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陸奥国留守職伊沢家景とは? わかりやすく解説

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陸奥国留守職伊沢家景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 23:21 UTC 版)

奥州総奉行」の記事における「陸奥国留守職伊沢家景」の解説

文治6年1190年3月には吏僚的な御家人である伊沢家景陸奥国留守職任命され宮城郡多賀国府宮城県多賀城市)へ赴任して奥州住し勧農や「民庶愁訴」の取り次ぎ国務従わない者の取締りなどを行うこととなった。これは従来平泉藤原氏執りおこなっていた陸奥国府の在庁支配権頼朝政権継承したことの現れであったが、前年12月出羽国北部秋田県地方)で起こり鎮定に3か月要した大河兼任の乱では陸奥国留守所長官(本留守・新留守)がともに大河兼任与力したため、この機会留守交替おこなったものでもあった。家景の、この留守任命奥州総奉行任命見なされることがある史料によれば頼朝には「奥州羽州地下管領とでもいうべき権益あたえられており、それによって幕府は、知行国主国守とは別個に国衙機構動かし両国行政権をになう根拠獲得していたのであり、家景は「鎌倉殿」の意のまま陸奥国衙を統制して国務全般とりしきる権限あたえられた。家景また、建久年間1190年-1198年)より宮城郡岩切仙台市)に岩切城築き以後留守氏称することとなる。伊沢氏留守職権13世紀中ごろまで認められるものの、陸奥幕府知行国制開始にともない消滅したとしている。これに対して幕府要人陸奥守務めたと言っても北条重時任命以降直接国務行わない「名国司」(みょうこくし)に過ぎず実際国務においては伊沢氏留守無くしては機能しなかった筈で、幕府滅亡まで留守職権存続したと考えて問題ないとする説もある。

※この「陸奥国留守職伊沢家景」の解説は、「奥州総奉行」の解説の一部です。
「陸奥国留守職伊沢家景」を含む「奥州総奉行」の記事については、「奥州総奉行」の概要を参照ください。

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