RAA廃止へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:00 UTC 版)
1946年3月26日に連合国軍東京憲兵司令官官房「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(オフ・リミッツ令)が通達し、RAA施設は閉鎖された。ただし、1948年4月時点で歌舞伎座の本部事務所はまだ残っており、公娼施設としての協会組織から赤線経営者の組合組織に変更して存続したとするのが妥当である。なお、佐藤甚吾は1947年4月に行われた第1回参議院議員選挙に全国区から立候補したが、その肩書きを「組合連盟副会長」としている(選挙は落選)。 RAA閉鎖後に職を失った女性は、パンパンと称された街娼になったり風俗街に移動したものがいた。 国を挙げて売春を行う目的は、「日本女性の純潔を守る」ことであった。実際、特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件で、特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数で330件だった。しかし、複数の文献で、日本女性の純潔は守れなかった、とされている。
※この「RAA廃止へ」の解説は、「特殊慰安施設協会」の解説の一部です。
「RAA廃止へ」を含む「特殊慰安施設協会」の記事については、「特殊慰安施設協会」の概要を参照ください。
- RAA廃止へのページへのリンク