一週間ほど前に書いた話だが、このブログでもちゃんと取り上げておきたい。
人間的な好き嫌いは別にしてその仕事に敬意を払っている八田真行氏が、また優れた文章を書いている。
話題はチャット・コントロールで、これには児童への性的加害を防ぐという意義があるが、年寄りからすると、それこそ1990年代のクリッパーチップからずっと続く、国家による暗号化への飽くなき介入の欲望の最新版に思えるわけである。その問題点や有効性についての議論については、この文章に書かれている通りである。
しかし、この文章のもっとも重要な論点はそこではない。人間的な好き嫌い(中略)八田真行氏は、最後に以下のように書く。
ちなみに、私が個人的に恐れているのは、チャット・コントロールのような政府による検閲そのものではない。それによって引き起こされる自己検閲である。監視されていると感じると、人は自己検閲を始める。やがては口頭など本当にプライベートなやりとりであっても監視の目を気にするようになり、ひいては言論はおろか思想自体を自己規制することにつながるだろう。私的な会話を奪われることは、言論の自由を奪われることであり、結局は民主主義社会の根幹を損なうことなのだ。
チャット・コントロールとの戦い(八田真行) - エキスパート - Yahoo!ニュース
自己検閲のおそろしさについて、2006年の時点で看破した人がいる。以下、ブルース・シュナイアーの「プライバシーの不変の価値」から引用する。
あらゆることを監視されたら、我々は訂正、審査、批判、あるいは自身の唯一性が盗まれる恐怖に常に晒されることになる。どんな権威も我々のかつてはプライベートで無害な行為に注目するようになることで我々は監視の目に縛られた子供となり――現在、あるいはいつか未来に――自分たちが残した痕跡に連れ戻されて我々を巻き込むのに常に脅えることになる。そうなれば我々は個性を失う。我々の為すことはすべて監視でき、記録できるからだ。
我々のうちどれくらいが、過去四年半に自分たちが盗み聞きされているかもしれないのに急に気付いて会話を止めたことがあるだろう? 電子メールやインスタントメッセージのやりとりや公共の場での会話でもあったかもしれないが、おそらくは電話の会話でだろう。もしかするとそのとき話題にしてたのはテロリズムか、政治か、あるいはイスラム教か。我々は自分たちの言葉が文脈を離れて受け取られるかもしれないと一瞬怖くなって急に言葉を止め、それから自分たちの被害妄想を笑い、話を続ける。だが、振る舞いが変わるにつれ、言葉も微妙に変わる。
これこそが、我々のプライバシーが奪いさられることによる自由の喪失である。これこそが東ドイツにおける生活、サダム・フセインのイラクにおける生活なのだ。つまり自分たち個人のプライベートな生活に常に光る目を許容した未来なのだ。
The Eternal Value of Privacy 日本語訳
今となっては補足が必要だろう。シュナイアーはなぜ「過去四年半」と具体的に書いたのか? それは彼の念頭にあるのが、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受け、それから間もなく制定された、法執行機関による米国内の(電話盗聴を含む)情報収集に関する規制を緩和し、法執行機関の権限を大幅に拡大した米国愛国者法だからである。
これを読むと、自己検閲が人間の自由をその自らの手で損なうものなのがよく分かる。
シュナイアーがアメリカ同時多発テロ事件を受けて執筆した『セキュリティはなぜやぶられたのか』は未だ価値を持った本であり、「プライバシーの不変の価値」を考える上でももっと早くに文庫化されてしかるべきだったと今更ながら思う。