陸奥国留守職伊沢家景
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翌文治6年(1190年)3月には吏僚的な御家人である伊沢家景が陸奥国留守職が任命され、宮城郡多賀国府(宮城県多賀城市)へ赴任して奥州に住し、勧農や「民庶の愁訴」の取り次ぎ、国務に従わない者の取締りなどを行うこととなった。これは従来、平泉の藤原氏が執りおこなっていた陸奥国府の在庁支配権を頼朝政権が継承したことの現れであったが、前年12月に出羽国北部(秋田県地方)で起こり、鎮定に3か月を要した大河兼任の乱では陸奥国留守所の長官(本留守・新留守)がともに大河兼任に与力したため、この機会に留守職交替をおこなったものでもあった。家景の、この留守職任命も奥州総奉行任命と見なされることがある。史料によれば、頼朝には「奥州羽州地下管領」権とでもいうべき権益があたえられており、それによって幕府は、知行国主や国守とは別個に国衙機構を動かし、両国の行政権をになう根拠を獲得していたのであり、家景は「鎌倉殿」の意のままに陸奥国衙を統制して国務全般をとりしきる権限があたえられた。家景はまた、建久年間(1190年-1198年)より宮城郡岩切(仙台市)に岩切城を築き、以後、留守氏を称することとなる。伊沢氏の留守職権は13世紀中ごろまで認められるものの、陸奥の幕府知行国制の開始にともない、消滅したとしている。これに対して、幕府要人が陸奥守を務めたと言っても、北条重時の任命以降は直接国務を行わない「名国司」(みょうこくし)に過ぎず、実際の国務においては伊沢氏の留守職無くしては機能しなかった筈で、幕府滅亡まで留守職権は存続したと考えて問題ないとする説もある。
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