DTPへの移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:04 UTC 版)
モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。1986年には、電算写植用の新しいゴシック体ファミリーを制作するためにイカルスシステムを導入し、4年がかりで「新ゴシック体」を制作、1990年に発表する(「新ゴシック体」は、1993年にPostScriptフォント化され、DTP用の「新ゴ」として再発表される)。 写研・モリサワに次ぐ業界3位だったリョービ印刷機販売(リョービイマジクス)も、1983年に同社初の電算写植機となる「REONET300」を発表。1986年ごろには、自社のフォントをアウトラインフォント化するためにイカルスシステムを導入。 このような状況の日本に、DTPを引っ提げて米アドビ社がやって来る。 1986年当時、米アドビ社は日本のDTP業界への進出をもくろんでいたが、当時社員数十名のベンチャー企業であったアドビ社は、膨大な文字数に及ぶ日本語のPostScriptフォントを自社単独で制作することは不可能であると考えた。そのため、まず写研に提携を持ち掛けるが、断られた(写研の社長・石井裕子は情報公開に消極的でインタビューなどは断っていたため2018年に死去するまでの思惑は不明)。次にアドビはリョービに提携の話を持ち掛けるが、当時のリョービは自社システム向けのフォントのデジタル化だけで手いっぱいであり、DTP向けに新たにPostScriptフォントを制作することには前向きではなかった。そのため、アドビは最後にモリサワに話を持ち掛けた。 1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携し、DTP(PostScript)に対応したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。一方、日本でライノトロン社の製品を販売するモリサワ2代目社長の森澤嘉昭は「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に付けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる。日本語PostScriptフォントの制作にあたっては、イカルスシステムが使い物にならなかったためアドビ製のソフトウェアを導入し、20人体制で1年以上の制作期間となるなど難航したが、モリサワは1989年にアドビよりPostScript日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のPostScript書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。 1987年、写研は自社の電算写植機において、ISDN回線を利用し電算機が写研のサーバーに接続されてフォントの使用1文字あたりで課金されるという「従量課金制」を導入する。その効果もあって、1991年には写研の年商が史上最高となる350億円に達した。この頃が日本における電算写植の全盛期である。しかし1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。DTPで利用できるフォントは、当初はモリサワの2書体だけであったものの、1989年には財団法人日本規格協会文字フォント開発・普及センターによる平成書体がリリースされ、また1991年にはフォントワークス(日本代理店ではなく香港の本社)からアップルのサードパーティ製としては初となる日本語フォントがリリースされるなど徐々に増えていく。なお工業技術院の求めに応じて写研が制作し、平成書体に収録された「平成丸ゴシック」が、2020年時点でDTPで利用可能な唯一の写研フォントである。特に、当時の製版業界で多用されていた写研の電算写植システム用フォント「ゴナ」とよく似たモリサワの電算写植用フォント「新ゴシック」がPostScriptフォント化され、DTPで使える「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。1992年リリースの日本語版「漢字Talk 7.1」では、アドビのPostScriptフォントに対抗すべくアップルが開発したTrueTypeフォントがOSレベルで標準サポートされ(それまでのMacでは、PostScriptフォントがプリンターに搭載されていたのに対し、OS側ではビットマップフォントしかサポートされていなかったため、画面に表示される文字はギザギザだった)、モリサワフォント、フォントワークス、平成書体など、DTPを扱う環境も整備されていった。 特に小規模印刷で大きなシェアを得ていた写研のSAPTONシステムだが、印刷までの工程ごとに複数の高価な専用ハードウェアが必要とされる電算写植に対して、市販のMac1台とDTPソフトの「QuarkXPress」「Illustrator」「Photoshop」で完結するDTPの方が圧倒的に安価であり、また従来は複数の専門オペレータによって分業されていた工程をDTPでは1人で行えるようになるという点でも、小規模システムはDTPへの移行が早く、電算写植のシステムは1990年代前半から後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。写研はDTPの流れに対抗すべく、MacやWindowsなどで作成されたデータもSAPCOLで編集できる「SAMPRAS」(サンプラス)システムを1997年に発表したが、DTPベースのシステムと比較すると極めて高価であり、またフォントが他社のDTPシステムのような「買い切り」ではなく「従量課金制」という点でも、小規模印刷所には受け入れられなかった。 なお写研の「SAMPRAS」システムは、UNIX(HI-UX)を搭載した日立のワークステーションがベースのカラー集版システム「SAMPRAS-C」、文章データと画像データを読み込んで保管するデータベースサーバ「IMERGE II」など、市販のサーバーをベースとした複数のハードウェアで構成されている。その中のテキスト編集機「GRAF」は、1960年代から使われている写研の伝統のテキスト編集ソフトウェア「SAPCOL」を内蔵してはいるものの、Windowsを搭載した市販のPCと同じAT互換機であるため、この時代になると電算写植機はDTPと全く同じハードウェアを用いるようになっている。電算写植はDTPと比べると複数の独自ハードウェアを用いる複雑なシステムに見えるが、熟練オペレーターにとってはこちらの方が逆にDTPよりも扱いやすく、DTPよりも美しい版がより迅速に作成できるという点でも、特に大手出版社においては電算写植を支持するオペレーターがいまだ多かったのも、1990年代当時においては事実である。 モリサワの電算写植機は、Windows95の登場後にWindows PCベースのシステムにリプレースされた。しかし1997年当時、モリサワの売上の大半はすでに写植事業ではなくPostScriptフォント事業によるものとなっていた。写植業界1位の写研と比べると、モリサワの規模はもともとそれほど大きくなかったということもあり、DTP業界の拡大とともにモリサワの業績は拡大。電算写植システムの売り上げの急激な減少を「従量課金制」で補いながらも年商が下がり続ける写研に対し、多言語対応フォントの制作などDTP時代に対応し続けるモリサワは、1998年には年商ベースで写研を抜いてトップとなった。
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