目次
- 豪華執筆陣によるカルチャー系コラム
- ドッカーズの“ハードだけれど心にしみる2つのチノ”
- 80sならではのプロダクトデザイン
- ティーンエイジャーのファッションに対する熱量が高かった1985年
- ヒステリックグラマーは“高校生達に、今一番流行ってるブランド”
- 本ものバーゲン大情報
- ファッションビル丸井誕生までの歴史
- 若者をターゲットにクレジットカードを発行
- DCブランドが丸井に高収益をもたらした
- DCブランドブームは「丸井の赤いカードで洋服を買う文化」
- 「赤いカード」のおかげで“借金地獄に苦しむ日々”
- 全国のバーゲン情報
今回ご紹介するのは『Hot-Dog PRESS』1985年8月10日号です。
豪華執筆陣によるカルチャー系コラム
誌面冒頭の「HDP'S VIEW」というカルチャー系コラムページ。
“ボクらのいま、いちばん気になるコト、モノ、ヒトを刺激的な執筆陣と豊富な写真、イラスト、図解で解説する最新情報図鑑”という触れ込み通り、執筆陣が非常にバラエティに富んでいます。「MOVIE」でヴィム・ベンダースの「パリ・テキサス」をレコメンドしているのは、“アニエスbブームの仕掛け人”の浜田比左志さん。
ミュージシャンの中原めいこさんが執筆する「NEW IDOL」は、ストロベリー・スウィッチブレイド。
女優の戸川京子さんがレコメンドしている「MUSIC」は、南佳孝さんがプロデュースした「882 studio」。
TBSの深夜番組をレコメンドしているのは、作曲家の三枝成章さん。
ドッカーズの“ハードだけれど心にしみる2つのチノ”
右は広告ページ。リーバイスが展開していたチノパンツがメインのブランド、ドッカーズ。
“すでに人気のオフィサー・パンツに続き、今度はドッカー・パンツの登場だ。どちらもタフでナチュラルな感覚と、全体にたっぷりとしたシルエット。アメリカン・アーミーのオフィサーですっきりキメるか、フレンチ・ネイビーのドッカーでくだけた気分にひたるか”とあり、「オフィサー」に加え新たなラインとしてこの頃から「ドッカー」が展開され始めたことがわかります。
“ハードだけれど心にしみる2つのチノ”というキメ文句は、一体どういうことかよくわかりませんが笑
ドッカーズについては、こちらの過去記事で詳しくご紹介しています。
こちらの記事でご紹介しているドッカーズのチノパンツは、今も愛用中です。
左ページ、シチズンのインターセプターという腕時計。ミニマルなデザインでめちゃくちゃ格好良いです。
シチズンのサイトで歴代モデル検索ができるので調べてみましたが、このモデルは掲載されていませんでした。せっかくこんなに格好良いのに、もったいないですね。
80sならではのプロダクトデザイン
ソニーのビデオデッキの広告。8ミリビデオでデジタル録音をするという提案。当時は我が家に8ミリビデオのカメラはありましたが、このようにオーディオとして使うことは普及したんでしょうか。
トヨタの名車、カローラ・レビンの広告。車自体のデザインもさることながら、イラストの非常にいい感じ。
ソニーのオーディオもそうですが、特にこのカローラ・レビンのようなカクカクとしたプロダクトデザインは、個人的に非常に好きです。僕は幼稚園児のとき、車が大好きで、いつも中古車のチラシを眺めていたのですが、そういったときに形成されたデザインの好みが、自分のベースになっているんだろうなぁと思います。
右ページ、コンバースジャックパーセル広告。“オーソドックスは、色あせない”というキャッチコピー。左ページから今号の特集が始まりますが、その前に1985年当時の日本を席巻していたDCブランドブームについて触れておきます。
ティーンエイジャーのファッションに対する熱量が高かった1985年
今回の記事は、前回のこちらの記事の続き的な内容になります。無料部分だけでも事前にお読みいただいていると、より楽しめるかと思います。
また、「そもそもDCブランドって?」という方は、こちらの記事で詳しくご紹介しているので、是非ご覧下さい。
これまでの記事でも触れてきたように、1980年代は今と比べて若者のファッションに対する熱量が非常に高かった時代でした。
当記事でご紹介している『Hot-Dog PRESS』1985年8月10日号の誌面後半にある“日本縦断!FASHION WATCHING”のページをみると、そのことがよくわかります。
“ファッションウォッチャー”は服飾評論家の出石尚三さん。場所は札幌。いわゆるストリートスナップではなく、撮影日時と場所が事前に告知されているので、『Hot-Dog PRESS』の読者の目一杯のオシャレがこちら。
左の自転車に乗っている彼は、なんと13歳。イエローのネクタイにグリーン?の靴下と、中学生ながらかなり凝ったコーディネート。
その他、高校生や18歳などのティーンズが中心で、柄物のジャケットやカラーパンツなど、ファッションを存分に楽しんでいる感が伝わってきます。
全体的に、やはりカラフルな印象。そして、ショートパンツも多数登場しているので、気温は高かったと思われますが、テーラードジャケットにシャツ、ネクタイというフォーマル感の強いコーディネートが多いのも特徴的です。フォーマル感が強いということは、そのぶんお金もかかっている可能性が高いでしょう。ここにも、前回の記事でご紹介したように、1980年代の日本経済が絶好調だったことの影響が伺えます。
右端の“美容学生の15歳”の彼が着ているタータンチェック柄のテーラードジャケットのように、凝ったデザインの服が多いことも、この当時の特徴です。凝ったデザインの服多くはおそらくDCブランドのアイテムで、当然のことながら価格も高かったことでしょう。
ラメでしょうか?アイドルのステージ衣装のような二人組も。
“札幌のファッション・リーダー”はブレザーにチェックパンツ、ローファーというアイビールック。
彼も18歳の大学生です。
次ページも色柄が多彩です。
右端の彼の服は“ゼーンブ手作り”という熱の入りっぷり。
女性の服装も非常にカラフルです。
1985年当時のティーンエイジャーはファッションに対する熱量が非常に高く、凝ったデザインでおそらく高価であろう服を所有していたことが、このページから伺えます。
ヒステリックグラマーは“高校生達に、今一番流行ってるブランド”
さて、では1980年代の豊かな日本経済の恩恵を受けた当時のティーンエイジャーはどこでどうやって服を買っていたんでしょうか?
その答えのひとつが、上掲した今号の特集“これから本番!HDPのバーゲン大情報”です。
イラストはVANなどで知られる穂積和夫さん。
“HDP誌上バーゲン・フェスティバル”。
当時の人気ブランドも出品しています。DCブランドの一角、メンズフランドル。
今も人気のヒステリックグラマーは“高校生達に、今一番流行ってるブランド”だったようです。あひるやブルドッグなど、動物イラストデザインが中心。下段のポッシュボーイもDCブランドブームで人気のブランドでした。
“HDP誌上バーゲン・フェスティバル”続き。
ポップなデザインが数あるDCブランドのなかでも異彩を放っていたパーソンズは、“今や世界のパーソンズ”。海外進出して国際的な評価を得ていたということでしょう。タカキューはアレキサンダー・ジュリアンや、オリヴィエ・マスジェといったデザイナーズを出品。
アレキサンダー・ジュリアンは2017年に“待望の日本再上陸”をしています。
続きです。
ドン小西さんが手掛けていたフィッチェ・ウォモは“ファッション超高感度少年御用達ブランド”だったそうです。
続きます。
ここでビームスが登場。出品アイテムはブランドについての言及がされていないので、オリジナルでしょうか。
左ページは応募要項。
アバハウス。当時のDCブランドがこぞって展開していたバックプリントデザイン。
“さあ、ガレージセールだぞ!”。
こちらは『Hot-Dog PRESS』と提携して各ブランドやショップで開催されたセール企画のようです。
ヘインズの赤ラベルのパックTシャツ。定価が3,400円。
本ものバーゲン大情報
左ページは“これから間に合う、絶対御得な、これぞ本ものバーゲン大情報”。
様々なショップ、ブランドのセール日程と割引率がずらり。
石井スポーツやイケベ楽器など、今もお馴染みのお店もちらほら。
そして、表の右下に並んでいるのが、西武や伊勢丹などの百貨店、そしてパルコ、ラフォーレ原宿、丸井などのファッションビルです。
ファッションビルの草分けであるパルコを生み出したのは、セゾングループ。
セゾングループは1980年代終盤から90年代にかけて大きなムーブメントとなった渋谷カルチャーの生みの親的な存在です。
日本のファッションに大きな影響を与えたセゾングループとパルコについては、また近々“ファッションアーカイブ”で詳しくご紹介しようと思っています。
日本の80sカルチャーに多大な影響を与えたセゾングループについて、これまでほとんど学んできていなかったので、がっつり書籍を用意してお勉強します。 pic.twitter.com/3EUdNXwdmv
— 山田耕史 ファッションアーカイブ研究 (@yamada0221) 2024年1月11日
ファッションビル丸井誕生までの歴史
当記事では、1980年代にパルコと並んでDCブランドの館として人気を誇った丸井にフォーカスしてみます。
そもそも、丸井とは、どういった企業なのでしょうか。
探してみると、わかりやすい年表を発見しました。1931年創業で“祖業は家具の月賦販売”。そして、“日本最初のクレジットカード発行”したのが丸井だったことは、特に若い世代には知られていないのではないでしょうか。
↑の記事でも指摘されていますが、丸井は創業家である青井家が経営を担ってきました。
丸井の企業沿革ページから引用します。(強調引用者以下同)
1931~1972年
創業者 青井 忠治創業期のビジネスは、家具の月賦販売でした。当時の家具は高額であったため、まとまったお金がなく、家具が欲しくても一括購入することが困難だった人たちに対して、家具を販売する時に、同時に信用を供与する。つまり、お金をお貸しするという月賦販売で、小売と金融が一体となったビジネスを行っていました。
1972~2005年
二代目社長 青井 忠雄高度経済成長期に国民の所得が増加し、1980年代から耐久消費財のクレジットニーズが衰退。他の月賦販売店が小売を捨て金融に特化する中、伸びつつあったファッションに特化しました。それまであまり目を向けられてこなかった若者に信用を供与することで、小売を捨てることなく若者をインクルードした小売・金融一体のビジネスを革新させました。
2005年~現在
三代目社長 青井 浩従来のハウスカードをVISAとの提携により全世界で使える汎用カードであるエポスカードに進化させ、小売・金融の一体運営はそのままに、成長の主役は小売から金融へ。キャッシュレス化による決済手段の多様化に応じ、すべての人に向けた金融サービスの実現をめざし、それまでのカード事業からフィンテック事業へと再定義を図りました。
資本集約型のフィンテックが成長する中、IT人材の育成などへの投資はもとより、D2C企業やスタートアップ企業、新規事業領域への投資など、これまでの小売×フィンテックに「共創投資」を加えた新たな三位一体のビジネスモデルを創出していきます。シナジーを追求することで、個々の事業の総和を超えた価値の創出をめざし、無形投資による知識創造型*のビジネスに経営の舵を切り始めました。
こうやって社史を眺めると、「小売」と「金融」が丸井の重要なキーワードであることがわかります。
若者をターゲットにクレジットカードを発行
そしてその中で一番のトピックは、二代目青井忠雄社長による“店頭即時発行”の「赤いカード」でしょう。
こちらが歴代の丸井のクレジットカードです。
https://www.0101maruigroup.co.jp/pdf/settlement/15_0226/15_0226_1.pdf
丸井の歴史については、こちらのサイトでより詳しく紹介されています。
1952年に、創業者である青井忠治が渡米したことが、クレジットカード導入のきっかけとなりました。
丸井の創業者・青井忠治は渡米し、現地でコンピューターを活用したクレジットカードが普及している事実に驚愕。以後、青井忠治は丸井におけるクレジットカードの導入を模索する。
そして、1960年代に入ると東京の主要駅前に大規模店舗を集中展開し、「駅そばの丸井」として競合を凌駕します。
1970年代からは金融の分野に注力するようになります。
そこでターゲットとなったのが若者でした。
1975年
クレジットカードの店舗即時発行の実施
丸井はクレジットカードの収益を増大させるために、クレジットカードの店舗即時発行を開始。主に若者をターゲットにクレジットカードを発行することで、金融収入を確保する。
店舗即時発行、つまり丸井に行って欲しいものがあったたとき、持ち合わせがなくても、丸井でクレジットカードを発行してもらえる、ということです。
これは収入の少ない若者には非常に魅力的だったことでしょう。
とはいえ、丸井のクレジットカードは一般的なクレジットカードとは用途が異なっている、という指摘もあります。
少し前の1960年に丸井が割賦販売のツールとして「クレジットカード」という名称でカードを発行していますが、こちらは割賦の完済を証明するカードであり、次回の買い物で提示すると特典が受けられるものでした。
DCブランドが丸井に高収益をもたらした
そして、1980年代に入ると丸井はさらに金融業に注力するようになります。1981年には若者向けのキャシングを拡大。そして、1987年には貸付残高が800億円を突破します。
1981年
キャッシングに新規参入
クレジットカードによる収益源を多様化するために、貸金業(キャッシング)に新規参入。若者向けのキャッシングを拡大し、1987年に貸付残高800億円を突破。小額の貸し付けが中心であり、貸倒率は低かったと言われている
そして、その800億円という貸付残高に寄与したのが、ファッションビル、丸井に出店していたDCブランドに殺到する若者たちでした。
1987年
26年連続で増収増益
1987年に丸井は26年連続増収増益を達成。新宿や池袋など、東京都心部に出店することによって若者顧客を獲得し、DCブランド(イッセイミヤケなど、デザイナーズ・ブランド)の充実によって高収益を確保する。
1986年にオープンした新宿丸井メンズ館のテナントは以下のようだったそうです。
最上階に鎮座するイッセイ、ヨウジ、ギャルソンの御三家を筆頭に、ニコル、ジュン、コムサなどDCブランドが揃い踏み。
DCブランドブームは「丸井の赤いカードで洋服を買う文化」
1980年代のDCブランドブームと丸井の「赤いカード」は切っても切れない関係だったことは、当時のDCブランドブーム経験者の多くが指摘しています。
DCブランドブームが巻き起こり俺たちは憧れた。その憧れとの距離をグーンと縮めたのが丸井であり、赤いカードだ。お洒落なプロモーションでイメージアップする一方、月賦払いという泥臭い売り方で若者を狂乱させた。ナウでヤングでなかった僕は成人式用のスーツが丸井初体験で、赤いカードはもっぱらキャッシング利用だ。給料前のデートやツケがたまってしまった居酒屋に丸井のキャッシングは強い味方でありながら、その利息は脅威だった。
そして、DCブランドブームとは「丸井の赤いカードで洋服を買う文化」だった、という指摘もあります。
乱暴を承知で言うならば、DCブランドブームとは「丸井の赤いカードで洋服を買う文化」と定義づけるのが一番シックリするように感じている。丸井の店舗が存在したのは最盛期でも関東一円に過ぎなかったことは百も承知のうえで〈手持ち現金以上の値段の洋服をクレジットカードで購入する〉というライフスタイルこそがブームの本質だったという意味から、そう断言したいのだ。
都心とも郊外ともつかない中野という中途半端な立地で創業した丸井は、元々の取り扱い商品だった家具小売りの手段である割賦販売をあらゆるアイテムに適用することでその規模を拡大させていった。言うまでもなくそれは、分割払いをしてでも今すぐ欲しい商品があるという消費者側のニーズが存在していたからこそ可能になった発展だ。
DCブランドとはなにか? というシンプルな問いかけに明確な回答が存在しないのは、その本質がプロダクトではなく、こんな気分に突き動かされたアクションにこそあったからだと理解すれば、とたんに腑に落ちてくるのではないだろうか。
「赤いカード」のおかげで“借金地獄に苦しむ日々”
さらに、“「借金をしてでも服を買う」というライフスタイル”と表現されている記事もあります。
ファッションで個性を主張するスタイルのラフォーレ原宿とともにファッションの発信地となったのが、同時期にオープンした新宿の丸井(新宿区新宿)各館です。丸井が生み出したのは「借金をしてでも服を買う」というライフスタイルでした。
「借金」と書くとネガティブかもしれませんが、1980年代以前の日本ではクレジットカードに対する忌避感が根強くありました。クレジットカード以前のスタイルとして「月賦(げっぷ)」というものがありましたが、クレジットカード = 月賦 = 借金というネガティブなイメージで捉えられていたのです。
そこに登場したのが丸井の通称「赤いカード」。ここに、クレジットカードを使って上手にやりくりしながら日常を豊かにしていくライフスタイルも普及していきました。
また、「赤いカード」のおかげで“借金地獄に苦しむ日々を強いられていた”という表現までされてしまう始末。
昭和40年男は、赤いカードでDCブランドの服を買いあさった。カードで一世を風靡した丸井は全国区ではなかったが、江戸っ子の僕らにとっては重要なトレンド発信基地だった。そして魔法のカードを手に入れれば気軽にローンが組めて借金まで出来てしまう。それまでの生活を激変させた百貨店であり、カードである。借金とは呼ばず “キャッシング” としたところに、金を調達している罪悪感は無くついつい余計に借りてしまい、借金地獄に苦しむ日々を強いられていたのだった。浅はかである。
良くも悪くも、憧れのDCブランドをそれまでよりも気軽に手に入れられるようになった、当時の若者達。
そういった背景があったからこそ、当記事序盤でご紹介した『Hot-Dog PRESS』の読者たちのように、凝ったデザインのDCブランドのアイテムで着飾ることができたのでしょう。
DCブランドブーム当時は売れに売れたけれども、ブーム終了後は一気に売上が落ちてしまい、廃止されたブランドも数知れずありますが、イッセイミヤケやヨウジヤマモト、コムデギャルソンをはじめとした当時のDCブランドが現在も運営を続けているのも、丸井の「赤いカード」で商品を購入した若者たちの貢献があったからこそ、とも言えるでしょう。
そういった視点では丸井の「赤いカード」が日本独自のファッションカルチャーを育てた、という評価もできそうです。
全国のバーゲン情報
『Hot-Dog PRESS』のバーゲン特集続きです。
“バーゲン・ハンター部隊が足で集めた全国13都市、ベストショップのバーゲン大情報”。
まずは札幌から。“交渉次第でプライス・ダウンも可”って凄いですね。
函館、仙台。
金沢、名古屋。
京都、大阪。
大阪のステューディオ・ダルチザンは1990年代に、ヴィンテージジーンズレプリカブランドとして人気を集め、今に至っています。
大阪。
マリジュアンもダルチザン系列のお店。
大阪。
神戸。
タイガース・ブラザーズとミスター・ボンドは、今も神戸の高架下で営業中。神戸を代表するショップです。
モトコーを代表する銘店、ミスターボンド。
— 山田耕史 ファッションアーカイブ研究 (@yamada0221) December 30, 2022
今後はどうなるか聞きたかったのですが、なんかややこしそうな客が店員さんに熱弁を振るっていたので、大人しく店を後にして、元町商店街に向かいました。 pic.twitter.com/baPtPbKlOW
広島。
右ページはブルックスの広告。
福岡。
松山。
この右ページのピラミッドトークという時計、見覚えがあります。確か当時親戚の家にあったような…。なんと、セイコーの商品。こんな企画が通るのも、豊かな時代ならではのことでしょう。
最後にご紹介するのは“村上龍「快楽のテニス」講座”を眺めながらの、右ページプロケッズ広告。
“バイクケッズ”という、バスケットボールシューズです。
ということで、今回は以上です。