DC3
DC-3
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 07:18 UTC 版)
DSTはDC-2に比して機体幅が拡大されていたが、この大型化は良い方向に働いた。DC-2では客室中央通路の両側に座席を1列ずつ配置する2アブレストであったが、DSTの幅員であれば片側にもう1列増やした3アブレストとすることができたのである。従って寝台の代わりに通常座席を配置すれば、定員はDC-2の1.5倍、21人を確保できる。後には2+2の4アブレストとして前後のピッチも詰め、最大32人定員としたケースもある。 DST開発中から座席型輸送機の製作も計画されており、DST完成後すぐに派生型として、この広いキャビンを活用した通常座席型バージョンが開発された。これがDC-3である。DSTを試作済みであるので座席型の試作機は製作せず、当初から生産型としてロールアウトした。1936年9月にアメリカン航空の手で定期路線に初就航したDC-3は、短期間のうちに優れた運航実績をあげた。 DC-3の画期的な特徴は、DC-2に比して定員を5割増としながら、その運航経費は僅か3 %ほどの増に過ぎなかったという事実に端的に表われている。DC-3登場より前のアメリカ合衆国の航空旅客輸送は、旅客運賃収入だけでは必要なコストを賄えず、連邦政府の郵便輸送補助金を受けることで何とか成り立っていた。ところがDC-3はその大きな輸送力ゆえに、アメリカン航空のC.R.スミスの言を借りれば「補助金に頼らず、自らの運賃収入だけで運用コストをまかなえる最初の旅客機」になったのである。「運賃だけで収支が黒字になる輸送機」の出現は、商業航空輸送の発展におけるきわめて重要なエポックであった。 加えて、DC-3は1930年代中期の機体としては快速の時速200マイル級で巡航でき、飛行特性も非常に安定しており、エンジン脱着が短時間で可能であるなど整備もたやすく、ユーザーにとっては実に扱いやすい機体であった。これらはDC-2から受け継いだ美点であり、さらに収容力を大幅に向上させていたことは、まさに当時における理想の旅客機の具現化というべきものであった。そのデビュー後わずかの間に、トランス・ワールド航空、イースタン航空といった全米に航空網を持つ大手航空会社でこぞって採用され、当時のアメリカ民間輸送機市場を席巻、またヨーロッパでも英国海外航空やスイス航空などに導入される実績を収めた。その結果、純商業機だけでも600機以上が製造され、当時商業的にもっとも成功した旅客機となった。
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DC-3
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:04 UTC 版)
事件で最初に撃墜された機体は、DC-3旅客機から派生した軍用輸送機ダグラス DC-3A-360 スカイトレイン(スウェーデン空軍名称Tp 79 Hugin、シリアルナンバー:79001)であった。この事件以降メディアでは単に「この DC-3」("the DC-3.")として扱われるようになった。 1952年6月13日に当該機はスウェーデン国防電波局の任務でシギント活動を実施している最中にゴツカ・サンド島の東で行方不明となった。この事案で機体と共に8名の搭乗員全員の命が失われたが、この内3名はスウェーデン空軍所属の軍人、その他の5名はスウェーデン国防電波局所属の文民のシギント要員であった。 アルヴァー・エルメベリ(Alvar Älmeberg):パイロット イェスタ・ブラッド(Gösta Blad):航法士/通信士 ヘルベルト・マットソン(Herbert Mattson):航空機関士 エイナール・ヨンソン(Einar Jonsson):シギント班 指揮官 イーヴァル・スヴェンソン(Ivar Svensson):シギント要員 エリク・カールソン(Erik Carlsson):シギント要員 ベント・ブーク(Bengt Book):シギント要員 ボルゲ・ニルソン(Börge Nilsson):シギント要員 当該機は元々アメリカ合衆国のシリアルナンバー42-5694として1943年に製造され、アメリカ陸軍航空軍の第15兵員輸送飛行隊(15th Troop Carrier Squadron)(第61兵員輸送群(61st Troop Carrier Group))に配属された。北アフリカ戦域で用いられた後にイギリスのバークストン・ヒース空軍基地に配備された。1946年2月5日にフランスのオルリー空軍基地から西ドイツのハーナウ陸軍飛行場を経由してブロンマまで運ばれ、5月18日にスカンディナヴィスカ・アエロ社(Skandinaviska Aero AB)の民間機SE-APZとして登録された。
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