9月3日に亡くなった服飾評論家のピーコさん(本名・杉浦克昭さん、享年79)は、19歳で三陽商会に就職して5年ほど働いていた。1960年代の三陽商会でピーコさんと同僚だった井上捷一さんと梨田昭仁(仮名)さんの2人に、ピーコさんとの思い出を語ってもらった。
「野球部のユニホームを『洗ってあげる!』と言い出した」(井上捷一さん)
当時、三陽商会はコートを主力商品にしていて、7~9月あたりは比較的ヒマな時間が多くありました。婦人服営業担当だったピーコは、閑散期は映画館で何本も映画を観る時間に充てていたようです。ピーコは繁忙期には人並み以上にコートをたくさん売ってくれたため、誰からも文句は出ませんでした。
私は社内の野球部に所属していました。ある日、私のユニホームを「洗ってあげる!」と言い出しました。やがて神宮外苑での早朝6時からの朝練にも来るようになります。自然な流れで野球部のマネージャーになったんです。
ファッションに対してもこだわりが強かったですね。私はアメカジに憧れ、雑誌を見てはマネていたけど、ピーコはフェミニンなスタイルを好みました。所作も優雅で美しかった。いつもとびきり上等な靴を履いていました。上辺だけでない本当のオシャレ好きだなぁと感心したものです。
ファッションの好みは違えどピーコとのファッション談義がとても楽しかった。新宿2丁目あたりの店で遅くまで語り合い、いろいろ勉強させてもらったのはとても良い思い出です。
「ピーコのまわりにはいつも人だかりができていた」(梨田昭仁さん=仮名)
ピーコは1964年に三陽商会に入社し、当初は青山ビルの倉庫管理の仕事をしていましたが、程なくして婦人服の営業部に異動しました。確か、百貨店の松屋(銀座)の担当でした。女性がはくようなパンタロンをカッコよく着こなす姿をよく覚えていますよ。
ピーコのまわりにはいつも人だかりができるんです。その中心でピーピーずっと喋っていたため、「ピーコ」と呼ばれるようになりました。三陽時代のあだ名がそのまま芸名になったわけです。
この頃の三陽商会は(今以上に)コートが主力の会社でした。出来上がったコートの試着モデルを女性社員が務めていました。女子社員が忙しいときは、ピーコがコート(レディス)の試着モデルに名乗りを上げてくれるのです。嬉々としてポーズをとったりしてね。明るく陽気な性格が皆から好かれていました。
ピーコは三陽商会の野球部のマネージャーもやってくれました。野球部で次々と好きな男性が出来ていたようですが、当時からそういうことを一切隠すような性格ではありませんでした。
ピーコから「飲んで帰ろう!」と誘われたことがあります。待ち合わせの店に行くと、ピーコが座っているのだけど、何か雰囲気が違う。声を掛けたら「なに?ピーコに用事?」。やはりおかしい。そこにいたのは、弟のおすぎさんだったのです。初めて双子だと知りました。ピーコにはそんな茶目っ気もありました。
酒に酔うと、隣の人と腕を組み、ピーピーとおしゃべりに花を咲かせる。陽気で楽しいお酒で、周囲がパッと明るくなるんです。だから皆がピーコと同席したがりました。
何年か経ち、「もっとファッションのことを勉強したい」と言い出します。ピーコは平日に文化服装学院に通い、土日は三陽商会の契約販売員として伊勢丹の店頭に立ってコートを売るようになりました。伊勢丹でもあっという間に人気者になりました。トレンチコートをよく売ってくれました。トイレに行くとき以外は常に人に囲まれているようでした。
やがて三陽商会から完全に離れて、タレントや服飾評論家としてマスコミで活躍するようになりました。折に触れて「三陽商会のコートは良い!」と雑誌や新聞のコラムに書いてくれていたのは嬉しかったですね。