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「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑧(最終) /「一瞬で伝えるわかりやすさの技術」斎藤孝 大和書房 2010年 ③【再掲載 2016.5】 [読書記録 郷土]

今日は1月12日、日曜日です。

今回は、1月9日に続いて、岩田書院の
「浜松まつり―学際的分析と比較の視点から」の紹介8回目 最終です。

出版社の案内には、

「5月の連休中、静岡県浜松市は『浜松まつり』一色になる。ラッパの
音とお囃子の音、砂煙の上がる大凧揚げ、夜の街路での提灯の灯りと
練りの声…。その魅力を、日本史・社会学・古典芸能・ヨーロッパ史
の各分野から学際的に分析する。」

とあります。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「1929(昭和4)年、野口町と八幡町が一重屋根で彫刻入りの本格的御
殿屋台(掛塚型)をつくる。以後、底抜け屋台から御殿屋台への流れと
なっていった」


・「1934(昭和9)年、浜松放送局(現NHK浜松支局 ラジオ放送)から
夜祭りの様子が実況される」


・「神社祭礼との一体化」


・「1938(昭和13)年、日中戦争開始により中止」




もう一つ、再掲載になりますが、斎藤孝さんの
「一瞬で伝えるわかりやすさの技術」③を載せます。




☆「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑧(最終)

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◇第1部 浜松まつりの歴史的検討(7)


(5)「浜松凧祭」への発展 - 昭和戦前期 1 御殿屋台の登場
1930年5月末 天皇巡幸 
     → 天覧の凧揚大会
48組2400人(1組50人)


  底抜け屋台 → 御殿屋台
    1929(昭和4)年 
      一重屋根で彫刻入りの本格的御殿屋台(掛塚型)
      野口町と八幡町  
→ 昭和10年ごろを中心に5,6年間に30台近く
         (全国トップクラスの織物生産地)

1934(昭和9)年 
      浜松放送局 夜祭り実況

1935(昭和10)年 浜松放送局 
      凧揚げ実況

    ※ 神社祭礼との一体化



2 日中戦争による中断
1936(昭和11)年 1937(昭和12)年  
    空前の高揚ぶり

1938(昭和13)年 
   日中戦争開始により中止

  1940年 
紀元2600年奉祝 11月10日11日屋台引き回し



□おわりに

要因 
  ① 各町の自治意識 町民の遊び心 地域の層の厚い経済力
   各町消防組の規制的集団 地域経済活力

  ② 町民・市民意識を育てていった 
自主的地域意識
  
  ③ 警察の指導を媒介にして統制・規制のアミがかぶせられていく
明治末~大正期  地方改良運動
大正後期     民力涵養運動

※参考文献
「浜名郡史」
 国鉄浜松工場「40年のあゆみ」1953
「浜松警察の百年」中央警察署 1971
 山崎源一「椿観音 凧と屋台」1983
 中村善太「浜松凧揚祭史」1997 
 荒川章二「軍隊と地域」 青木書店 2001






☆「一瞬で伝えるわかりやすさの技術」斎藤孝 大和書房 2010年 ③【再掲載 2016.5】

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◇自分の考えを紙一枚で伝える3つの手法

① 思考のプロセスを記録する
WHYとHOWを説明する

   思考のカオスからコスモスを生み出す

   日本人はインパクトよりも物語性を好む

 「KJ法」 川喜多二郎情報整理法
  似通ったカードを近づけ、いくつかのグループに分けていく
 - ブレーンストーミングと1セット
  ※ 書き込む時点ではバラバラでも、少しずつ相互の関連性を積
    み上げていくと、やがて大きな全体像が浮かび上がる

「カオスマップ」でアイデアの出所を可視化する

  3分割で弱点を補強する
  およそ人間の思考は、本人が考える以上に思い入れに影響され
   やすい


② ホップ・ステップ・ジャンプ思考術
   三段階に分けて具体案を出す
  ホップ … 現状認識や課題  
ステップ … 解決方法
ジャンプ … 具体化した結果

   自分の思考のプロセスを文字化したり図化したりすることで整理
  し、説明する

人の話をマップに落とし込む
  常に相手の話を「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」に分割する
   コツ
→ テレビ番組で鍛える

  成功例も失敗例もプロセスに焦点を当てる


③ 相手をうならせる「シート化」アウトプット法
アウトプットには「型」がある

   「ジャンプ」を提示して「ホップ」「ステップ」を説明

いい型は困難な作業を容易にする

   すべては「すごいよシート」「ここがちがうよシート」
    3つずつ書く
   何か比較になるものを持ち出すのが最も効果的
     「違う」と「似てる」のセットでより立体的に
     
   一人連想ゲームのすすめ 
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「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑦ /「ストレスから子どもを守る本」富田富士也 PHP 2000年 ② 後半【再掲載 2015.12】 [読書記録 郷土]

今日は1月9日、木曜日です。


今回は、1月6日に続いて、岩田書院の
「浜松まつり―学際的分析と比較の視点から」の紹介 7回目です。




出版社の案内には、


「5月の連休中、静岡県浜松市は『浜松まつり』一色になる。ラッパの
音とお囃子の音、砂煙の上がる大凧揚げ、夜の街路での提灯の灯りと
練りの声…。その魅力を、日本史・社会学・古典芸能・ヨーロッパ史
の各分野から学際的に分析する。」


とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「19168(大正5)年、統監部が設置され、警察の介入により一挙に秩序
化した。規制と引き替えに凧合戦と夜の屋台引き回しは公的庇護」


・「1919年、統監部には全市を4部にした4人の代表者。練兵場周辺農
家と凧揚げとの対立が目立った」


・「1923年、浜松市青年団から浜松連合凧揚会がつくられた。教育奨
励、団体的競技、尚武の気性錬磨』を特色として、仮装や化粧が排
 除された」


・「1926年の『浜松市史』にある『浜松城記』は、男性化が協調される
そのタイミングで出現化した史料である。360年の伝統としての権
  威づけのためと考えられる」





もう一つ、再掲載になりますが、富田富士也さんの
「ストレスから子どもを守る本」②を載せます。




☆「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑦

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◇第1部 浜松まつりの歴史的検討(6)


(4)浜松「凧揚祭」の成立 - 大正期

1 統監部の成立
凧屋  
    すみた屋 と 一瀬堂 
    三帖まで

凧組  
    50~60人

1916(大正5)年 浜松市連合会青年会 方針
① 統監部設置 
    ② 各団体は5人ずつ 
    ③ 5月1日~5日に 伊場市有地+練兵場
    ④ 優勝を争う競技として糸切り合戦 
    ⑤ 畑作物に対する賠償
◎ 警察の介入により一挙に秩序化
    ◎ 規制と引き替えに凧合戦と夜の屋台引き回しは公的庇護
    ◎ 毎日数万の観衆を集める浜松市最大のイベントに   

  1918年 
    46組  

  1919年 
    40組
  統監部 
      全市を4部に → 4人の代表者
〇 練兵場周辺農家と凧揚げとの対立



2 祭りの男性化と歴史伝統の形成
1912(大正11)年 
    五社神社 = 市の総社
例祭日
      5月4日 - 4日は休み(全市)
  3日 前夜祭 
        5日は端午の節句

  1923年 
    東海地区の駅に宣伝ポスター
   ポスター
    「体育奨励」「浜松名物凧揚」「男性的競技」
    浜松市青年団
     → 浜松連合凧揚会
特色 「体育奨励、団体的競技、尚武の気性錬磨」
           → 仮装・化粧の排除

1926年「浜松市史」の「浜松城記」は?
    男性化が協調されるそのタイミングで出現化した史料
     = 「360年の伝統 権威づけ」のためか?
  
  集団の組織は基本的に大正期を通じて確立した     
統監部 浜松連合凧揚会 糸先 先回り 子供監督









☆「ストレスから子どもを守る本」富田富士也 PHP 2000年 ② 後半【再掲載 2015.12】

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◇ストレスによる症状
自律神経のバランスが崩れると機能障害が起きる
 ・自律神経 
        ①交感神経
   ②副交感神経
・体の疲れと心の疲れは密接に関係している
    起立性調節障害
         → 一緒に寝る 歌・本 
         → いつもそばに家族   
・不定愁訴って何? 
       生活リズムの乱れとストレスの存在
・ストレスが体に変調をもたらした心身症 
       チック症でしか
   - 深い愛情と理解


◇ストレスをためやすい子どものタイプ
性格は遺伝と環境で決まる

  いい子ほどストレスをためやすい
    内気,神経質,几帳面,完全主義

タイプA 合理性,迅速性を求め,他人にも強いるタイプ

  子どもが引きこもる理由
    けんかして仲直りする能力が不足している

  ストレスは性格の短所を肥大化させる

  せめぎ合って,折り合って,お互いさま
    コミュニケーションスキル,コミュニケーションワーク     
    本音を記すことから - けんかして仲直りする能力
    「還る家」はありますか?  


◇防衛は心身を守る知恵
心には癖がある 
    ストレスに反応しやすい = 自己防衛力が強い
   抑圧,同一化,補償,転換,反動形成,昇華,合理性,退行,
    攻撃,逃避,投影  
 困らせることも訴えの一つ

  防衛規制は心の悲鳴


◇10の処方箋
  1 子どもの訴えに耳を傾けて聴いてあげてください 
      評価・肯定

2 ストレスは分かち合えることを伝えましょう   
      シェアリング

  3 時には不安の先取りをしてあげる

  4 子どもに肯定的な関心を示しましょう

5 子どもの長所を褒めてあげましょう

6 感動体験を積み上げさせよう

7 子どもを親の価値観で縛り上げないでください

8 間のとれる人間に育てましょう

  9 親がコミュニケーション能力を示しましょう

  10 弱音が吐けると未来が開けます

  ※「せめぎ合って(感情交流),折り合って(合意形成・歩み寄り)
    お互いさま(相互扶助・信頼)」
     - 手間暇掛かる人間関係作りをおろそかにしてはならない

  心を耕す
   = 手間暇掛けて心の田んぼを耕せば子どもたちに大きな実りが
    もたらされる
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「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑥ /「職員室の経営学」 飯田稔 ぎょうせい 1998年 ⑥(最終)【再掲載 2015.3】 [読書記録 郷土]

今日は1月6日、月曜日です。


SSブログサービスが終了するため、
Seesaaブログ「いま ここ 浜松」に移ります。
移設先にも同じ記事はありますが、レイアウトの変更はしておりません。


今回は、12月26日に続いて、岩田書院の
「浜松まつり―学際的分析と比較の視点から」の紹介 6回目です。




出版社の案内には、


「5月の連休中、静岡県浜松市は『浜松まつり』一色になる。ラッパの
音とお囃子の音、砂煙の上がる大凧揚げ、夜の街路での提灯の灯りと
練りの声…。その魅力を、日本史・社会学・古典芸能・ヨーロッパ史
の各分野から学際的に分析する。」


とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「1909年の『5月の凧揚げ』は4月末~5月初めまで行われた。山場
の5月5日の凧揚げは『見物人黒山のごとく』となり一大イベント
  化された」


・「1909年春、ダダ広い鉄工場の空き地となり5月5日の1日のみ」


・「1910年に空地の2/3が市に返還され、凧揚げ会場からの一斉帰還、
市中への凧を担いでの練りが行われた。
 『浜松の凧揚げ騒ぎ』になったということができる。」


・「1912年に練兵場を5月3日から5日まで連続で借り受け、イベント
として『底抜け屋台』と、そろいの手拭い・鉢巻き・町旗・町名入
  り提灯が登場した。軍隊が『協賛』する公認の祭りとなり抑圧的規
  制から統制された競技へと変容した」




もう一つ、再掲載になりますが、飯田稔さんの
「職員室の経営学」⑥を載せます。
この頃報道される地方行政の長の問題、
「校長」を「行政の長」に置き換えて読むことができませんか。




☆「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑥

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◇第1部 浜松まつりの歴史的検討(5)

(3) 凧揚げ会場と屋台の登場-明治末
1 凧揚げ会場の設置と凧揚げの祭り化第一幕

  日露戦争後の不況下歩兵連隊の設置で特異な好景気
  → 1908(明治41)年末~翌年 激しい不景気

①1909年 「5月の凧揚げ」4月末~5月初め
 山場の五月5日の凧揚げは「見物人黒山のごとく」
     一大イベント化

  ②ダダ広い鉄工場の空き地
1909年春 工場用地が空き地  
     5月5日の1日のみ

③凧揚げ後の市中への凧を担いでの練り 
凧揚げ会場からの一斉帰還
1910年 用地の2/3が市に返還 
◎表現 「浜松の凧揚げ騒ぎ」


2 浜松市制施行 和地山練兵場の使用開始と「底抜け屋台」の登場

  1911(明治44)年7月1日

1912年 練兵場を5月3日~5月5日まで連続で借り受けた
5月3日 1万人
5月5日 5万人
イベントとして「底抜け屋台」
そろいの手拭い・鉢巻き・町旗・町名入り提灯
- 軍隊が「協賛」する公認の祭り化
   ◎抑圧的規制から → 統制された競技に







☆「職員室の経営学」 飯田稔 ぎょうせい 1998年 ⑥(最終)【再掲載 2015.3】

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◇校長の知らぬ間に
卒業生寂しく帰る 
  学校の都合ばかりが 
  お礼の品は
 

◇我が町の近所の人と
家に帰れば  
  気さくな先生  
  地域の一員  
    やはり煩わしいが
教師自身の生涯学習とボランティア活動


◇通じる話と通じにくい話
トップの自覚 
    [人柄の良さ・清き明けき心 + 勉強・判断力]
緊張の仕方
ポケットマネーの発想 
    謙虚さ
肩書きがなくても 
  地金の善さ


◇人間関係の智恵を
人間関係の機微 と 人間関係の知恵 
他人のことによく気付く 
  人格低劣な裸の王様にも‥
プライバシー保護
人を見抜く力を


◇学校の常識と世間の常識
封書の表書きがレポート用紙に?


◇結婚式のスピーチ
新生活か第二の人生か
忌み言葉は避けて
スピーチには予備を


◇リーダー
叱咤と激励を巧く組み合わせること


◇職員会議・校長の権限
職員会議 
   「荒れる職員会議と沈黙の職員会議」
問われる校長像
校長の学識・常識・見識 → これからは活私奉公
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「禅定山大通院本堂落慶記念誌」大通院2019年 /「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再々掲載 2013.12】 [読書記録 郷土]

今日は12月30日、月曜日です。


今回は、
「禅定山大通院本堂落慶記念誌」を紹介します。


臨済宗方広寺派の大本山、方広寺(奥山半僧坊)の寺院です。
以前は中本山として広大な寺領に塔頭4寺がありました。



もう一つ、再掲載になりますが、方広寺についての伝説、
「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」を載せます。


<ラジオ放送のご案内>

新年1月1日午前1時台に、
NHKラジオ第1で新春寄席が放送されます。
第一日目の新作講談は[昭和を彩った偉人たち]として
浜松市雄踏町出身のフジヤマのトビウオ「古橋廣之進」、
出演は浜松市出身の田辺一邑さんです。



☆「禅定山大通院本堂落慶記念誌」大通院 2019年

□大通院の山門 … 黒門
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◇山門
  黒門(265年前再建)
  「禁葷酒」の碑(204年前再建)


◇由緒ある禅定山 大通院
  昔 32町歩の寺領
    総ケヤキづくり6間四方の舎利殿・開山堂・山門
    修行道場

  中本山として4か寺の塔頭寺院
    末寺59か寺(現在42か寺)


◇開山
  的伝一着禅師
    方広寺開山・無文元選禅師の孫弟子

  1401(応永8)年に大通院開山


◇大通院の歴史
  方広寺派の由緒寺院 中本山
    大通派(方広寺派6派)

  寺領 境内約八千坪 山林約八万六千坪 
     田約二千坪 9万6千坪32町歩
     今川氏真により永禄10(1567)年寄進された・安堵状

  住職は輪番 明応2(1493)年~ 毎年の交代制
        現在389世

  通称・宗徹和尚 老師として弘化2(1845)年44歳~ 9年間
     「通応様」
    
  明治初め廃仏毀釈
    新津小への建物・土地譲り渡し
  
  大正15(1926)年 大火災
    山門以外の堂宇をすべて焼失
  
  戦後 農地解放
      中学校、清明寮への譲り渡し
 ※ 厳しい仏道禅の修行道場のあった土地で現代の子供たちが学習・
  人格育成

 386世 昭和61年 礒貝光山氏 安泉寺住職 9年間

 371世 明治35年 中嶋宗普氏  高福寺住職 3年間








☆「半僧坊由来-引佐郡引佐町奥山」<引佐郡引佐町奥山(現在は浜松市)の伝説(3)>【再々掲載 2013.12】

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 <方広寺-日本政府観光局HPより>

 浜松地方での、明治のころの旅行の楽しみといえば、周智郡春野町犬
居の秋葉山詣でと、引佐郡奥山の、半僧坊参詣位のものであった。


 半僧坊とは、臨済宗方広寺派本山、深奥山方広寺の境内に祀られてい
る一堂である。




 600年の昔のことである。


 奥山城には、奥山六部次郎藤原朝藤が、部下数千を率いて、この地方
を統治していた。


 延元元年(1336年)京都では、南北に分れて兵乱が起った。


 この時、後醍醐天皇の第二皇子、宗良親王が遁れてこの城に入った。


 つづいて興国4年には、後醍醐天皇の第十一皇子、無文禅師が遁れて
きた。


 無文禅師はこのごろすでに、人間相剋の世に無情を惑じて、剃髪して
憎となっていた。


 奥山次郎朝藤は、

「ようこそ」

と、わが身を頼られる嬉しさに、奥山城の奥に、一寺を建立して、禅師
を迎えて開基とした。


 これが方広寺である。


 禅師がかくして方広寺を開くときくと、この裏山に数百年来住んでい
る山神は、不愉快でならなかった。


「おれの住居に寺を建てるとは、怪しからぬことだ」

と悠っていた。


 そして噂にきけば、無文禅師は非常な名僧智識であるというが、

「人間ども、なに程のことやある」

と、彼はある日、山を下りて、方広寺を訪れてきた。



「われはこの山に、年久しく往む山神である。和尚と問答を試みんぞ」

といいだした。


「よし、やろう」


 禅師はこころよく迎えて、問答を始めた。


 多年山神として山に往み、仙術を会得している山男と、新進の学問に、
頭脳を磨き上げた名僧との問答は、言々火をはぎ、句々焔を燃したが、
ついに禅師の勝利となってしまった。


「私は到底、禅師にはかないません」

 山男は兜を脱いだ。


 そして禅師の名僧なのに、心から敬服して、

「この上は是非とも、御僧の弟子として下さらんか」

と願いだした。


「いやいや、あなたは仙術を会得した方、私如き凡人の弟子とならなくても」


「いえ、貴僧のお教えこそ、深く頃きたいもの、是非ともに」


 山神のたっての願いに、禅師は弟子となることを許してやった。


「では、憎となるなら、頭を丸めて」


「是非にも」


 禅師は剃刀を持って、山神の頭をそり始めた。


 しかし年久しく山に住んで、頭髪には嘗て一度も櫛を入れた事がない
こととて、剃るその痛さはたえられなし。


「痛い痛い」


「もう少しだ。がまんしなされ」


「痛い痛い、もうこれでいい」


 流石の山神もがまんがてきなくて、頭を抱えて逃げだしてしまった。


「駄目だよ。それでは半僧だよ」


 禅師は笑った。


「いい、いい、半僧でよろしい。おれは半憎でこの土地を守護しよう」


 山神はそういって、方仏寺の傍に一堂を建てて、そこに静かに往んで、
方広寺の守護神となったのである。


 それでこれ以来、これを半僧坊というのであると。




 この半僧坊は非常に霊験ある神であるという。

 いつのことであったか、浜松市○○地区の、ある寺の住職が、方広寺
で無言の行を修めてしる時、ふとして禁を破った。とその時どこともな
く、


「今ただちに、物見せん」


という声がした。


 住職ははっとして、身の震うのを覚えた。


 住職は禁を破ったこととて、今は本山にもいられず、下山して自分の
寺に帰った。

 ところがその時すでに、寺は焼けて灰となっていた。


「おお、何日火事が」


「昨夜の8時に」


「えっ8時?」


 それは彼が、本山で禁を破って、不思議な声をきいたのと、同じ時刻
であったということである。

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「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑤ /「心いっぱいに育て」和田重良 くだかけ舎 2001年 ②【再掲載 2016.5】 [読書記録 郷土]

今日は12月26日、木曜日です。


今回は、12月23日に続いて、岩田書院の
「浜松まつり―学際的分析と比較の視点から」の紹介 5回目です。




出版社の案内には、


「5月の連休中、静岡県浜松市は『浜松まつり』一色になる。ラッパの
音とお囃子の音、砂煙の上がる大凧揚げ、夜の街路での提灯の灯りと
練りの声…。その魅力を、日本史・社会学・古典芸能・ヨーロッパ史
の各分野から学際的に分析する。」


とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「明治20~30年代、寄付金集めが常態化した」


・「明治末、共同体の祝いという性格よりは、たかり性を強め初節句の
家の生計を狂わせた。広がった報徳思想の勤労・勤倹という近代的
徳目にも反しているとして浜名郡下では凧揚げの風習が下火になっ
た」


・「下火にはなったが、たかりを許容できるだけの町の経済発展があった」



もう一つ、再掲載になりますが、和田重良さんの
「心いっぱいに育て」②を載せます。



☆「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ⑤

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◇第1部 浜松まつりの歴史的検討(4)

(2) 凧合戦の開始 - 明治前・中期 ②

3 明治20~30年代
□「静岡民友新聞」「浜松拍子」
① すでに有名な催しに 30余組-相当数の群衆

② 糸切り合戦  町の屋号も成立

③ 4月下旬~ 最高潮 5月5日最終日

④ 停車場の東部・南部の田圃

⑤ 陣屋を設置して合戦が行われた

⑥ 各町で子どもの役割も形

⑦ 流血伴う喧嘩が頻発-警察沙汰も

  → 常態化する寄付金集め


□明治末 浜名郡下では凧揚げの風習が下火になる
  衰退の要因    
共同体の祝いという性格よりは、たかり性を強め、初節句の家
   の生計を狂わせ、広がった報徳思想の勤労・勤倹という近代的徳
   目にも反している

  規制強化  
    部落(旧村)単位の若者組から村単位への青年会の改組
    日露戦争後の官製的な青年会への改組推進政策

  
□浜松町の産業発展   
1889 東海道線
1893 遠江織物組合

  浜松商業会議所
 
  三大会社
    ①1896 帝国制帽 ②1897 日本楽器 ③1900 日本形染
   
  ◎「たかり」を許容できるだけの町の経済発展があった 







☆「心いっぱいに育て」和田重良 くだかけ舎 2001年 ②【再掲載 2016.5】

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◇正しい答えを要求されて
応答せよ 
   → 返事がないとき
      ◎ 「あのね、完全な答えじゃなくていいんだよ」
     × 「返事をせよ」
   → 学校や家庭で「答える」「正しく答える」ことを徹底して訓
    練した結果、人と人との気持ちの交流に大切な「応ずる」こと
    ができなくなってしまった
  ◎ まず応ずる。そして答える。


◇いろいろなものから学ぶ心
「人生科」 
     味わう ← よく見てよく聞く
言葉での理解を捨てたとき、すっと入ってくる
  学びにくい学校 
   = 教科の学習
学ばなければ進歩はない 
     自然(=言葉で教えてくれないところ)が一番
     次に知的な欲求 


◇あそびは人間をつくる
生活全体が遊び 
    子どもたちにとっての遊び -工夫があり創造性があること  
くだかけ生活舎 「規則、年齢、強制のない共同生活」
  大変気に掛かるのは青少年のアルバイト感覚
   = ろくに仕事ができなくても仕事として時間を潰せばお金を
     もらえる
   こんな仕組みが蔓延している社会全体が小さな社会になっ
     てしまっている。
   ◎ 大きな夢や理想をもてない ちっぽけな社会


◇泣きながらでもいい - 劣等感のある子
劣等感ウィルス 
    「弱いまんまでいい」
テストはゲーム 
    そんなところに人間の価値はない
劣等感を取り込んで行けたら凄い力に


◇夜行性の正体
身体のリズムは地球の自転のリズム
   → 大人がそのリズムを!


◇気晴らしばっかり
気晴らしより打ち込むこと


◇まじめについて
わがままの横行
  不平不満は不真面目 
     人間が文明の中で生活していて行き着いたところは何かとい
    うと条件に不平不満を言うこと


◇ぼんやり指数
ぼんやり指数ゼロの生活を
3歳までは ぼんやり指数ゼロ
    → 小・中になると高くなる
   = 外からの圧力に動かされそれに慣れてしまうと、その反動
     としてぼんやりしてしまう
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「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ④ /「教育一分話」柴山一郎 学陽書房 2000年 ⑧【再掲載 2017.5】 [読書記録 郷土]

今日は12月23日、月曜日です。


今回は、12月20日に続いて、岩田書院の
「浜松まつり―学際的分析と比較の視点から」の紹介 4回目です。




出版社の案内には、


「5月の連休中、静岡県浜松市は『浜松まつり』一色になる。ラッパの
音とお囃子の音、砂煙の上がる大凧揚げ、夜の街路での提灯の灯りと
練りの声…。その魅力を、日本史・社会学・古典芸能・ヨーロッパ史
の各分野から学際的に分析する。」


とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…

・「1875年に浜松県令通達があったものの凧揚げ抑制は続いた。抑制的
指導にもかかわらず広い層へ普及した」


・「明治10年代、浜松の凧揚げがエスカレートしてけんかが目立った。
背景として1880年代前半の好景気が想定できる。凧揚げの風習が
『旧弊』として強く非難された」


・「遠州の大凧は当初から青年層(若者)を担い手としていたが、大凧同
  士の糸切り合戦という性質が強まり、ますます屈強な青壮年集団へ
  の依存性を高める」


・「『静岡大務新聞』1884(明治7)年4月6日に挙げられた浜松凧揚げの
問題点-①田畑蹂躙 ②町内の若者が送りを強いる ③若者が職業を
休み飲食 ④喧嘩争論 ⑤市中の冗費多く ⑥電線にかけて妨害」




もう一つ、再掲載になりますが、柴山一郎さんの
「教育一分話」⑧を載せます。





☆「浜松まつり-学問的分析と比較の視点から」荒川幸二ほか 岩田書院 2006年 ④

1.jpg

◇第1部 浜松まつりの歴史的検討(3)

(2) 凧合戦の開始 - 明治前・中期 ①
1 明治初年
  幕藩体制解体 
     = 領主の凧揚げ規制の解除 
     → 盛んになった

   しかし、1875(明治8)年4月15日「浜松県令通達」
凧揚げ抑制は続いていた
= 抑制的指導にもかかわらず広い層へ普及



2 明治10年代 = 凧揚げ集団の成立と糸切り合戦の開始
   地方新聞「函右日報」
  浜松の凧揚げがエスカレート けんか
       背景 1880年代前半の好景気が想定できよう
     ◎ 凧揚げの風習が「旧弊」として強く非難されている 

「静岡新聞」1883.4.20
糸切り合戦始まる → 畑の持ち主迷惑  寺島

「函右日報」1883.4.28
     伝馬・肴・連尺 町単位で手ぬぐいをそろえて集団意識
     指揮者と太鼓・喇叭の合図で行動
   
   戦闘集団が成立したことにより1880年代初めに独自の変容   
 → 各町対抗の凧糸切り

   ◎ 遠州の大凧は当初から青年層(若者)を担い手としていたが、
    大凧同士の糸切り合戦という性質が強まり、ますます屈強な青
    壮年集団への依存性を高める

背景 
   ① 近世以来の「町」の独立意識の高さ
1882年 24か町分立
連尺 伝馬 旅籠 塩 田 肴 成子坂(成子) 
        七軒(菅原) 上新(菅原) 神明 板屋 新 早馬 
        下垂(尾張) 池 鍛冶 平田(なめだ) 元魚 大工 
        利 紺屋 名残 清水(三組) 猿屋(成子)
② 施設消防組織の影響
1874(明治7)年5月10日
小野組出張所銀行(伝馬)より失火 1358戸焼死3人
 → それまで2,3の消防組 
        → 14か町 
        → 1882年までに21組に
若者を構成員とする消防組
 → 若者組の規律化・近代的再編


 「静岡大務新聞」1884(明治7)年4月6日
問題 
     ① 田畑蹂躙  
     ② 町内の若者が送りを強いる  
     ③ 若者が職業を休み飲食
④ 喧嘩争論  
     ⑤ 市中の冗費多く  
     ⑥ 電線にかけて妨害






☆「教育一分話」柴山一郎 学陽書房 2000年 ⑧【再掲載 2017.5】

1.jpg

◇大河内一男 1905~1984 経済学者
東大総長 
どんな粗末な頭でも,自分の頭で考える。
 

◇井上靖   
   人生は所詮克己の一語につきる。
人間が他の動物と違うところは誘惑や欲望と闘って自分に
     打ち克つことができるという点だ。

 
◇ピタゴラス 前570~500
怒りは常に愚行に始まり悔恨に終わる。

 
◇孔子    
過ちて改めざる,これを過ちという
人間は同じ失敗を二度と繰り返さないことが大事
 

◇聖徳太子  
   和(やわらぎ)を以て貴しとなす。
上和らぎて下睦ぶ

 
◇「十八史略」
   臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
目的を達するために辛苦に耐えて将来を期すること
天知る地知る我知る人知る

 
◇「菜根譚」
    自分のつらいのを忍ぶのはいいが,人のつらいのを見ていては
   いけない


◇武田信玄  
   したいことをするな。いやなことをしろ。


◇徳川家康  
   堪忍のなる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するのが堪忍。

 
◇セルバンテス 
   1547~1616 スペイン・作家
命ある限り希望はある。
与えた者は沈黙を守れ,受け取った者は話したまえ。

 
◇ゲーテ   
   急がず休まず


◇マルクス 1818~1883
すべてを疑え


◇スマイルズ 1812~1904 イギリス・著述家
習慣は木に文字を刻むがごとし。
木の長ずるにつれて文字は拡大する
- 福沢諭吉 「勉強習慣の大切さ」

 
◇ザメンホフ 1859~1917 ポルトガル・言語学者
時々目を閉じよ。反省のない者は守り手のない財産のように破滅
  する。

 
◇デューイ 1859~1952 米国・哲学者
人間は習慣の束である。 自己コントロールが大切
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