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[鳥居りんこさん]両親の終末期を見つめて

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本音で話す大切さ痛感

[鳥居りんこさん]両親の終末期を見つめて

「介護ストレスを一人で抱えないためにも、親やきょうだいと話し合い、介護サービスをうまく利用してほしい」(東京都千代田区で)=奥西義和撮影

 エッセイストで教育アドバイザーの鳥居りんこさん(56)は、十数年にわたり、両親を相次いで介護し、 看取みと りました。特に、母親の介護ではキーパーソンとして中心的に関わり、精神的に追いつめられた時もあったそうです。親の介護で後悔しないためにも、終末期の希望やきょうだい間の役割分担などを話し合っておくことが必要だと訴えます。

 2006年に父が心筋 梗塞こうそく で倒れ、その後、末期の肺がんと診断されました。余命3か月と宣告されたのは診断の8か月後。父は「家で死にたい」と言い、母と、実家の近くに住む姉が中心となり、自宅で看取ることになりました。

 そうは言っても、父も心が揺れていたようです。3人きょうだいの末っ子の私には「穏やかに逝きたい」と言っていましたが、兄には「あと5年生きたい。別の抗がん剤の治療を受けようか」と胸の内を吐露していました。結局、認可直後の新薬の服用を始めましたが、08年の冬、79歳で亡くなりました。副作用の湿疹が全身にでて、痛みやかゆみでつらそうにしているのを見るのがつらかったです。

  《父の死の数日前。母は大柄な父をトイレに連れて行こうと抱きかかえ、支えきれずに倒れて腰椎を圧迫骨折。車いす生活になった》

 心配した姉が同居を持ちかけましたが、母は「自分の家の方が気楽でいい」と、頑として譲りません。立てるようになっても、よく転ぶのが気がかりでした。熱いみそ汁をこぼしてやけどをしたり、一歩が踏み出せずにガラス窓に頭を突っ込んだり。ある日、家に行くと、顔中血だらけで倒れていました。

 ようやく専門医に出会い、脳の神経細胞が減っていく難病、進行性 核上性麻痺かくじょうせいまひ と診断されました。12年のことです。母に告げる勇気がなく、病気について調べた資料を机に置いて逃げ帰りました。すると、その夜、母から電話がありました。「最後に変なのに捕まったなあ。まあ、しょうがない」。母の明るさと気丈さに、少し救われた気がしました。

  《母は自宅生活が困難になり、13年に鳥居さんの自宅近くの介護付き有料老人ホームに入居。今度は自身が介護のキーパーソンとなった》

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太宰治ら文豪が愛した旧旅館「起雲閣」に母と寄った時の写真(静岡県熱海市で、2015年)=鳥居さん提供

 母の自宅で介護を始めた当初、介護保険制度の仕組みがよく分からず、困り果てました。本などで勉強し、理解すると、サービスをうまく使えるようになりました。ホーム入居後には認知症の症状も出始め、私はホームに通う日々に。それでも「もう帰るの?」と不満を言われましたが、居室の扉を閉めて帰る度に申し訳ない気持ちになりました。

 母はいわゆる「毒母」でした。どれだけ尽くしても、期待する感謝の言葉はありません。「娘は甘えられる存在」と思っていたのかもしれません。私は介護のために仕事を断り、家事も満足にできず、疲弊していきました。

 それでも、温泉好きの母を喜ばせようと静岡の熱海などに姉と旅行にも行きました。少しずつ弱っていく母の姿が切なく感じられたのです。

  《一昨年、母が 嘔吐おうと を繰り返し、病院に救急搬送された。付き添った鳥居さんは、母がかねて示していた意思に従い、延命措置をせず、看取ることを決断した》

 母は「胃ろうや人工呼吸器をつける治療はしてほしくない」と、ホーム側に伝えていました。医師に「延命治療をするのか、しないのか」と決断を迫られた私は、悩んだ末、ホームで看取ることにしました。それが、母の望んだ「理想の死」だと信じたのです。

 母は次第に水を飲むことも難しくなり、意識障害や栄養失調で苦しそうでした。昨年3月、84歳で亡くなった時、私は介護による睡眠不足で疲労 困憊こんぱい でした。介護からは、ようやく解放されましたが、私の心は今も晴れません。

 あの時、延命ではなく看取りを選択したことは本当に正しかったのか。母は本当は生きたかったのではないか。過酷な状況でも生き続けるべきなのか。事実上、私が母の命の期限を切ったことは許されるのか。腹を割って母と介護や医療などについて話をしていなかったので、今となっては分かりません。

 両親の介護体験を通して、親も子も意思が伝えられなくなる前に、どこで死にたいか、医療や介護はどうしたいか、話し合うことが大切だと痛感しました。また、家族の誰が、どこまで介護を担い、費用を負担するのか、事前に考えておくことも重要です。仕事は辞めず、できないことは周囲に助けを求めることも必要だと知りました。

 介護から逃げることは、決して悪いことではありません。一人であれこれ抱え込んでしまうと、優しく接することもできなくなるのです。(聞き手 岩浅憲史)

  とりい・りんこ  1962年、宮崎県生まれ。2003年、長男の中学受験体験をつづった「偏差値30からの中学受験合格記」(学研)がベストセラーに。教育関連などの執筆や講演などで活躍。近著に「親の介護をはじめたらお金の話で泣き見てばかり」(ダイヤモンド社)がある。

  ◎取材を終えて  「突然やってくる介護は期間が読めず、自分の人生が限りなく侵食される。育ててくれた親への恩と怨のシーソーなんですよ」。鳥居さんは、介護を巡る葛藤や苦悩を本音で語ってくれた。「介護の制度やサービスをなるべく早く、理解してほしい。天国と地獄ほども違う」と強調する。介護を巡る家族間のストレスやトラブルを軽減する必要性がある。それが疲弊せずに介護を続けられるコツだと、感じた。

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