陶器の殖産事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/02 17:12 UTC 版)
細川氏の肥後入国以来小代焼の生産は一子相伝であり、牝小路氏・葛城氏の両本家当主による質を重んじた少量生産、瓶焼窯一窯のみであった。 当時、肥後国内の陶磁器生産量は減少しており、熊本城下には他国の安価な陶磁器が流入し国益をそこなっていた。職業柄、薪を管理する立場であった林右衛門義明は、藩の支援のもと小代焼の増産を企てた。 牝小路・葛城両本家に協力を求めたが、両家とも多忙であったとみられ、協力を得られなかった。そこで、かつて牝小路本家の当主であった(養子であったため養父の実子に家督を譲り分家していた)牝小路和左衛門に協力を求め、天保3年(1832年)に藩から3貫目を借用し、これを元手に和左衛門の屋敷内に最初の窯を築いた(のち和左衛門は独立し石原窯と呼ばれる)。 林右衛門義明は最初の窯が手狭であるとして、天保7年(1836年)、藩からの借用金2貫300目と自前で都合した7貫目を元手に、藩の櫨場(ハゼノキの育苗場)を借りて瀬上窯を築いた。職人は地元のみではなく、他国からも雇い入れている(福岡県八女市立花町の男ノ子焼は、職人が小岱山麓に移住したため、途絶えたとされている)。主に日用雑器を生産し、「小代」・「五徳」・「松風」等を窯印に熊本県北部を中心に販売した。 窯印の「五徳」は、「消毒作用がある・茶の保存性に優れる・酒の保存性に優れる・移り香を防ぐ・汚れたら火の中に入れると新品同様になる」等の小代焼にあるとされた効能から名付けられたものである。牝小路・葛城・瀬上らによって作られたとみられる宣伝文句であり、この効能を挙げ加藤清正人気にあやかった宣伝文が残っている。 「松風」は肥後国の北の関所である南の関の別称「松風の関」からとられたものである。瀬上窯で修業した野田広吉によって開かれた野田窯は、松風焼と称し現在も作陶している。 瀬上窯は牝小路・葛城両家の瓶焼窯との交流もあり、手伝い等の職人の行き来もあったと考えられており、瓶焼窯が老朽化し使用不能になったのち、牝小路・葛城両家もこの窯を使用して作陶したとみられる。 林右衛門義明の死後、瀬上家は家族と数名の職人で作陶したが、働き手が教職に就くなど減少したため、明治20年代には経営から手を引いた。瀬上窯は賃貸され大正年間まで焼かれた。 遺構は玉名郡南関町に現存しており、平成元年に発掘調査・公園整備がなされ、瓶焼窯とともに古小代の里公園の一部となっている。毎年3月に陶器・梅まつりが行われる。
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