黒駒勝蔵との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 14:23 UTC 版)
那須信吾は甲斐国八代郡上黒駒村(山梨県笛吹市御坂町)の博徒・黒駒勝蔵のもとへ身を寄せていたとする説がある。 これは上黒駒村出身で実業家の堀内良平(1870年 - 1944年)により1913年に出版された勝蔵の伝記『勤王侠客 黒駒勝蔵』に記されている。堀内の勝蔵伝はフィクションの部分も含まれているが、当時存命していた勝蔵の関係者にも取材しており、この中に那須信吾に関する伝承が含まれる。同書では「勝蔵の甥に当たる長助といふ老人」からの伝聞として、文久2年(1862年)6月頃に「石原」と名乗る武士が勝蔵を訪ね、同年9月に京都へ戻るまで上黒駒村に滞在していたとしている。さらに田中光顕と光顕の秘書・澤本孟虎の旧談として「石原」は那須信吾の変名「田中幾之進」で、那須は文久3年(1863年)の天誅組の変に参加するよう勝蔵のもとを訪れたされる。那須は勝蔵も師事していた上黒駒村の檜峰神社神主で私塾を経営していた武藤家の食客になっていたという。
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