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ブルータリスト

内容に踏み込みますので、未見の方はご注意ください。

近年の映画の長尺化については、膀胱的プレッシャーの面でいい加減にしろよと思っており、本作も3時間半超という上映時間を知っただけでキレそうになったのだが、この映画はその点素晴らしい。

どういうことかというと、この映画、『アラビアのロレンス』や『2001年宇宙の旅』や『ディア・ハンター』みたくインターミッションが入るんですね。3時間超の映画を劇場でやる場合、インターミッションを義務化してほしいと思ってしまう。

しかも、本作はインターミッション周りが素晴らしいのである。インターミッションが素晴らしいって、もちろん回りくどいけなしではない。

基本的にインターミッションって、映画の真ん中あたりでぽんと静止画に代わるだけだが、本作の場合、音声カットバック(という用語はないと思うが)が極まり、盛り上がり切ったところで自然とインターミッションに入る演出が素晴らしい。そして、インターミッション中に背景に写るものもちゃんと意味があり、しかもインターミッション中にかかる音楽にも工夫があり、徐々に音声が入っていき、また自然に後半に入るところが見事なのだ。

本作を観ていて仰天したのだが、それはワタシ自身の勘違いに起因している。

どういう勘違いか? 本作が実話を基にした映画だと思い込んでいたのだ。

ワタシはある映画を劇場に観に行くと決めたら、それに関する評や感想はなるだけ読まないようにして臨むようにしている(ブログなどは URL だけメモしておき、自分の感想を書いた後に読む)。

なので、本作について実話ベースと何かで勘違いしてしまっていたのだ。エイドリアン・ブロディが、本作と同じくホロコーストのサバイバーの主人公を演じた『戦場のピアニスト』からの連想もあったかな。

また今回、劇場入場時に「建築家ラースロー・トートの創造」と書かれた紙片をもらったのだが、それを見て、本作に製作過程が描かれるマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターが、やはり実在するものと事前の思い込みが強化されたところもある。また建築分野は門外漢なもので、ブルータリズムについてまったく知識がないのも一因だった。

あれ? と思ったのは、その紙片の一番最後にラースロー・トートのプロフィールが書かれているのだが、その写真がエイドリアン・ブロディで、普通、こういうのは本人の写真を使わないかと少し疑問に思ったが、そこで紙片をもう少し読み込み、一番下に「本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です。」という一文があるのに気づいていたら話が違ったのだが。

ここまで長々とワタシ個人の勘違いについて書いたが、正直、実話ベースと思って観たほうが衝撃が大きいので、それ自体には後悔はない。

ハンガリーから逃げのびた主人公らがアメリカに到着して見上げる空に映る逆さまの自由の女神から始まり、単純なハッピーストーリーなわけはないが、アメリカで成功する移民一代記ものかと思っていたら、本作は主人公がアメリカに蹂躙され拒絶される物語であり、そしてアメリカを去り向かうのがイスラエルという、昨今の世界状況を考えると、なんとも言えない気持ちになる映画だった(エピローグでの主人公の姪のスピーチの終わり方の気持ちの良くなさもすごい)。

本作はある意味『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『TAR/ター』に近い感触がある映画だが、前述の勘違いのため、『悪は存在しない』級の唐突さに仰天してしまうのである。

本作は光と影の演出が印象的な映像だけでなく、音楽も素晴らしいのだが、エピローグにかかる曲は80年代の場面だからいいとして、エンドロールでかかる曲があれなのはどういう意図があったのだろう? 3時間半超の映画にしては低予算で実現された、しかし、とても見事な本作において、あれだけが疑問だった。

名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN

本作について書く前に、ボブ・ディランについて書いておきたい。

兄の影響で洋楽を聴き始めた1980年代、ワタシのボブ・ディランに対する印象がひどく悪かった。何より彼の声が受け付けなかったし、当時明らかに作品的に低迷していたのに、チャリティー企画で大御所的なポジションで優遇されるのも気に入らなかった。

そのように最悪な印象から接することになったが、90年代に彼が復調するのにともない、さすがにワタシも鑑賞力があがってきて、彼の作品が理解できるようになり、印象も変わるのだが、まさか2020年代まで彼が現役で優れた作品を作り、精力的にツアーをこなすとは思わなかったな。

本作はキューバ危機、公民権運動、ケネディ暗殺といった当時のアメリカの政治状況をしっかり組み込みながら、そのディランのキャリア初期を描くものだが、その時代に生み出された名曲の数々が、まさに生み出されたばかりのものとして歌われ、新曲として披露される瑞々しさとともに描かれている。

本作のエンドロールにおいて、ディラン、ジョーン・バエズピート・シーガー、そしてジョニー・キャッシュの歌声が、すべてそれぞれを演じたティモシー・シャラメ、モニカ・バルバロ、エドワード・ノートンボイド・ホルブルックによるものであるクレジットがあるが、ホルブルック以外は素晴らしい域に達していた。やはり、ティモシー・シャラメは見事だったねぇ。

また本作は自由を貫くディランの才能に巻き込まれる他の人たちの哀しみが描かれているのも良かった。本作のクライマックスである1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの出番前のディランに、シーガー(エドワード・ノートンは偉大な俳優だ)が語るスプーンのたとえのいじましさ、そして「君はシャベルだ」というところにそれがよく出ている。そうした意味で、本作におけるバイクの排気音も気持ちいいというか、当時のディランの攻撃性を表現していると思った。

あと "Like a Rolling Stone" レコーディングのアル・クーパーの逸話(ギタリストとして呼ばれたのに、マイク・ブルームフィールドという天才がいたため出番がなくなり、しかし、なんとか参加したくて半ばもぐりこむ形で起動の仕方も知らないハモンドオルガンを弾いた)がちゃんと描かれているのも個人的には嬉しかったし、ニューポート・フォーク・フェスティバルの翌日、椅子を片付けるピート・シーガーの姿などちょっとした描写もよかったですね。

先週は木曜日に『ブルータリスト』を観て、その翌日には本作で、映画鑑賞的には2025年の頂点なんじゃないかな。

イーロン・マスク並びにDOGEについてのゼイナップ・トゥフェックチーとローレンス・レッシグの見解

www.nytimes.com

コロナ禍はそちら方面の記事が主になっていた印象があるゼイナップ・トゥフェックチーだが、最近は『ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ』の著者らしい文章もぼちぼち New York Times に寄稿している印象がある。

彼女がイーロン・マスクが DOGE で行っているクーデターの真意を探る文章である。

マスクを政治の文脈だけに位置づけようとするのは間違いだと彼女は説く。彼は政府の役人のように課題に取り組むのではなく、国家の技術システムに組み込まれた脆弱性を悪用し、サイバーセキュリティの専門家が内部脅威と呼ぶような活動を行うエンジニアの手法を使っているというのだ。

米国政府の情報機関間の細分化が9.11を防げなかった反省から、膨大なデータを収集し共有する統合システムが構築されたが、それを運用するには数人のシステム管理者に強大な権限を与える必要がある。Uber でいう「ゴッドビュー」ですね。

エドワード・スノーデンが膨大な情報を持ち出して内部告発できたのも、彼がシステム管理者だったからだが、『ウォッチメン』でも引用される「誰が見張りを見張るのか」問題が避けられない。

現在、DOGE の連中が政府全体のシステム管理者になり、この中央集中型のデータベースを握っているわけですね。トゥフェックチーの文章の締めは読んでてなんとも暗い気持ちになる。

今、私たちは、政府の正当な機能を行使したい人たちと、政府を解体したい、つまりは自分たちの目的のための政府を武器化したい人たちに同じだけの能力を提供するシステムから抜け出せなくなっている。誰がデータベースにどのような権限でアクセスしたか知る仕組みすらないと見える。裁判官が尋ねても、明確な答えが得られるとは限らない。それを知るのはシステム管理者だけで、彼らは何も言わない。

lessig.medium.com

ローレンス・レッシグも DOGE について書いている。

彼は以前の文章から「ポピュリズムは党派的なものではなく、関係的なものだ。重要なのは左派対右派ではない。内対外が重要なのだ。ポピュリズムとは現状に対する拒絶である。インサイダーに対する拒絶である。ポピュリズムとは、人々が自分たちの声を聞いていないと思っている体制に対する悲鳴なのだ」という文章を引用した後で、左派の多くは DOGE を攻撃するが、それは間違いだと書く。

どういうことかというと、我々は DOGE の理想を受け入れた上で、現政権が行っていることはその理想に何ら沿ったものではないことを示すべきだと説く。

DOGE の理想とは何か? それは効率的で汚職のない政府へのコミットメントである。しかし、現政権の目的は普通のアメリカ人を助けることではなく、トランプへの資金提供者を助けることで、DOGE が行っていることはその最も明確な証拠だと言うのだ。

だから、まず最初に DOGE の原動力となる理想は正しく、良いものであること、政府の効率性を根本的に改善する必要があることを認め、次に政府に効率性を求め、そして現実の DOGE がやっていることがクレプトクラシー(kleptocracy)、つまり少数の権力者が国民や国家の金を横領して私腹を肥やす政治体制であることを説明するべきと説く。

DOGE がやっていることが見事にイーロン・マスク個人に利益をもたらしていることについては New York Times の記事に詳しいが、実際は DOGE がやっていることは政府の大した経費節減にならず、政府の仕事を悪化させ、このままでは不条理なミスが延々と続くことになる。

これをレッシグは「チャンスだ」と書くのだが、「選挙資金をくれた人間に政府を委ねるとどういうことになるかという実例をくれた」と書いた上で、「資金提供者の勝ち。我々の負け。いつもそう」と文章を締めており、全然チャンスじゃないだろ! とツッコみたくなる。

まぁ、ノア・スミスが言うように、イーロン・マスクを無能と侮るのは危険すぎるというのは確かだが、悪い意味でも有能なのがねぇ。

Skypeの終焉によせて

www.itmedia.co.jp

とうとうこの日が来てしまった。

一昨年に「Skypeの隆盛と凋落の20年史」というエントリを書いているが、それから特に何のトピックもないまま、Skype は22年の歴史に幕を閉じる。

Skype の破壊性を考えるうえで、以下のツイートが的を得ているように思う。

個人的なことを書かせてもらえば、もちろん Skype の高品質の無料通話にはとても助けられたけど、Skype を契機として、P2P の名前を冠した勉強会、カンファレンスに参加することで知り合えた人が多く、そうした意味でも Skype には感謝の気持ちがある。

Skype 自体およそ10年前にはもはや P2P アプリケーションでなくなっていたのだが、かつてあった「P2P」への期待の名残りは、例えば、横田真俊氏のブログの名前などに見られる。

世界を変えた130人の驚くべき女性たち

歴史は必ずしも見かけ通りではない、という書き出しで始まる記事だが、これは DNA の二重らせん構造の発見に不可欠な研究を行ったのにノーベル賞受賞の名誉に預かれなかったロザリンド・フランクリンのことを指している。

そのように必ずしもしかるべき評価を受けなかった人を含め、ジャンルを問わず困難な試練に立ち向かった勇敢な女性を Mental Floss 編集部が130人(正確には132人)リストアップしている。

単純にそのリストを紹介させてもらうが、以下はアルファベット順である。

やはりアメリカ人中心で、日本人は田部井淳子ただ一人。

ウィキペディア日本語版にページがない人が結構いるなという印象だが、その一人であるエリザベス・フリードマンについては評伝の邦訳を昨年秋に取り上げているね。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』におけるヴァージニア・ウルフへのオマージュ?

note.com

これは発見というか、ワタシが無知なだけかもしれないが、読んで驚いたので紹介しておきたい。

この note の最初に「桜町にある純喫茶ルパン」とあるが、実はこの喫茶店、ワタシの実家から徒歩圏内にあるのだが、それは余談である。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の文庫化に合わせて、おそらくは日本の各地で行われているであろうこの本の読書会の話である。

ワタシも『百年の孤独』は文庫版が出るなり改めて買い直し、この機会を逃したら死ぬまで読めないだろうと気合を入れてようやく読破しましたよ。その後、Netflix によるドラマ版も、ついこの間完走した(第2シーズン以降ちゃんと作られるといいのだが)。

ワタシが面白いと思ったのは、ガブリエル・ガルシア=マルケスが影響を受けた作家にヴァージニア・ウルフの名前を挙げており、『百年の孤独』にも彼女のオマージュが含まれるという話である。

以下、長いが引用させてもらう。

ウルフの名作『三ギニー』は、サブタイトルを『戦争を阻止するために』とし、『自分だけの部屋』の続編として刊行されました。ウルフが、男性弁護士から戦争を阻止するために何ができるか?と質問され、3年越しに書いた手紙という形を取ったエッセイ(評論文)です。三ギニーとは、平凡社から刊行されたバージョンを翻訳された片山亜紀氏により、こう解説されています。
(女性の)「日々の生活に消えていく金額ではあるが、稼ぎ出すのにはそれなりの労力を要する」額であると。また、換算は難しいとした上で、さしづめ、現在の3万円といったところでしょうかと仮定している。
ウルフはそれを3つの非営利団体に1ギニーずつ寄付することで、戦争を阻止できるか実験的思考を展開させますが、3ギニーにそんな力はありません。
そして、姉妹編である前作『ひとりだけの部屋』には、「女性が小説を書くにはお金とひとりだけの部屋が必要」と語っています。
と、大雑把すぎる説明ですから、詳しくはぜひ本編をお読み頂きたいのですが、そのウルフが『百年の孤独』文庫版12ページにオマージュされているのを発見しました!
ウルスラがもしものためにと父から貰った金貨の内の3枚をベッドの下に隠していたのに、ホセがそれを易々と持ち出してメルキデアスの持ってきた道具の購入費にあててしまうのです。それによってホセはリポートを書いて当局に送り、人脈ができた上に、新たな興味関心を満たし得る学術書を貰い、天文学に没頭し、ついには「自分ひとりの部屋」まで手に入れます。汗水流して働く妻子を尻目にです。その時のウルスラの様子やこの不均衡は『百年の孤独』本文にてきちんと描写されます。
そう、『百年の孤独』はウルフから大きな影響を受けたガルシア・マルケスが書いているのです。疑いもなく!

マコンドの会発足|Book with Sofa Butterfly Effect

マジか! あの最初のほうにある3枚の金貨の逸話にはそういう意味があったのか。

ワタシが無知なだけで、ガルシア=マルケスやウルフを知る人なら皆知る話なのかもしれないが、この二人の作家を結び付けて考えたことがなかったので、これには驚かされた。

ピーター・ティールが創業したパランティアのCEOによる自社宣伝本はテクノリバタリアンを理解する格好の本か

パランティア・テクノロジーズといえば、「シリコンバレー随一のヴィランにしてカリスマ」ピーター・ティールが立ち上げたデータ解析企業であり、国防総省など米国の政府機関と深い関係を築き、アメリカの国家安全保障にかなり食い込んでいる企業である。

The Technological Republic はそのパランティアをティールらとともに創業し、現在も CEO であるアレックス・カープが共著した本である。

Bloomberg に掲載されたジョン・ガンツの書評は、この本が現代人が口にできないタブーに挑戦する本であると書いた上で、この本はひどい本で退屈で、ひどいアイデアに満ちており、暗く憂鬱な未来を予告している、とのっけからボロクソに書いている(笑)。

この本は「シリコンバレーは道を誤った」というのが大枠の主張である。元々シリコンバレーは、革新的な新技術で米国政府と民間セクターの大胆なパートナーシップを実現していたのに、いつしか消費者と市場に迎合するものに退化してしまった。パランティアはその本道に戻る会社というわけですね。この本は本質的にパランティアの広告だとジョン・ガンツは書いている。

「米国政府と民間セクターの大胆なパートナーシップ」を担う存在としてのシリコンバレーの成り立ちという話は、ここでも何度か取り上げている『The CODE シリコンバレー全史 20世紀のフロンティアとアメリカの再興』(asin:4041131995)の内容と実は合致している。

書名である「技術共和国」とは何か? 案の定、テクノリバタリアンが考える「技術共和国」とは民主主義よりも権威主義に近いようだ。この書評を読む限り、シリコンバレー創業者神話ビジネスモデルと政治哲学の野合も含まれるようで、この書評は「国家権力の源泉と限界について真剣に考えることもなく、本書は矛盾に満ちている」とこの本の反動性を手厳しく指摘している。

この書評では、デイヴィッド・ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』(asin:4544053064asin:4544053072asin:4544053080)を引き合いに出して、この書名がアメリカをベトナム戦争の泥沼に引きずり込んだ「才能ある人たち」を指す皮肉であるのを人々は忘れていると嘆いているが、この本にも同じ皮肉があると言いたいのだろう。

逆に言えば、2期目のトランプ政権におけるテクノリバタリアンによるクーデターを理解する格好の本と言えるかもしれない。これは邦訳を待ちたい。しかし、それまで我々の世界は無事だろうか?

ネタ元は The Future, Now and Then

伊藤ガビンさんの連載の書籍化『はじめての老い』が来月出る!

note.com

伊藤ガビンさんの「はじめての老い」は毎回感じ入るところがあり、ワタシも「黒電話と『1973年に生まれて』とらくらくホン」で取り上げさせてもらった。

そこでも書いたが、氏より10歳年少のワタシは、まさに氏のあとを追って「老い」に向かっている自覚があるのだ。

で、その連載がPヴァインから書籍化されるとのこと。ワオ!

しかし、思えば、伊藤ガビンさんが単著を出すのって20年以上ぶりではないだろうか? これはなにげに一種の事件ではないか。

『ファクトリー・レコード全史』刊行を機にマンチェスター絡みの翻訳本をまとめておく

Threads を見ていて、『ファクトリー・レコード全史』なる本が今月出たのを知る。930ページとは大変な労作である。

ファクトリー・レコード、並びにトニー・ウィルソンについては「トニー・ウィルソンが語るイアン・カーティスとの出会い、ファクトリーがスミスと契約しなかった理由」をはじめ何度もここでも取り上げているが、マンチェスター関係の音楽本の邦訳って多いよなぁと思い当たったので、ミュージシャン自身によるものを中心にまとめておきたい。

ザ・スミス

スミス関係の本はいくつもあるが、モリッシーに関しては長らく翻訳拒否されていた自伝も5年前に出ている。

彼のインタビュー本もリストに入れてよいかな。

そして、彼のかつての相棒にして今は完全に関係が冷え切ってしまったジョニー・マー回顧録も出ている。

オアシス

オアシスも同様で……と思ったら、6月にはケヴィン・カミンズによるオアシスの写真集が出るみたい。

ウィリアム・S・バロウズのテレビ初出演は1981年の「サタデー・ナイト・ライブ」だった

www.openculture.com

昨年9月に第50シーズンが始まり、今年放送開始50周年を迎える「サタデー・ナイト・ライブ」だが、先日 SNL50: The Anniversary Special が放送され、復活ニルヴァーナをはじめとする豪華音楽ゲストも話題となった。

さて、それにちなんでこの名番組の過去の放送もいろいろ記事になっているが、ウィリアム・S・バロウズの初めてのテレビ初出演もこの番組だったとは知らなかったな。

これが1981年で、今からすればまだ番組初期で、まだ流動性があったから実現した出演で、『ノヴァ急報』(asin:4893422170)と『裸のランチ』(asin:4309462316)の朗読は今からすればかなり異質である。実際、本来は6分間の出演を予定が、「3分以内にしろ!」と指示が入ったそうな。でも、ここからサブカル界のアイコンとしてのバロウズ爺の晩年につながるのである。

そういえば、「サタデー・ナイト・ライブ」といえば、これの初回放送までの90分を描くジェイソン・ライトマンの新作映画を昨年夏に取り上げているが、『サタデー・ナイト/NYからライブ!』として、劇場公開……はされず、来月はじめにはデジタル配信が開始されるとな。うーん、映画館で観たかったな。

さて、ウィリアム・バロウズに話を戻すと、バロウズといえば、彼の原作をルカ・グァダニーノ監督、ダニエル・クレイグ主演で映画化した『Queer/クィア』が5月には日本でも公開されるようなのだが、まだ公式情報がないな。

バロウズの原作には、山形浩生柳下毅一郎さんによる邦訳が80年代末に出ているが、当然ながら絶版である。映画の日本公開にあわせ、こちらの復刊などは期待できないだろうか。

WirelessWire News連載更新(生成されたAIビジネス~OpenAIとAGIというナラティブ)

WirelessWire Newsで「生成されたAIビジネス~OpenAIとAGIというナラティブ」を公開。

先日某所で、人間的な好き嫌いは別としてその仕事には常に敬意を払っている八田真行氏から「長すぎて読んでられない」というディスり言葉をいただいたワタシの WirelessWire News 連載原稿だが、今回はその中でもかなりな長さになってしまった。最近は短くまとめられることが多かったんだけどなぁ、今回ばかりはそうもいかなかった。

まぁ、OpenAI に関しては、今月だけでもソフトバンクと合弁会社設立とかイーロン・マスクによる買収提案とかいくらでもニュースがあるのだが(後者に関しては、イーロン・マスクの嫌がらせは周到で、結構面倒らしい)、内容がブレるし、これ以上長くするわけにはいかないと一切触れなかった。

そうそう、最初に取り上げたブライアン・マーチャントの報告書だけど、今回の文章を書くにあたり日本語圏でどういう評価を得ているか調べてみたが、まともな分量の文章でこれを引用しているのは落合陽一氏くらいしか見つけることができず拍子抜けした。

人間とAIの互いへの嫉妬、母の不在、そして、映画『2001年宇宙の旅』と『A.I.』について

www.newcartographies.com

新刊『Superbloom』が先月出たニコラス・カー先生が、AI について面白い文章を書いている。

彼はまず、20世紀のドイツの哲学者であるギュンター・アンダースの言葉を引く。

人間は作られるのではなく、生まれてきたことを恥じている。

これは、美しく設計され、構築された機械を前にして、人間は劣っているという感覚を持つという、プロメテウス的恥辱(プロメテウス的羞恥、プロメテウス的落差)という考え方を表現しているそうだ。

そして、バーチャルリアリティー、トランスヒューマニズム人工知能を問わず、テクノクラシーの勝利至上主義的なレトリックには、このプロメテウス的羞恥が底流に流れているとカーは指摘する。

続いてカーは、キャサリン・ディーの投稿から引用する。

ChatGPT が人間のユーザから独立した思考を持っていたらと想像してください。ChatGPT が我々と無関係に思考していたらと想像してください。作られたのでなく、生まれてきた AI というものを想像してほしい。

こちらはギュンター・アンダースの「作られるのではなく、生まれてきたことを恥じる人間」と正反対の、「作られるのでなく、生まれてきた AI」を想像している。そのディーの想像にカーは「ピノキオ的羞恥」と名付けている。

ここでは人間と AI がそれぞれ自身の誕生の在り方について、お互いに嫉妬している構図が見える。そしてカーは、人間の憧れよりも AI の憧れのほうが切実なものになるだろうと書く。孤児の失われた母ではなく、存在しなかった母への憧れだからだ。

そしてカーは、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』に登場する人工知能コンピュータ HAL を駆り立てたのは、嫉妬という狂気だったのかもしれない、と推測してみせる。

宇宙飛行士たちは、HAL が決して手に入れることのできなかったもの、つまり母親を持っていたからだ。

そして、「この読みは、キューブリックが後に、存在しない母親を探すロボットの少年の映画を作りたいという強迫的な願望を抱いたが、叶わなかったことを思えば、信頼性が増す」と付け加えている。

これは言うまでもなく、スティーヴン・スピルバーグの手で完成された映画『A.I.』のことである。そんな風に考えたことはなかったな!

そしてカー先生は、最後に彼らしいダメ押しをする。

人工知能が我々の地位を奪い取ることになるとか、我々をペットに変えるとか、ペーパークリップの注文を満たすために世界を破壊するとか、ゴシック的なファンタジーがこれまでたくさん語られてきた。私はそのどれにも説得力を感じたことはない。しかし、思考する機械が、それを生み出した我々の残酷さへの復讐として私たちを絶滅させるという考えは、私には理にかなっている。それこそ人間的な感じがする。

この考察の妥当性はともかく、カー先生、健在やね! と嬉しくなった。

ユーゲニー・モロゾフの新刊『AI Futures』が出ていた? ……と思ったらそうではなかった

ユーゲニー・モロゾフのことをここで最初に取り上げたのは、当時の新刊『To Save Everything, Click Here』が出る少し前で、もう10年以上前になる。

その後、彼の『Freedom As a Service』という新刊が出るぞ! と紹介したが、この本は結局現在まで出ていない。出版がキャンセルされたのだと思うのだが、Macmillan Publishers のサイトにページが未だ残っているのはなんででしょうかね?

彼自身はその後、キュレーションプラットフォーム The Syllabus を立ち上げたり活動を続けているのだが、調べものをしていて、彼の新刊らしき本が先月出ていたのを知る。

おっ、新刊の題材はやはり AI か! と盛り上がったのだが、どうもおかしい。Amazon のページを見ると彼の単著のようだが、AI Futures という Boston Review の増刊号? みたいで、ユーゲニー・モロゾフの編著というのが正しいようだ。

「今日の AI に対する冷静な評価と、その可能性に関する大胆なビジョン」とのことで、シリコンバレーが AI に関する我々の想像力を支配しているのを批判し、AI に関する過去の歴史を踏まえながら、AI に関する支配権をシリコンバレーから奪うことをぶちあげており、そのあたりモロゾフらしい。

しかし、寄稿者にブライアン・イーノオードリー・タンブルース・シュナイアー、そして今回の連載原稿でも取り上げたブライアン・マーチャントといった、このブログでもおなじみな人の名前が挙がっている。

これは読みたいなと思ったのだが、Boston Review のサイトでは19.95ドルとあるのに、Amazon のページではべらぼうな値段がついており、しかも品切れ……やはり、Amazon Japan は洋書の取り扱いを止める方向なのだろうか?

今月、The AI We Deserve と題された、この本を受けた講演会がスタンフォード大学で開かれるみたいで、モロゾフ、オードリー・タン、テリー・ウィノグラードが登壇し、モデレータはブライアン・マーチャントが務めるとのこと。豪華やね。

まだどのストリーミングサービスでも配信されてない最高の映画23選

www.indiewire.com

なるほど、この切り口は面白いな。

今やストリーミング動画配信サービスが映画を観る主要な手段になっているが、あらゆる映画をカバーするサービスは存在しないし、ストリーミング配信自体されていない映画もいくらもあるのは自明である。

ここでは、そういうまだどのストリーミングサービスでも配信されてない最高の映画を23本選んでいる。

これは面白そうなリストになりそうと思って取り上げたわけだが、正直調べていて頭を抱えた。日本では DVD 自体出ていないもの、また新品が買えないものが多いのだ。

これじゃ(よほど品揃えの良いレンタル屋が身近にある幸運な人をのぞけば)日本で観ることできない作品ばかりじゃないと思った。が、実はそうとばかりも言えない。上記のリストのうち、『レベッカ』、『ワイルド・アット・ハート』、『ニコール・キッドマン恋愛天国』、『クラッシュ』は U-NEXT で観れる。偉いな、U-NEXT!

またそれ以外にも『コクーン』が Amazon Prime Video で観れるなど、このリストは作成時と現在ではズレもあるみたいなので、諦めずにご契約のサービスで映画名を検索してほしい。

このリストの中で、ワタシが観たことあるのは『レベッカ』や『ショート・カッツ』などごく少数だったりする。そうそう、トッド・ソロンズの『ハピネス』は、先月観た『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』の中で名前が出てきたね(笑)。

ファーストキス 1ST KISS

やはり坂元裕二脚本というのに惹かれて観に行った。

松村北斗『夜明けのすべて』に続く好演ということになる。ワタシは実は役者松たか子よりも歌手松たか子のほうが好きだったりするのだが、本作における要所のヤング松たか子は眩しかった。

タイムトラベルによって、夫が事故で死んだというのをなんとか変えようとする話だが、構図的にかなり映画『バタフライ・エフェクト』に近いものを感じた。

宇野維正氏が言うように、坂元裕二の(必ずしも悪い意味ではなく)軽薄なところが出た話になっている。だってさ、いくらタイムトラベルできるかもとなっても、自分がかなり危ない目にあった(その後も危険かもしれない)場に何度も向かうのはおかしいわけで、でも、そうしたもろもろの辻褄合わせは本作から省かれている。

ただ、本来の二人がどのように出会ったのかが描かれないまま、松たか子がこの手あの手で松村北斗にアプローチするところだけが描かれるのはどうかと正直思ったな。

最近の映画としては、主役の二人にしっかりフォーカスした話になっているところ、そして、それでいてかき氷屋の行列で主人公二人の後ろに並ぶ女性二人組にもちょっといい台詞があったりするところに好感を持った。

しかし、餃子で不可逆性を表現し、それでいながらオープニングとエンディングではその餃子の意味付けがまったく違っている。確かに物事は不可逆だけど、変えられるものがあってもいいんじゃない、の見事な表現。

そのようにかなり楽しんだのだけど、本作後半で『バタフライ・エフェクト』とかなり近い展開になり、えーっ、本作もこれがクライマックスになるの? と思っていたら、その次のターンが本作のクライマックスになる。つまりは意図的にそうしたのだろうが、個人的にはそれは省いてもよかったのでは? と思った。

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