陶芸の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/10 05:15 UTC 版)
1878年(明治11年)古九谷復興のため塚谷竹軒、大蔵寿楽に半年間九谷素地の製法を学び、京都から雲林院宝山を招いて研究に励み、1879年(明治12年)3月維新舎を開校して舎主となった。1880年(明治13年)1月飛鳥井清の九谷陶器会社支配人兼陶工部長に就き、1881年(明治14年)創立事務を終えて維新舎を再興し、上京して江戸川製陶所に学んだ。1884年(明治17年)来県したゴットフリード・ワグネルの指導を受け、1885年(明治18年)再び上京して加藤友太郎、植田豊橘、ワグネルに学んだ。 1886年(明治19年)前田正名により五二会石川県江沼支部監督に指名され、1888年(明治21年)2月江沼郡九谷陶器画工組合頭取、3月陶器研究会会長、1889年(明治22年)4月江沼郡九谷陶器同盟組合頭取を歴任した。 1894年(明治27年)12月石川県工業学校陶磁科講師となり、1897年(明治30年)3月助教諭、1902年(明治35年)5月教諭に進んだ。1907年(明治40年)5月辞職し、奥鷹匠町に工房を設けて陶芸に専念し、1913年(大正2年)11月2日病没した。墓所は鉄砲町松縁寺で、戒名は心誉院秋月良円居士。
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