飢きん
き‐きん【飢×饉/×饑×饉】
飢饉
飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 03:48 UTC 版)
「東北凶作」も参照 古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。 特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。 また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことが、死者がさらに増えた原因であるとされている。東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域こそ広大だが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕作適地が少なかったうえに、当時の水稲生産の北限域に近く稲作に適さない土地であった。しかし幕藩体制は石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていた。この構造的な矛盾と、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害・獣害を原囚とする凶作を契機にして、飢饉が多発し多数の飢人と餓死者を出していた。 特に被害の甚大であった元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。一揆については次節で詳述する。
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「飢饉」の例文・使い方・用例・文例
- 飢饉に病気はつきものだ
- 人類は依然として飢饉と戦争に苦しんでいる
- 飢饉は不作によって起こる
- 多くの人が飢饉のために餓死した
- 収穫がもっと悪くなれば、飢饉が起こるかも知れない。
- 飢饉の見通しが世界の多くの地域に迫っている。
- 飢饉のために、家畜が餓死した。
- 飢饉に病気はつきものだ。
- 飢饉に直面してもあなたは食べ物を他の人と分かち合うことができますか。
- 飢饉が人々にひどい窮乏をもたらした。
- 我々に飢饉が迫った。
- 火山の噴火に続いて飢饉が訪れた。
- たいてい、飢饉になると疫病も発生する。
- その長い干ばつの後に飢饉が起こった。
- これらの国はしばしば飢饉に襲われた。
- その飢饉で何人もの人が死んだ.
- 燃料[石炭]飢饉.
- 我々に飢饉が迫った.
- 戦争の後に飢饉が起こった
- シベリアは飢饉だ
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