TOTO以後
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TOTOを去った後、キンボールはファー・コーポレーションのフランク・フェーリアン(後にグラミー賞を剥奪される不運な口パクユニット、ミリ・ヴァニリを世に送り出す)の下で彼自身のキャリアを磨くためドイツに移住した。彼はセッションシンガーとしても活動し続けた。そして、様々なアーティストのバック・ボーカルとして参加。1989年から1990年の短い期間、TOTO復帰を前提にベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』へ追加収録する楽曲のレコーディングに参加したが、TOTOの所属レコード会社の意向で結局南アフリカ出身のシンガー、ジャン・ミシェル・バイロンが正式メンバーとして迎えられ、キンボールが録音した楽曲は収録されなかった。しかしバイロンはその後まもなく解雇された。以後、1991年から1997年まではギタリスト・ボーカリストであるスティーヴ・ルカサーがTOTOのメイン・ボーカルの役目を引き継いだ。1990年後半、ライブ・アルバム『Classic Toto Hits』をリリースした。その後何年かにわたり、様々なTOTOのヒット曲をリリースし続けた。それらの中にはフランクフルトロックオーケストラと共にレコーディングした3枚のアルバムも含まれる。1994年、初のソロ・アルバムとなる『ライズ・アップ』をリリースした。 1997年、日本のレコード会社が企画した「ウエスト・コースト・オールスターズ」名義のア・カペラ・ユニットに参加。同じく元TOTOのジョセフ・ウィリアムズ、シカゴのビル・チャンプリン、ジェイソン・シェフと4人でアルバム『夢のカリフォルニア』をリリースした。翌年にはチャンプリンに代わって、元エアプレイのトミー・ファンダーバークが参加した第2弾アルバム『ナチュラリー -天国への階段-』を発表している。
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