ケアノート
医療・健康・介護のコラム
[藤村亜実さん]奔放な藤村俊二さんを支えて
父への葛藤 吹っ切れた
「おヒョイさん」の愛称で親しまれたタレントで俳優の藤村俊二さんは、1年3か月に及ぶ闘病の末、昨年1月に82歳で亡くなりました。リハビリに付き添った長男の亜実さん(52)は「心身ともに大変な日々でしたが、一度は失った父との絆を取り戻す貴重な時間でもありました」と、振り返ります。
父は2015年10月に倒れました。当時は私と2人暮らし。声をかけても食事に出てこないので見に行くと、ベッドでぐったりしている。救急車で東京都内の病院に搬送しました。診断は小脳出血。数日後には脳内に血栓ができ、手術をしました。命は取り留めましたが、リハビリが必要で、千葉県の外房にある専門病院に移りました。
《俊二さんは振付師からタレントに転身。おしゃれでとぼけた雰囲気が持ち味で、クイズ番組「ぴったしカン・カン」やNHK連続テレビ小説「ファイト」などに出演した。旅番組「ぶらり途中下車の旅」のナレーターを務めるなど、長年にわたって芸能界で活躍してきた》
不規則な生活、ワイン、葉巻、脂っこい食事、運動不足。ずっと不摂生を続けた父は、大動脈 瘤 などの大病を患ってきました。でも、倒れた時は「終わりの始まりかもしれない」と、覚悟せざるをえなかった。私は海外でのCMコーディネートの仕事をしていますが、最後まで父に付き添おうと決めました。
《亜実さんが20歳の頃、俊二さんは突然、家を出た。その後、亜実さんが米国留学中、両親の離婚を知った。やがて俊二さんとは音信不通に。亜実さんの母はアルバイトで生計を立てながら、姉家族の世話になった。亜実さんは05年の帰国まで、失意の中、米国で暮らした》
疎遠になってしまっても、幼い頃から憧れてきた父を嫌いになることはありませんでした。10年に再婚相手と別居し、13年に離婚した父は、動脈硬化による体調不良が続いていました。複雑な思いはありましたが、晩年は父のマネジメントも引き受け、公私ともに支えることにしました。
父がいる外房と東京を行き来する生活は、思った以上に負担だったようです。ある日、友人の家で軽く飲んでいた私は突然、気を失ってしまいました。幸いその場にいた元看護師の方が心臓マッサージを施してくれ、病院に運ばれました。1か月前に父が運ばれたのと同じ病院です。倒れた際に切った顔を何針も縫われ、体も2週間ぐらいは思うように動かせませんでした。
父の経過も、思わしくありませんでした。うとうと眠ってしまうことが多く、私のけがにも気付きませんでした。
でも、リハビリを嫌がらないのが救いでした。歩行訓練で、「ここまでおいで」と声をかけると、「オレは犬か」とぼやく。病院の屋上で「おやじの好きな海が見えるよ。ここがどこかわかる?」と尋ねると、ちょっと考え、「ハワイ?」。テレビで見せていたユーモアは天性のものだったらしく、気持ちが軽くなりました。
困ったのは食事です。普段から好きなものしか食べなかったためか、病院食をあまり食べません。許可を得て、試しに私が食べさせてみると、ほぼ完食してくれました。
安心しきった子どものように、大きな口を開けて食べる父。その表情を見て、「ああ、いつまでも悲しみや怒りを抱えていても仕方がない」と思いました。心の奥に残っていた思いが、雲が晴れるように消えていった瞬間です。父を許すことができてからは心が自由になり、どんな介護でもできるようになりました。
《しかし、口から完全に食事をとれるまでには回復せず、食道から栄養を取り込む手術をした。16年4月には富士山が見える静岡県の総合病院に転院。治療を続けたが、徐々に病状が悪化し、やがて言葉を交わせなくなった》
しゃべれなくなってからも、見舞いに来たきれいな女性を見てうれしそうにしたり、大あくびをしたり。父は、最期まで「藤村俊二」でした。
介護をしたり、リハビリに寄り添ったりするのは、心身に大きな負担がかかります。私の場合は、父に対する長年の葛藤もありました。
父を完全に憎むことも、忘れることもできず、苦しみながら生きるのはつらかった。親子の関係は人それぞれでしょうが、父が亡くなる前に本来の関係を取り戻せたのは幸せなことでした。そのおかげで、父の死を覚悟することもできた。許すことは、自分のためなのだ。そう思えるようになりました。(聞き手・増田真郷)
ふじむら・あみ 1966年、東京都生まれ。成城大卒業後、米国に留学して美術などを学び、93年に永住権を取得。ロサンゼルスを拠点にCM制作を手がける。2005年の帰国後は、CMコーディネーターとして日米を行き来している。今年1月、著書「オヒョイ 父、藤村俊二」(勉誠出版)が刊行された。
◎取材を終えて つらい状況に置かれた時に、どう生きるか? 介護だけではない。逆境には大小あれど、人は様々な局面で、この自問を繰り返しながら生きていくものではないか。
葛藤を胸に抱えながら介護する負担は、想像に難くない。亜実さんの場合、俊二さんと疎遠になったまま終わることもできただろう。だが、苦しみながらも寄り添い続け、最後は「よかった」と思えるようになった。そんな亜実さんの姿に、大いに励まされた。
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