高長恭
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高 長恭(こう ちょうきょう、541年 - 573年5月)は、中国の北斉の皇族。長恭は字であり、諱は粛[1]または孝瓘(こうかん)[2]。蘭陵王(らんりょうおう)、蘭陵武王または羅陵王(らりょうおう)の王号で知られる。本貫は渤海郡蓨県(現在の河北省衡水市景県)。祖父は高歓。高澄の三男[3]。兄に高孝瑜・高孝珩、弟に高孝琬・高延宗・高紹信、姉や妹に楽安長公主などが数人。文宣帝・高洋をはじめ北斉の皇帝はほとんどが叔父か従兄弟にあたる。
- ^ 蘭陵忠武王碑「王諱粛、字長恭」
- ^ 『北斉書』巻11文襄六王伝「蘭陵武王長恭、一名孝瓘」
- ^ 『北史』本紀、『北斉書』帝紀では共に、蘭陵王に封じる際に「三男」と記される一方で、高長恭の列伝では「四男」とされている。『高粛碑』も三男とする。
- ^ 中国史では母親が卑しい身分の場合、名が残らないことが多い。清代の杜綱・著『北史演義』第五十六巻には、「荀翠容」という名前の婢女として紹介される。元々、高歓の側室の大爾朱氏に仕える才女だったが、嫉妬から正室の婁昭君の預けられ、そこで婁昭君に気に入られて息子の高澄に妾として与えられた。
- ^ 弟の高孝琬は嫡流を強く自認したため武成帝に弑殺された。
- ^ 『旧唐書』「散楽」によると「斉人壮之,為此舞以効其指麾撃刺之容,謂之蘭陵王入陣曲。」とあり、蘭陵王の指揮や戦闘の様子を真似た舞をもって入陣曲を作った。
- ^ 『全唐文』巻0279「代国長公主碑」初則天太后御明堂宴,(~中略~);岐王年五歳,為衛王,弄『蘭陵王』
- ^ 『資治通鑑』ではこれに加えて「蘭陵王入陣曲」も忌んでいる。ただし註釈には、邙山の戦いの直後は後主は9歳で即位もしていないためこうした問答は有り得ない、とある。
- ^ このとき「我去年面腫、今何不発?」と去年は顔に腫瘍が生じて退けたのに、今年はなぜ発症しないのだと嘆いた。
- ^ 『北斉書』卷十二「論曰:文襄諸子,咸有風骨,雖文雅之道,有謝間平,然武藝英姿,多堪禦侮。縦咸陽賜剣,覆敗有徴,若使蘭陵獲全,未可量也,而終見誅翦,以至土崩,可為太息者矣。」
- ^ 趙社民・王振国「蘭陵王及其後裔」(『統一論壇』2000年02期)
- ^ 北斉皇族は父の高澄をはじめ美男の記述が多い。
- ^ ただし、554年頃に亡命した顔之推の著作『顔氏家訓』によると投壺は北斉では廃れており、鄴の広寧王・高孝珩や蘭陵王の邸宅で見かけるぐらいでうまく遊べる者は見当たらなかった。
- ^ 『太平広記』「伎巧一」の引く『朝野会載』および『欽定古今圖書集成』/博物彙編/藝術典/第818卷「傀儡部紀事」に「北斉蘭陵王有巧思,為舞胡子。王意欲所勧,胡子則捧盞以揖之。人莫知其所由也。」
- ^ 東阿県の魚山は曹植の埋葬地。ここでは高長恭を曹植になぞらえている。
- ^ 西晋の羊祜の死後、襄陽の人々が彼を偲んで「堕涙碑」を建てた故事にちなむ。
- 1 高長恭とは
- 2 高長恭の概要
- 3 子孫
- 4 知名度とフィクション
高長恭(蘭陵王)
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