぐらいがだらだらとやっている。言われたことを憶えるのも当たり前ではなく、監督者はほぼ同じ小言を毎日言っても改善されないことに慣れています。でも、彼らはそれに不満を持っているわけでもない。日本の企業戦士のほうがずっと不幸せそうです。

物質的で、生産性が高く、変化がめまぐるしく、大量の人間が絶えず移動している社会を、何を置いてでも手に入れるべきユートピアだと思うアフリカ人は少ないに違いありません。彼らは一日中家の戸口に座って、ビールを飲みながらだらだらと話をするのが大好きです。給料をもらったその日のうちに全額を酒に換えてしまう男たち、十以上の数を使う必要のない生活、歌と伝承とダンスに満ちた夕暮れ。

「かわいそうな人たちを救うためには、教育が肝心です」
そういう力説を聞く度に、ある意味では正しいかもしれないけれど、それが本当に幸せになる唯一の道かなと考えてしまうのです。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 10 -

いつまでも引っ張る、ムパタ塾の話題。今回取り上げるのは、先日おこった事故と関連のある話です。

バルーンの準備 空から見た光景


先日の氣球による事故は大変痛ましい事でした。あの事故は、私にとっても他人事ではありませんでした。ムパタ塾の休日のオプショナルツアーとして乗ったのです。

空から日の出と、朝の動物たちを観て、サバンナでシャンパンつきの朝食を食べるツアーでした。どうしようかなと思ったのですが、たぶん一生に一度の事だし、他の参加者が「よかったよ〜」と帰ってくるのを想像すると、行ってみるかと思ったのです。

休日だというのに朝の四時起きでした。日の出を空の上で観るのですから、当然日の出前に飛ばなくちゃ行けないわけです。そして、乗る前に書類にサインをさせられました。バルーンは離陸と着陸の時にバランスを崩したりすることがあり怪我をしたり障害を負ったりする事がある。そうなる事があるという説明を聞いて自己責任で乗ります、というサインです。

実際にバルーンの仕組みを考えればわかる事ですが、可燃性のガスを燃やして、その熱で上昇するのです。既に何度も乗った事のある方は別として、これははじめて乗る人は「大丈夫か」と怯えるしくみです。よく考えると飛行機も、あんな大きな金属の固まりが空を飛んでいることに不安を感じます。しかし、あまりにも何度も乗っているので「大丈夫なもの」と勝手に心が判断している部分もあると思います。

そういうわけで、私はバルーンに不安を持って乗りました。幸い、私の乗ったものは問題なく離陸と着陸をし、パイロットたちが料理してくれるイギリス風の朝食を草食動物たちを眺めながら食べたのです。

空から眺めた日の出は本当に美しかったです。それから冷えた外氣の中をキリンやゾウやカバやシマウマが自分の下を通っていく光景も忘れられないものとなりました。森と川をいくつも越えて、滑るように飛んでいく開放感。そして、早起きのために重くなった頭と、わずかに不安の混じった緊張感。たぶん、本当に最初で最後になるだろうバルーン体験は、やはり忘れられないものとなりました。

お値段は、当時で360ドル。これはケニアからジンバブエを往復する国際線の倍以上でした。もちろん観光客しかしない贅沢です。「一度しか出来ない経験」というと、私たちはついしてしまう傾向がありますが、本当にそれが必要なのかとも考えてしまいます。とくに今回の事故のような事を耳にするとなおさらです。

亡くなられた方のご冥福をお祈りすると同時に、ご家族の悲しみが早く癒えるようにお祈りしています。


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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 9 -

いつまでも引っ張る、ムパタ塾の話題。今回取り上げるのは、向こうで出会った普通の人びとの事です。

市場の女たち

男女同権が憲法に明記されていて、時には、逆差別もおこるほどに女性への配慮がなされた社会で生まれ育つと、いわゆる第三世界での女性差別にはぎょっとする事があります。

スイスでは、男に生まれたらそれでゲームオーバーと言っていいくらい女性の権利が保護されていて、それなのについうっかりアフリカ人と結婚してしまい、その価値観の違いに仰天して離婚する女性の話が後を絶ちません。男性には尽くす方と言われている日本人の私でも、かなり「それは、勘弁」と思うエピソードをよく聞きました。

マサイ族の男性に聞いた話です。
「女の仕事は、家を建てる事、子供の世話と、家事全般。それに家畜の世話と、農耕作業(ある場合はですが)、それから(数キロ先まで)水を汲みにいく事、他にもいろいろあるけれどね。男の仕事は、ライオンが来たら闘う事。あとはビールを飲んで仲間とおしゃべりだね」
ちなみに現在は、国立公園として保護されているので、ライオンと闘う事は許されていません。つまり男性の仕事はビールを飲んでおしゃべり、それから子づくりのみ。

「アフリカ人は怠惰だ」という意見を聞きますが、この場合は「アフリカ男は」ときちんと言っていただきたい。女性は基本的には勤勉です。

ただし、彼女たちの働き方は「勤勉」という言葉からイメージされるものとはちょっと異なっています。テンポが緩やかで、かなり非効率な動きをしています。でも、まあ、こんなに理不尽な男女差別に何千万年も堪えるのにパキパキなんてしていられないでしょうね。彼女らは仕事も何もかも楽しんでいます。歌って、だらだらして笑って。

こういう姿を見ると、「ウーマンリブ」や「女性の解放」という言葉が、別世界のように見えます。これでいいんだか、よくないんだか、よくわかりません。生命や身体の危険にさらされている女性たちは国際社会の圧力をかけてでも救ってあげる必要があると思います。その一方で、アフリカ人にはアフリカ人なりの生活哲学があるのだから、一概に欧米や日本のような男女の関係をあてはめても意味がないのかもしれないんですよね。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 8 -

ムパタ塾の話の続きです。まだまだ、ひっぱる……。

これまでの話は、カテゴリー「アフリカの話」でまとめて読む事が出来ます。こちらからどうぞ。

ライオンの顔にも……

突然ですが、食事の前に必ず手を洗いますか? 出来れば石けんで、本当は滅菌作用のある石けんでと思っていらっしゃいますか?

アフリカに行って以来、私はその辺の事に疑問を持つようになってきました。そりゃ、肥だめの中に手を突っ込んだままで食事をしたりはしませんよ。でもねぇ。滅菌に命をかけている日本の母親たちが、あんなに頑張っているのに日本の子供たちはすぐに病氣になり、あんな不衛生な状態で暮らしているのに、アフリカの子供たちはへっちゃらなのですよ。滅菌すればするほど、人間の免疫力が低下するんじゃないかと思うんですよね。

外のテラスで食事をするレストランでの食事に例をとります。日本でお皿の中にハエが一匹入ってしまったら、取り替えてもらう人が多いと思います。ケニアではそんな事をする人はいません。外にいて一匹なんて奇蹟です。お皿の上にはぎっしりとハエの集団がいるのです。そして、客は自分が口に運ぶ、スプーンやフォークのところに来るハエをはらって食べる訳です。一匹のハエでお皿を取り替えてもらっていたら、永久に食事にはありつけません。私はそういう食事をしていましたが、一度も病氣になりませんでした。

マサイ族の住む村を訪問しました。彼らは自分の住む家を(女性が)建てます。たった今完成したばかりという家を見せてもらいました。黒い壁でした。私たちがその家に近づくと、いきなり壁は灰茶色に変わりました。その壁は牛の糞でできていたので、全面にハエがたかっていたのが、一斉に飛び立ったのです。よく見ると立っている足元もすべて牛の糞でした。

彼らはそういう所で年間を通じて暮らしています。滅菌石けんという問題ではない事がおわかりいただけると思います。レベルはだいぶ違いますが、スイスもそうです。ハエがどうのこうのと言っていては生きてはいけません。

不潔な状態から感染するというのは事実です。だから、ハエや汚れにまみれる方がいいとは言いません。でも、本当に大切なのは免疫力をつけるという事なのではないかと思います。

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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 7 -

サイ

このクロサイは水辺にひっそりと佇んでいました。他の草食動物たちは、群れになって、いつも肉食獣たちに狙われているにもかかわらず楽天的な顔つきをしているのに、サイは世をはかなんでいるようでした。

保護政策によりわずかに生息数が増えているとはいえ、あいかわらず絶滅の危機にさらされているクロサイ。絶滅の危機にさらされるのは、密猟が後を絶たないからです。犀角という漢方薬にするために主に韓国人が血眼で買いあさっていると現地では言っていました。もちろん密猟をするのは現地の人間です。角一本で彼らの一年分の収入にも当たる金額を出すというのです。

自分が殺している動物が絶滅の危機にあるということを、密猟者たちは意に介しません。動物の絶滅の危機、人間のエゴによって他の生物が永遠に失われるというような概念に対して、まったく意味を見いださないのです。それは、単純に「教育の問題」と片付けることは出来ません。彼らがどれだけ貧しく、搾取され、密猟でも盗みでも構わないと思うほどの、むしろそれを悪く言う白い裕福な人間たちの「ひとごと」に怒りを感じているか、それを理解しなければ、この問題は解決しません。もちろん、犀角で大もうけをしようとしてる依頼者と、絶滅危機にあるサイの角と知っていて買う消費者が悪いのです。

けれど、これは、サイだけの問題ではないでしょう。

クロマグロに話を置き換えて考えてみましょう。私はマグロが大好きです。美味しい大トロに、目がありません。けれど、価格が高騰したために乱獲が進み、絶滅が危惧されるという流れはサイと変わりません。誰かが大もうけするために、種の存続が危機にさらされる。これを止めるためには、消費者が高いお金を出して求めるのをやめ、儲からない生きものにするしかないのだと思うのです。

クジラを食べないようにするのは、私には難しいことではありません。子供の頃、給食に出てきたので食べましたが、死ぬまでに再び食べてみたいというものでもありませんでした。でも、日本に帰ったら、美味しいトロを食べてみたいという誘惑にはかられます。そういう時には、あの哀しいサイの立ち姿を思い出して、思いとどまろうと思います。幸い、日本では完全養殖に成功し、食卓にものぼるようになってきたとのこと、今後の普及に期待したい所ですね。

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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 6 -

意外と興味のある方の多いムパタ塾の話の続きです。

これまでの話は、カテゴリー「アフリカの話」でまとめて読む事が出来ます。こちらからどうぞ。

鳥のリスト

日本でも自然の豊かなところにお住まいの方には笑止千万な話ですが、当時の私が同定できる鳥というのは両手で数えられるくらい、足の指は必要ない程度でした。実際に、東京でごく普通に見ることのできる鳥といったら、鳩、カラス、雀、ヒヨドリぐらいだったのです。こういう自然とは切り離された暮らしをしている人間が、マサイマラ国立公園内で暮らすとなると、その無知っぷりが大いにクローズアップされるわけです。

ムパタ塾の参加者の大半は「ゲームサファリが大好き」でネイチャーウォッチングの授業は「まあ、一回ならいいかな」ぐらいの興味しかなかったのですが、私はサファリ以上に興味がありました。

最初の日は、ホテルの庭のなかを一時間程度散歩しながら見た鳥の名前を羅列していく授業がありました。この時間は、もちろん講師に名前を教えてもらいそれをメモするだけだったのです。最初の週末(授業がなくて自由時間)に、ホテルの図書室にある鳥類事典を借りて、メモした鳥の絵を持っていった水彩色鉛筆で描いたのが上の写真です。とてもきれいな鳥がどんどん飛んでくるのですよ。

下の写真は、別の日にホテルの庭(といっても、周りに自生している植物と同じものがあるだけ)で、主にマサイ族が現在でも使っている植物についてのレクチャーで採取した植物や写真です。これらはみな私の「ムパタ塾スケッチブック」に貼付けてあって、いい思い出になっています。

植物のリスト

たとえば、「マサイの石けん」といわれる葉はもんでいると泡がでてきます。これで手を洗うので他に石けんはいりません。「マサイのトイレットペーパー」といわれる葉もあります。用途は、おわかりですね。「マサイの歯ブラシ」といわれる木の枝は先の薄皮を剥ぐと繊維がブラシのようになっていて、しかも殺菌効果もあるのだそうです。アガベの葉先の針になっている部分を折ると、繊維質がついていきて、それはまるで針と糸が一体になったようです。彼らはこれらで本当に繕い物をします。私の指にトゲが刺さってとれなくなった時、実際にこのアガベの針を使って刺を抜きました。

こうして人びとは、自然と一体化した暮らしをしています。もともとそこに生えている植物ですから、使い終わったあとにそのままぽいと放り投げてもそのまま自然に還っていきます。つまりゴミ問題も発生しません。

こうした暮らしを何十万年も続けてきた人たちが、プラスチックを突然手にしてしまったりすると、問題が発生します。アフリカ人がゴミ箱にゴミを捨てない、道に何もかも捨てていき問題になっていることには、こういう背景もあるようです。その一方で、毎日何十万トンというゴミを排出する私たち先進国の人間の当たり前の生活についても考えるきっかけができました。

スイスに来てから、ゴミ問題については、続けて意識して暮らしています。ゴミ箱に入れるからそれでいいのではなく、はじめから可能なかぎりゴミを出さないくらしを心がけるようになったのはこのムパタ塾での体験がベースになっているのです。
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Category : アフリカの話

Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 5 -

お知らせです。どうもコメント欄が変で、一度送っただけで「時間をおいて再投稿してください」と出るようです(毎回ではないようですが)。その場合はちゃんと送られています。何度も送ってくださった方、お手数をおかけしました。

自分でも忘れかけていましたが、再びムパタ塾の話を。

これまでの話は、カテゴリー「アフリカの話」でまとめて読む事が出来ます。こちらからどうぞ。

シマウマ

マサイマラ・国立公園についた翌日から始まったのが「野生動物の生態を学びながら、プロの写真家に習うフォト・シューティング」という名目の、要するに普通のゲームサファリでした。参加者が期待しているのも、まあ、こういう軽い学習であって、本当に研究者のように生態を学ぶなんて事は一ヶ月程度じゃ無理なわけですよ。

私はアフリカも、一眼レフカメラもはじめて。生きたライオンやキリンを動物園の外でみるのもはじめてでした。大きなジープに乗って、国立公園に出かけていくのですが、野生動物というのは人間がいてほしい時に都合良くいてくれるものではないのですよ。で、必ずいる動物というのは何万匹もいる食物連鎖ピラミッドの底辺の動物たちで、シマウマ、トムソン・ガゼル、トピ、水牛などです。もうすこし少ないけれどたいていみられるのが、カバ、ワニ、キリン、象、ダチョウ、それからライオン。もうちょっと少ないのがチーター、夜行性のためほとんど見られないのがヒョウ、単純に絶滅危機にあり絶対数が少なくてなかなかみられないのがサイ。

だもので、そのうちに、旅行者たちはライオンやチーターや象だとシャッターを切り、シマウマなんかには目もくれなくなるわけです。

なんですけれどね。どうも私はこの旅行でシマウマに妙に心惹かれてしまいまして。特にどこがどうというのではないのですが、なんでしょうね。自分のトーテムを選んでいいと言われたら、確実にシマウマを選ぶでしょうね。

さて、私たちに同行してくださったケニア在住の写真家の清水先生。写真もド素人ならば、アフリカのことも自然のことも何も知らない私のような参加者に、丁寧にいろいろなことを教えてくださいました。

しばらくサファリをしていればわかることですが、野生動物は動物園に飼われている生き物とは全く違う顔つきをしています。体には傷があるし、生きるために闘っていて人間の相手をしている時間はありません。そこに暮らす人間たちも、動物園の飼育員とは全く違った立場で動物たちと対峙しているわけです。車から離れる時には必ず銃を持ったレンジャーと一緒です。動物たちも人間もいつも死が近いところにいるわけです。かといって、勝手にバンバン殺すというのではなく、お互いにどうしても必要な時しかそういう事態は起こさない、一種の尊厳があります。

キクユ族、マサイ族など人々の暮らす衛生条件は悪く、成人になれる割合は日本よりもずっと低いのです。子供の頃から生き延びるのに必死の人々は、面白半分に命をもてあそんだりはしません。そういう意味で、非常に死の近い場所、それがアフリカでした。

そして、その時は、まだまだお若くて元氣だと思っていた清水先生が、数年後にマラリアで命を落とされたときにも、私は再びアフリカの「死の近さ」を思い出したのです。

次回は、ホテルの敷地内でのネイチャー・ウォッチングについて書きますね。
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Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 4 -

ムパタ塾の話は続きます。四人の他の参加者と一緒にケニアのマサイ・マラ国立公園のムパタ・サファリクラブにやってきました。

これまでの話は、カテゴリー「アフリカの話」でまとめて読む事が出来ます。こちらからどうぞ。


ライオン三兄弟

ケニアは赤道直下にある国ですが、マサイ・マラ国立公園は標高1500mの高地にあるので非常に過ごしやすく、マラリアの原因となる蚊もいませんでした。公園の中は野生動物が自然のまま生活しているので、人間の方がそれにあわせなくてはなりません。現代社会、特に日本では、お金さえ払えば大抵のものは用意されているのですが、それが全て取り上げられた世界と言ってもいいでしょう。東京にあるすべての利便性、電氣も水道も、自由に外で歩け、買いたいものが買える自由もありませんでした。もちろん携帯電話なんか通じないんですよ。ま、当時は携帯なんか持っていませんでしたが。

自由にならないのは、物質的なものだけではありませんでした。コミュニケーションも。現地の人は当然日本語は話せない訳です。

当時の私は、今ほど厚顔無恥に英語で誰とも話せた訳ではありません。たぶん、大学を卒業した平均的な日本育ちの日本人並みにしか会話能力がなかったのです。しかし、このムパタ塾以来、私の外国人とのコミュニケーション能力に大きな変化が現われます。その理由は——。

実はですね。参加者たちは「言葉の心配はありません。現地には通訳をするスタッフがおりますので」と言われていたのですよ。で、そのつもりで行った所、実はそのスタッフと私の語学能力が、どっこいどっこいだったのです。私も、あまり人に頼るのが好きな性格ではないので、大して変わらない人に通訳してもらうよりは自分で話した方が早いとしゃしゃり出るようになってしまいました。そして、参加して数日で、ケニア人も日本人参加者も、通訳を求めて私の顔を見るようになってしまったというわけなのです。

このむちゃくちゃコミュニケーションは、その後のアフリカ一人旅と、その後の現在の連れ合いとの出会い、つきあいに大きな影響を及ぼしました。そして、今の私があるという訳なのです。

次回は、ムパタ塾のカリキュラムについて話そうと思います。
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Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 3 -

ブログのお友だちの5000Hitを踏むのをあちこちで狙っている私ですが。よく考えたら自分の15000も近づいていますね。これってウゾさん風に華麗にスルーしちゃってもいいのかな。その代わりに三月の一周年にむけて、皆さんに参加してもらう壮大な企画ってのはどうでしょうかね。

さて、今日の本題。ムパタ塾の話は続きます。ようやくアフリカに到達。

これまでの話は、カテゴリー「アフリカの話」でまとめて読む事が出来ます。こちらからどうぞ。


バンダ No.1
帰国後に、私の宝物となったスケッチブックがあります。ムパタ塾で毎日書き綴っていたものを、毎日書いて実家に送っていたはがきとドッキングさせて作ったもの。そのうちにちら見せすると思いますが、他の参加者をして「このスケッチブック、すげー欲しい」と言わせた、ムパタ塾の事がぎゅっと詰まった三冊です。

当時はまだデジカメを持っていなかったので、そこに貼られている写真はデジタルデータがなくて、今日の写真もスケッチブックから接写したものです。




さて、話は戻って、前回は参加を決意したところでしたよね。説明会に参加して希望に燃えたものの、自分で参加費を捻出しなくてはならなかったので、「三ヶ月コースに行きたいんです。でも、今年は行けません。お金を貯めるので来年」と断言して一年半。会社も無事に辞めるめどがつき、お金も本当に用意しました。そしたら——。

「参加者が集まらなかったので、今年は三ヶ月コースは開催できなくなりました。一ヶ月だけです」

ええ〜っ。一ヶ月だったら、会社やめなくてもなんとかなったんじゃ……。ま、無理でしたかね。いずれにしてもムパタ塾で必要なお金は半分以下になってしまいました。それで、私は頼み込んだのです。せっかくアフリカに行くのだから、塾の終わったあと、私はアフリカ一人旅をしたいと。主宰者はそのアレンジをも快く引き受けてくださいました。それで、私はムパタ塾一ヶ月プラスアフリカ旅行一ヶ月弱の予定でケニアに旅立つ事になったのです。

バブルの余韻があったとはいえ、当時でもアフリカに一ヶ月も滞在する、しかもそんなにお金のかかる旅をしようという酔狂な参加者はそんなにいませんでした。参加者、総勢五名。集合は成田空港。空港ではじめて一ヶ月一緒に過ごす参加者たちと出会ったのです。そのうちの三人は、きちんとした社会的地位のある経済的にも余裕のある女性たち。お一人とは、今でも帰国する度に必ずお会いしています。そして、一人だけ私より若い大学生の青年。卒業旅行にしては豪勢ですが、滅多に出来ない経験を選んだ彼の選択は間違っていなかったと思います。そして、私。

このメンバーとアレンジの方が一緒に当時のスイス航空に乗っていきました。当時はスイスには何の縁もなかったのですが、せっかくアフリカまでいくのだからと、スイス航空のマイレージカードを作ったのですよ。それが今ではほとんど唯一の使うマイレージカードに……。人生ってわからないものです。

チューリヒ経由でナイロビに着くまで、ほぼ一日。そこからマサイ・マラ国立公園内にあるまでほぼ一日。日本からは、本当に遠い所でした。でも、これからはじまる旅にワクワクしていましたね。

到着後、それぞれにはバンダという小屋というか一軒家のような建物が宿泊場所としてあてがわれました。私が入れてもらったのはNo.1という中央棟から最も近い部屋でした。

ベッドとサイドテーブル、机と椅子と小さなクローゼット、それにシャワー室とシンプルで美しい部屋で、窓から見渡す光景とともに、その三週間のお城が私は大好きでした。

ムパタ塾の講義の話は、また来週以降に続きます。
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Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 2 -

ムパタ塾の話は続きます。といっても、まだアフリカそのものには辿り着きませんけれど。前の話を読みたい方は、カテゴリーのリンクからどうぞ。

キリン

当時は、バブルはもう弾けていました。けれど、その当時の浮かれた感じ、「仕事でバリバリ儲けようぜ」という人たちがまだたくさんいたと同時に、「人間って仕事やお金だけじゃなくて、もっと大切な物があるわよねぇ」という、ふわふわしたロマンも十分残っていました。現在でもそういう考え方はもちろんあるのですが、当時は今よりももっと楽観的でした。端的に言うと「数年間充電してもいいよね」「戻りたかったらまた戻ればいいんだし」と思えたということです。私が就職をする時は、今よりもずっと簡単でしたし、実際に、アフリカから帰ってきて派遣社員として再び働き出した後も、派遣先で何回も「ところで正社員にならない?」と持ちかけられたものです。今の若い人たちが感じているような悲壮感とは本当に無縁でした。

さて、ムパタ塾に行くことを決めた時、私はとある大きな会社に勤めていました。そして、入社五年目としてはもったいないくらいの重要な職務を負かされていました。ある意味で会社が向かう先に関わるような内部組織にいたのです。しかも、女性としてははじめてその職に抜擢された、ちょっと特殊な立場にいたのです。本質的には、私の存在は会社の命運を決定はしないけれど、その組織のイメージとしては「女でも、こんなに若くても、こういう立場に立てる」という一種の広告塔的な立場を担いつつ、個人的にもやりがいのある仕事をさせてもらっていました。

それでありながら、その会社が、もしくは資本主義国の大半の会社が目指している目標について、私の中では違和感が大きくなりすぎてしまっていたのです。「前年比+の営業目標を達成すること」「モノを売ること」それがその会社の、多くの企業の目指しているものでした。なぜ、毎年新しい服や家電を買い替える必要があるのだろう、なぜ物質的な豊かさだけが目標となっているのだろう。そんな疑問を持ってしまったら、営業をメインとする仕事を続けられません。単なる腰掛けならよかったのです。でも、私の任されている仕事は、どちらかというと社員に「もっと売れ」「もっとがんばれ」とハッパをかける方の仕事だったのです。自分が疑問を持っているのに。

それで、プライヴェートのときには、ますますエコロジーやもっと精神的な満足を求めるような本ばかりを読むようになっていました。

そして、ある時、その広告が目に入ってきてしまったのです。「ライアル・ワトソン監修。アフリカに長期滞在して、環境とエコロジーについて学ぼう」

サファリをしながら野生動物の写真を撮り、大自然の中での動物たちの姿を見る。スワヒリ語を学ぶ。キクユ族の小学校を訪れて、教育を受けるだけでも大変な子供たちと交流する。自分で庭をデザインする。原始的な楽器を演奏し、シャーマン的なダンスをする。陶器を作る。マサイ族の村を訪ねるて、乳搾りや家作りを見学する。世界的に有名な動物写真家と会う。世界的な象の権威である博士と一緒に象の生態について学ぶ。

魅力的なカリキュラムに、これにどうしても行きたいと思うようになってしまったのです。そして、もともとは三ヶ月コースに参加するつもりでした。もちろんそんなに休むなんて無理なので、会社を辞めるつもりでした。参加費は300万円。もちろん誰からも支援がなかったので、参加を決めてから一年半でこの金額を貯めたのです。
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Posted by 八少女 夕

ムパタ塾のこと - 1 -

晩冬さんからリクエストをいただいていましたね。もう十●年前の事になってしまいますが、語ってみましょうか。と、いっても、今回はムパタ塾そのものではなくて、その前提条件になった当時の私の状態についてです。

かつて、私はライアル・ワトソンに傾倒していました。まあ、今でもですが。今風に言うと「厨二病」の壮大なものにかかったようなもので、これは卒業するか、もしくは行く所まで行っちゃうしかないわけです。そして、私は後者を選んでしまったという事ですね。

こういう本があるのですよ。「アフリカの白い呪術師 (河出文庫)」ライアル・ワトソン著

私は、「アースワークス」などから入ったのですが、この「アフリカの白い呪術師」ですっかりライアル・ワトソンとアフリカに傾倒してしまいました。彼のことをトンデモ科学だと批判する方があるのはわかっていますし、その事について議論するつもりはありませんが、世界に対する彼のアプローチは一読するに値するものだと思っています。ですから、彼に対する尊敬は今でも変わっていません。残念ながら亡くなってしまわれたのですが。

日本人の経営するケニアのマサイ・マラにあるムパタ・サファリ・クラブはこのライアル・ワトソンの監修によって建てられた、環境と自然に調和させた五つ星ホテルです。五つ星と言っても、マサイ・マラ国立公園のど真ん中にあるのですから、都会の便利な豪華ホテルとは全く違います。自家発電。しかもコンセントに差しても使えない時間がほとんどです。バスタブなどあり得ません。けれど、この地で受け取れるサービスとしては本当に最高のものです。

一人用の円形のバンガローにはベッドと小さな机と椅子、そしてシャワーと洗面台があるのみ。でも、パノラマ場の窓ガラスからはマサイ・マラ国立公園のどこまでも続く大地が一望のもとです。そして、なぜか食事はフランス料理のコース。ケニア人のコックが毎回腕によりをかけて作ってくれます。

このムパタ・サファリ・クラブ、滞在費は高いし、そもそも辿り着くまでに確実に二日はかかるので、バブルが弾けた後は一般人が簡単に行ける所ではありません。それで、閑散期に長期滞在して環境と自然に付いて学べる「ムパタ塾」を開催しようという事になったようなのです。そして、私はそれに飛びついたというわけなのです。

「ムパタ塾」の内容については、また次回。


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Posted by 八少女 夕

ヒヒが座っていた場所

これは南アフリカのカルーの夕陽


思い出した光景があります。

ケニアのマサイ・マラ国立公園に三週間ほど滞在した事があります。ムパタ・サファリ・クラブという、日本人の経営するホテルに滞在しながら環境と自然について考えるムパタ塾に参加したのです。ムパタ塾の事は話すと長くなるので、今回はこれまで。

で、その中央棟の前にバブーン・バーと呼ばれていた場所がありました。テラスに大きな石でバーを作っていたのですが、誰もいない時にバブーンがぽつんと座って夕陽を眺めているのだそうです。

そこから見る夕陽の壮大さは、なんとも言葉を失うものでした。見渡す限りの草原に、点のように小さく見える草食獣たちの群れがいて、そのずっと先に地球が本当に丸いのだとわかる地平線が広がっているのです。そして、そのすべてが真っ赤に染まっていきます。赤く、赤く、暖かい色なのに、苦しくなるほどの切なさが胸に迫る色です。

あの時、私はまだ現在の夫に出会っていませんでした。彼に初めて会う、一ヶ月ほど前の事だったのです。ずっと一人だったし、これからも一人なのだと思っていました。しっぽは出さないように慎重にしていましたが、たぶん多くの人に見破られていたように、社会から浮いていました。無理矢理合わせて生きるには、違和感が大きくなりすぎていました。どこに行っていいのか、何をすればいいのか、わからなくなっていました。

群れから離れて、ぽつんと夕陽を眺めているというバブーンの話が、自分に重なりました。

日本に帰ってから、新しく学校に通って、再び食べていける職に就きましたが、たぶん心はまだあのバブーン・バーで夕陽を眺め続けていたのだと思うのです。彼から、最初の手紙が着くまで。

型破りな人で、たぶん99%の女性は、彼のような伴侶は絶対に選ばないと思います。現実に、私にはライヴァルの女性はまったくいません。(男性にはとてももてるのですが)
でも、たぶん、私と一緒にバブーン・バーに黙って座ってくれる、たった一人の人です。

この世は不思議に満ちています。あり得ないと思っていたことが起こりました。探していたものが見つかりました。私は、あまり信心深い方ではありませんが、ある聖書の言葉が心にしみます。「求めよ、さらば与えられん」
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