翔鳳丸
飛鸞丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:51 UTC 版)
1922年(大正11年)10月12日 - 起工(浦賀船渠) 1923年(大正12年)8月16日 - 進水9月1日 - 関東大震災でイギリスより輸入した主機用の減速歯車が横浜港で、ハシケに積載されたままハシケ焼失で水没、浦賀船渠の施設の被災もあり、竣工が大幅に遅れた。 1924年(大正13年)12月15日 - 竣工 第2船の飛鸞丸の竣工が翔鳳丸型4隻の最後になった。 1934年(昭和9年)3月21日 - 夕刻から翌22日未明にかけ、強風を伴った低気圧が日本海からオホーツク海へと通過して行った。飛鸞丸は17時30分南々東の風15m 小雨の函館桟橋離岸、港外に出たあたりから風向は南々西となり急激に風速増大し、18時25分葛登支灯台沖にて前途航行困難と判断し、引き返そうと右舷回頭を3回試みたが、船首方向が風向と90度に達すると風上に切り上がってそれ以上回頭できず回頭を断念。このとき積載貨車の脱線あり、また追波を受けて車両甲板上に海水が浸入し、車両甲板下最後部の操舵機室へは換気口とロープホールから浸水してグレーチングが浮動破損し、その破片が操舵機に引っ掛かって一時操舵不能となった。また中央部のボイラー室へは、車両甲板石炭積込口から海水が浸入し、石炭もろとも泥水状態となって流入、焚火困難となってボイラー圧の低下はあったが、かろうじて22日1時に三厩錨地に到着、投錨し遭難を免れた。この強風で無線送信用空中線が一時切断され、船から陸への通信が途絶したため、飛鸞丸遭難かと騒がれた一幕もあった。なお同夜、函館大火が起きている。 1941年(昭和16年) - 音響測深儀装備 1945年(昭和20年)7月14日 – 函館発定刻2時40分のところ2時55分頃12便として出航し、青森へ向け航行中、5時に青森地区空襲警報あり、警戒しつつ7時10分青森港堤川沖に到着錨泊、この時は攻撃を受けることはなかった。14時05分再度の空襲警報あり、抜錨し縫航による回避行動をとったが、14時50分頃よりアメリカ軍機の機銃掃射と爆撃を受け、15時16分より船体は右舷に傾斜し15時40分沈没した。乗組員97名中17名が戦死したほか、船員養成所教官生徒56名中14名死亡。なお日本側史料では爆撃直前にアメリカ軍機2機を撃墜したとされるが、アメリカ側史料にはその記録はない。
※この「飛鸞丸」の解説は、「翔鳳丸」の解説の一部です。
「飛鸞丸」を含む「翔鳳丸」の記事については、「翔鳳丸」の概要を参照ください。
- 飛鸞丸のページへのリンク