GHQの一員として
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「フランク・正三・馬場」の記事における「GHQの一員として」の解説
GHQの米国戦略爆撃調査団の一員に選ばれ、サンフランシスコに団員が集結後、ハワイ、グアムなど経てC-54型輸送機で1945年11月2日に一団は厚木海軍飛行場に到着。馬場には2度目の日本となる。GHQはNHKのラジオ放送は『民主主義を育成するための最も強力な武器』と位置づけていた。1945年9月5日GHQは内幸町の放送会館を接収した。GHQは全館明け渡しを迫ったが、NHKは放送設備があり明け渡せないとして放送会館でGHQとNHKの同居が始まった。CIEラジオ課は放送事業の指導・監督を行い馬場は番組指導のキーパーソンとなった。『尋ね人の時間』や『眞相はかうだ』など、馬場は多くの番組の放送に関与した。 米国戦略爆撃調査団はほぼ2か月の調査を終え米国へ帰国することとなったが、日系アメリカ人二世の馬場は放送を通して日本国民や日本の再興に必要な人材と説得され日本に残った。ラジオ課のアシスタントであった高橋太一郎はのちに「馬場はわれわれ以上に日本人だった。日本人以上に日本人だった。」と語っている。 1946年3月に施行される労働組合法に際しては労働組合とはどの様なものであるかを解説する解説者の必要性を馬場は助言し舘野守男と読売新聞の柴田秀俊の2名が日本初の解説者となった。のちに平沢和重と斉藤栄三郎も加わった。番組『街頭録音』のアナウンサーが話しかける形式としたことも企画している。 『婦人の時間』、『県民の時間』、『放送討論会』、第22回衆議院議員総選挙前の『選挙放送』など多くの番組にも関わった。NBCの『Information Please』は『話の泉』、『Twenty Questions』は『二十の扉』の参考とされ、日本語番組名も馬場が考案した。一方、米国に参考とする番組がなかった『とんち教室』は、NHKの意地もあって独自に企画されたものであり、馬場はその企画段階から立ち会っている。
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