陪塚
陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:42 UTC 版)
名称形状規模特徴榊山古墳(造山第1号墳) 円墳もしくは前方後円墳 後円部径約40メートル 馬形帯鈎が出土。その他、神獣鏡や銅鈴等も出土。 造山第2号墳 方墳 一辺約40メートル 周濠が存在。外堤上に埴輪列を伴い、100体以上の埴輪が出土。 造山第3号墳 円墳か? 径約30メートル 造山第4号墳 円墳もしくは前方後円墳 墳丘の長さ約55メートル 墳丘端から円筒埴輪、形象埴輪(家形・短甲形)が出土。 千足古墳(造山第5号墳) 前方後円墳(帆立貝形古墳) 墳丘の長さ約75メートル 3段築成。九州北西部の装飾古墳に類似した初期の横穴式石室をもつ。石室内に直弧文の刻まれた石障がある。 造山第6号墳 円墳 径30メートル 横穴式石室をもつ。 ※第5号墳(帆立貝形古墳の千足古墳)は初期の横穴式石室が主体であり、円墳の1基から初期の須恵器や陶質土器が出土していることを考え合わせると、陪塚(ばいちょう・ばいづか)と考えられているこれらの6基の古墳群は、造山古墳と築造時期が異なる古墳を含み、陪塚とするのは適切ではないとみられている。 榊山古墳(造山第1号墳) 造山第2号墳 造山第3号墳 造山第4号墳 千足古墳(造山第5号墳)
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/22 21:04 UTC 版)
「王塚古墳 (神戸市)」の記事における「陪塚」の解説
王塚古墳の周囲では陪塚(陪冢)3基の築造が伝えられ、うち次の2基が現存する。 北陪塚(位置)「飛地い号」として玉津陵墓参考地の陪冢に治定。通称「幣塚」。王塚古墳の北方の幣塚公園内に位置する。直径約10メートルの円墳状であるが、詳細は不明。 東陪塚(位置)「飛地ろ号」として玉津陵墓参考地の陪冢に治定。王塚古墳の東方に位置する。一辺約15メートルの方墳状であるが、詳細は不明。 北陪塚(幣塚、飛地い号) 東陪塚(飛地ろ号)
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 20:26 UTC 版)
両宮山古墳周辺では中小古墳数基が分布するが、そのうち次の1基は陪塚と推定される。 和田茶臼山古墳(わだちゃうすやまこふん)所在地:赤磐市和田(位置) 形状:帆立貝形古墳 規模:墳丘長55メートル、後円部直径41.5メートル(推定)、前方部長さ15メートル、前方部幅19.5メートル 両宮山古墳の後円部北側に位置する。墳丘主軸は両宮山古墳とほぼ直交し、前方部を西方に向ける。墳丘は2段築成と見られる。現在では墳丘は後円部のみを遺存するが、発掘調査により前方部が確認されたほか、2重周濠を伴うことが判明した。また、両宮山古墳と同様に葺石・埴輪は検出されていない。築造時期は5世紀後半-末頃と推定される。外濠を両宮山古墳と共有すると見られるなど、両宮山古墳とは計画的に配置されて古墳の様相も類似することから、和田茶臼山古墳被葬者は両宮山古墳被葬者と親密な関係にあるとされる。 この和田茶臼山古墳の古墳域は、1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている(史跡「両宮山古墳」に追加指定)。 なお、両宮山古墳の前面には森山古墳・正免東古墳(非現存)も築造されるが、両古墳の場合には葺石・埴輪を伴う点が注目される。一帯では朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳といった古墳の築造も認められるが、埴輪はいずれにおいても検出されている。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 05:53 UTC 版)
古墳周辺では、北側・南側に次の各1基の陪塚(陪冢)の築造が認められる。 仁馬山北墳 - 円墳。畑地の開墾の際の削り残しとする説もある。 仁馬山南墳 - 円墳。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 21:56 UTC 版)
壇場山古墳の周囲では陪塚数基(10基程度か)の築造が知られ、うち次の2基が現存する。 林堂東塚古墳(りんどうひがしづかこふん、位置)史跡「壇場山古墳 第一、二、三古墳」のうち「第一古墳」。壇場山古墳後円部の東側に位置する。墳丘は大きく削られており、詳細は不明。 櫛之堂古墳(くしのどうこふん、位置)史跡「壇場山古墳 第一、二、三古墳」のうち「第二古墳」。壇場山古墳後円部の南西側に位置する。墳丘は大きく削られており、墳形は不明。墳丘やや西寄りには長持形石棺の短辺部が露出しており、埋葬施設は長持形石棺の直葬とされる。名称の「櫛之堂」は、この石棺の形状が「櫛の胴」に見えたことに由来する。 林堂東塚古墳(第一古墳) 櫛之堂古墳(第二古墳) 櫛之堂古墳墳頂の長持形石棺
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:53 UTC 版)
室宮山古墳の北東には、陪塚としてネコ塚古墳(猫塚古墳)がある(北緯34度26分39.88秒 東経135度44分2.37秒 / 北緯34.4444111度 東経135.7339917度 / 34.4444111; 135.7339917 (陪塚:ネコ塚古墳))。このネコ塚古墳は室宮山古墳の周堤に乗るようにして築造された方墳で、一辺約70メートル、高さ約10メートルを測る。1888年(明治21年)頃に発掘され、竪穴式石室と鉄器が発見されたという。その後の調査では、墳丘表面から緑泥片岩・刀剣類・鉄鏃・三尾鉄・三角板革綴短甲・頸甲などが検出されている。 出土した甲冑類が多いことから、このネコ塚古墳の被葬者を武器庫管理者(原初的官僚)と推定する説がある。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:44 UTC 版)
天神山古墳の東北方には、陪塚と見られる円墳が残存する(A陪塚、位置)。規模は、直径36メートル・高さ3.2メートル。天神山古墳の主軸延長線上に概ね位置し、出土した円筒埴輪も天神山古墳出土品と同種になる。この陪塚の築造の背景として、大阪府羽曳野市の墓山古墳と陪塚の向墓山古墳の形態が指摘される。このA陪塚は『上毛古墳綜覧』では「九合村67号墳」として登載されている。 また、前方部南西隅の外堤上では古墳跡が認められており、こちらも天神山古墳の陪塚と想定されている(B陪塚、位置)。『上毛古墳綜覧』ではこの古墳の登載はない。なお、B陪塚では古くから横穴の存在が言い伝えられており、天神山古墳とは無関係の後期古墳の可能性がある。 A陪塚 B陪塚想定地
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 04:19 UTC 版)
宮内庁では能褒野墓の飛地陪冢(陪塚)としてい号・ろ号・は号・に号・ほ号の5基、域内陪冢としてい号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号・と号・ち号・り号の9基の計14基を治定する。 能褒野王塚古墳周囲では、以上14基のほか数基を加えた10数基の円墳・方墳の分布が認められ、これらは「能褒野古墳群」と総称される。これらのほとんどについて、実際には陪塚ではなく古墳時代後期に下って築造された古墳であると考えられている。 2011年度(平成22年度)には15号墳(は号陪冢)・16号墳(ろ号陪冢)に関して試掘調査が実施され、前者は直径18メートルの円墳、後者も直径18メートルの円墳と判明した。また周囲で小円墳跡2基が認められ、古墳群の構成古墳数はさらに多くなる可能性が指摘されている。また2013年度(平成25年度)にも域内陪冢い号・ろ号・ほ号・へ号・と号・ち号・り号、飛地陪冢に号・ほ号に関して試掘調査が実施され、そのうち域内り号では横穴式石室が確認されている。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 22:57 UTC 版)
「白鳥古墳 (平生町)」の記事における「陪塚」の解説
陪塚(陪冢)としては、後円部の南西約18メートルに1基が存在する。長軸約24メートル、短軸約14メートルの長方形状で、高さは約2.3メートル。内部は未調査であり明らかでない。なお、陪塚ではなく白鳥古墳の周堤帯の一部と見る説もある。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:12 UTC 版)
本古墳の陪塚(陪冢)について考古学的には詳らかでない。一方で宮内庁では次の1基を陪冢に治定している。 飛地い号(通称「隼人の墓」、羽曳野市島泉7丁目:位置)丸山古墳の北方に所在する。古墳名は「隼人塚古墳(はやとづかこふん)」。『日本書紀』の記事上の雄略天皇に殉死した隼人の墓に想定される。一辺20メートルを測る方墳とされるが、遺構・出土品・築造時期などの内容は詳らかでなく、立地的には丸山古墳の陪塚である可能性はあるがそれも詳らかでない。江戸時代には既に本古墳を隼人の墓に比定する伝承が存在しており、享保15年(1730年)には並河誠所によって碑が建立されている。かつては「ハイト塚」とも称され、現在も歯痛神として信仰される。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 23:59 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 本古墳の陪塚(陪冢)は定かでなく、考古学的には伴わなかったものと推測される。 宮内庁治定の菅原伏見東陵の陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所。詳細はそれぞれ次の通り。 湟内陪冢(伝田道間守墓、奈良市尼ヶ辻町字西池:位置)宝来山古墳の墳丘南東の周濠内に浮かぶ小島。宮内庁により田道間守の墓に仮託される。田道間守について、『日本書紀』・『古事記』ではその墓に関する記載はないが、『釈日本紀』所引『天書』逸文では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬ったとする。小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の『御陵図』に島の存在が描かれていないため、実際には後世の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測される。ただし『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある。現在は小島の対岸に拝所も設けられている。 飛地い号(通称「兵庫山」、奈良市宝来町字堂垣内:位置)宝来山古墳の北西約200メートルに位置する。遺跡名は「兵庫山古墳」。直径約40メートルを測る大型円墳である。江戸時代には牛頭天皇社があったほか、元禄期以後は安康天皇陵に考定する説も散見される。古墳南側には平城京の三条大路が通るはずであり、三条大路はこの兵庫山古墳によって狭められたものと推測される。 飛地ろ号(奈良市平松町字北内:位置)宝来山古墳のくびれ部西方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される。 飛地は号(奈良市尼ヶ辻町字中谷(千手谷):位置)宝来山古墳の南方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される。 飛地に号(奈良市尼ヶ辻町字馬田:位置)宝来山古墳の前方部東方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される。 飛地ほ号(奈良市尼ヶ辻町字天王:位置)宝来山古墳の後円部東方に位置する。内容は詳らかでない。 飛地へ号(奈良市尼ヶ辻町字菅上:位置)宝来山古墳の北東方に位置する。内容は詳らかでない。 以上のほか、宝来山古墳の後円部西方には削平された古墳跡(平松北内古墳)が認められており、溝の検出や、家形埴輪・鰭付円筒埴輪の出土があった。そのさらに西方でも円形の地割が残っており、そちらも古墳(仮称:宝来塚垣内古墳)の可能性が指摘される。また以上を総合して、宝来山古墳の周囲には従属的な小型古墳群が存在したとする説がある。 湟内陪冢 拝所 飛地ろ号 飛地は号 飛地に号 飛地ほ号 飛地へ号
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 21:17 UTC 版)
陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は近親者や従者を葬ったとされる大古墳の近くに存在する小さな古墳である。大仙陵古墳で宮内庁が指定・管理する陪塚は12基ある。坊主山(円墳、直径10m)、源衛門山(円墳、直径約40m)、大安寺山(円墳、直径55m)、茶山(円墳、直径55m)、永山(前方後円墳、墳丘長104m、周濠あり)、丸保山(帆立貝式、墳丘長87m、周濠あり)、菰山(帆立貝式、墳丘長36m、周濠あり)、樋の谷(円墳、直径47m)、銅亀山(方墳一辺26m)、狐山(円墳、直径23m)、竜佐山(帆立貝式、墳丘長67m、周濠あり)、孫太夫山(帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり)である。しかし永山古墳は規模が大きく造出しを有する前方後円墳であること、坊主山は三重濠外縁から264mと遠いことから陪塚とは考えにくい。逆に坊主山より近くにありながら宮内庁が指定していない塚廻(円墳、直径35m)、鏡塚(直径15m)、夕雲一丁南(方墳)、収塚(帆立貝式)、昭和初年頃まで存在していた帆立貝式一基は陪塚の可能性が高い。以上により陪塚は15基あるとされている。 竜佐山古墳 孫太夫山古墳 永山古墳
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 13:49 UTC 版)
コナベ古墳の前方部の西側から後円部北東にかけては、10基の陪塚が並んでいる。陪塚大和第16号-18号墳および大和第20号-26号墳がそれであり、古墳北側に大和第16号墳と第17号墳が並び、北東に第18号墳と第20号墳が、北西には第21号墳と第22号墳がそれぞれ位置し、前方部の西側には、北より第23号墳、第24号墳、第25号墳、第26号墳の4基の陪塚が並ぶ。いずれも比較的明瞭に確認することができ、周濠に沿って整然と並んでいるため、古墳時代中期の陪塚の典型例として知られる。また、西側の陪塚と現況の外堤とのあいだは、いわゆる周庭帯となっていて、この部分は二重濠になる可能性がある。 10基の陪塚は、北西に立地する大和第21号墳が径42メートルの円墳であるほかは、すべて一辺が11メートルないし35メートルの方墳であり、うち7基は陵墓参考地に指定されている。1997年の大和20号墳の発掘調査により、コナベ古墳の後円部の中心から陪塚へ延伸した線と、それぞれの方墳陪塚の中軸線が重なるのではないかと考えられるようになった。また、大和第20号墳の周濠では、石をふいて苑池とした遺構が見つかっており、上述のコナベ古墳における奈良期の石敷遺構と同様のものと見なされている。第20号墳は陪塚ながら周濠をともない、そこからは円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、家形埴輪、壺形埴輪、蓋形埴輪などの形象埴輪も出土している。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 20:16 UTC 版)
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の周辺では、円墳2基(西都原169号墳・西都原170号墳)・方墳1基(西都原171号墳)の計3基の古墳が築造されており、いずれも男狭穂塚古墳または女狭穂塚古墳の陪塚(陪冢)と推測される(いずれも陵墓参考地治定外)。本項目では女狭穂塚古墳と関係が深いと見られる西都原169号墳・西都原171号墳について解説する(西都原170号墳については「男狭穂塚古墳#陪塚」参照)。 西都原169号墳 形状:円墳 規模:直径49メートル、高さ6.5メートル、周堀幅7.5-10メートル 調査歴:1912年(大正元年)発掘調査、1998-2003年(平成10-15年)宮崎県教育委員会による再調査 男狭穂塚古墳の西側に位置する。西都原170号墳と並び、西都原古墳群では最大級の円墳である。墳丘は3段築成。墳丘表面では、墳頂・テラスに円筒埴輪列が、斜面に葺石が認められているほか、形象埴輪(壺形・家形・蓋形・盾形・靫形・甲形・冑形・船形埴輪)が樹立したとされる。主体部の埋葬施設は不明であるが木棺直葬の可能性が高いとされ、発掘調査では小型珠文鏡・直刀・刀子・鉄斧・銅釧・竹櫛・鉄鏃等が検出されている。以上より、築造年代は5世紀前半頃と推定される。男狭穂塚古墳に近い位置であるが、出土埴輪の特徴は女狭穂塚古墳と酷似する。なお、かつて埴輪子持家(国の重要文化財)および埴輪船(国の重要文化財)がこの169号墳出土とされていたが、再調査により170号墳出土と確認されている。 西都原171号墳 形状:方墳 規模:一辺約20.8メートル 調査歴:1912年(大正元年)発掘調査、1998-2001年(平成10-13年)宮崎県教育委員会による再調査 女狭穂塚古墳の西側に位置する。西都原古墳群では2基しかない方墳の1つ(もう1基は常心塚古墳 - 西都市上三財)。墳丘は2段築成。墳丘表面では、葺石のほか墳頂・テラスに円筒埴輪列が認められているほか、壺形埴輪・形象埴輪(家形・盾形・蓋形・短甲形埴輪)が検出されている。墳丘の北西-南西-南東の3辺には周堀が巡らされる。以上より、築造年代は5世紀前半頃と推定される。位置および出土埴輪から女狭穂塚古墳の陪塚と推測されるほか、女狭穂塚古墳と相似形の仲津山古墳(大阪府藤井寺市)の陪塚が方墳であることとの関連性が指摘される。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:51 UTC 版)
雲部車塚古墳の周囲では陪塚(陪冢)数基の築造が知られ、うち次の3基が現存する。 南陪塚(北緯35度5分8.94秒 東経135度18分15.55秒 / 北緯35.0858167度 東経135.3043194度 / 35.0858167; 135.3043194 (陪塚:南陪塚(い号陪冢)))宮内庁治定:飛地い号 雲部車塚古墳の南に位置する。詳細は明らかでないが、直径30メートルの円墳状をなす。 北陪塚(北緯35度5分16.10秒 東経135度18分16.03秒 / 北緯35.0878056度 東経135.3044528度 / 35.0878056; 135.3044528 (陪塚:北陪塚(ろ号陪冢)))宮内庁治定:飛地ろ号 雲部車塚古墳の北に位置する。詳細は明らかでないが、一辺27メートルの方墳状をなす。 飯塚古墳(イ塚古墳、北緯35度5分13.67秒 東経135度18分10.62秒 / 北緯35.0871306度 東経135.3029500度 / 35.0871306; 135.3029500 (陪塚:飯塚古墳))宮内庁治定:なし 雲部車塚古墳の西の小山上に位置する。直径約30メートルの円墳。ただし雲部車塚古墳の先行古墳の可能性がある。 上記のほか、絵図によれば車塚・鳥居塚2基・牛塚(楓塚)・隔塚・県守塚があったという(いずれも非現存)。 南陪塚(飛地い号) 北陪塚(飛地ろ号) 飯塚古墳
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:55 UTC 版)
西陵古墳の北方には第一古墳(北緯34度19分43.99秒 東経135度10分7.34秒 / 北緯34.3288861度 東経135.1687056度 / 34.3288861; 135.1687056 (陪塚:第一古墳))、第二古墳(北緯34度19分45.31秒 東経135度10分6.97秒 / 北緯34.3292528度 東経135.1686028度 / 34.3292528; 135.1686028 (陪塚:第二古墳))の円墳2基があり、いずれも西陵古墳の陪塚とされる。これらは西陵古墳とともに国の史跡に指定されている。 なお、かつては陪塚と見られる古墳がもう1基存在したが、線路の敷設時に破壊された。その際に提瓶2個、高坏1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片、鉄鏃2本が出土したという。 第一古墳 第二古墳
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:43 UTC 版)
作山古墳の陪塚(陪冢)の存在は明らかでない。かつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていたが、実際には前方部前面のものと同様に、未削平の残丘の1つと見られる。なお、作山古墳北側の丘陵尾根上には前方後円墳の野宮古墳の存在が知られるが、作山古墳との関係は明らかでない。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:11 UTC 版)
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の周辺では、円墳2基(西都原169号墳・西都原170号墳)・方墳1基(西都原171号墳)の計3基の古墳が築造されており、いずれも男狭穂塚古墳または女狭穂塚古墳の陪塚(陪冢)と推測される(いずれも陵墓参考地治定外)。本項目では男狭穂塚古墳と関係が深いと見られる西都原170号墳について解説する(西都原169号墳・西都原171号墳については「女狭穂塚古墳#陪塚」参照)。 西都原170号墳 形状:円墳 規模:直径47メートル、高さ3.5メートル 調査歴:1912年(大正元年)発掘調査、2004-2006年(平成16-18年)宮崎県教育委員会による再調査 女狭穂塚古墳の西側に位置する。西都原169号墳と並び、西都原古墳群では最大級の円墳である。墳丘は3段築成。墳丘表面では墳頂に円筒埴輪列や家形埴輪が認められるが、葺石は認められていない。主体部の埋葬施設は不明であるが木棺直葬の可能性が高いとされ、発掘調査では短甲・頸甲・肩甲・直刀・鉄鏃等が検出されている。以上より、築造年代は5世紀前半頃と推定される。男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳とは等距離に位置するが、出土埴輪の特徴は男狭穂塚古墳と酷似する。 なお、再調査での出土埴輪片の検討により、埴輪子持家(国の重要文化財)および埴輪船(国の重要文化財)はこの170号墳出土であることが確認されている(かつては169号墳出土とされた)。埴輪子持家は全長95.6センチメートルで、伏屋建物(主屋)の四方に壁建式の附属屋(入母屋造・切妻造2棟ずつ)がとりつく、類例のない埴輪になる。また埴輪船(船形埴輪)は全長100.7センチメートルで、準構造船を表現しており、写実性が非常に高い埴輪になる。 埴輪 子持家(国の重要文化財)東京国立博物館展示。 埴輪 船(国の重要文化財)東京国立博物館展示。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 14:11 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 宮内庁治定の山辺道勾岡上陵の陪塚(陪冢)は、域内陪冢1ヶ所、飛地陪冢3ヶ所(い号・ろ号・は号)の計4ヶ所。詳細はそれぞれ次の通り。 域内陪冢(通称「アンド山」、位置)山辺道勾岡上陵拝所の北側に位置する。古墳名は「アンド山古墳」。前方後円墳で、墳丘長120メートルを測る。段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測される。主体部の埋葬施設は竪穴式石室と見られる。築造時期は行燈山古墳と同時期と推定される。 飛地い号(通称「柘榴塚」、天理市柳本町:位置)行燈山古墳の後円部南側に位置する。陪塚の可能性は薄いと見られる。 飛地ろ号(通称「百塚」「白塚」「臼塚」、天理市柳本町:位置)行燈山古墳の前方部南側に位置する。陪塚の可能性は薄いと見られる。 飛地は号(通称「南アンド山」、天理市柳本町:位置)山辺道勾岡上陵拝所の南側に位置する。古墳名は「南アンド山古墳」。前方後円墳で、墳丘長65メートルを測る。段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測される。築造時期は行燈山古墳と同時期と推定される。 以上のほか、行燈山古墳の西側にある大和天神山古墳(天理市柳本町、奈良県指定史跡)も行燈山古墳の陪塚とする説がある。この大和天神山古墳は前方後円墳で、墳丘長103メートルを測る。墳丘の東半は国道169号の建設で削平されているが、その工事に先立つ1960年(昭和35年)の発掘調査(奈良県立橿原考古学研究所)で、竪穴式石室から内行花文鏡4面などの銅鏡23面を含む副葬品多数(国の重要文化財)が検出されている。これらの資料は行燈山古墳を考察する上でも重要視される。築造時期は3世紀後半-4世紀前半頃と推定される。 域内陪冢(アンド山古墳)左手前に後円部、右奥に前方部。 飛地い号 飛地ろ号 飛地は号(南アンド山古墳)左に後円部、右に前方部。 大和天神山古墳
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 14:08 UTC 版)
網野銚子山古墳の周囲では、次の陪塚2基の築造が知られる。 小銚子古墳(北緯35度40分36.25秒 東経135度1分44.82秒 / 北緯35.6767361度 東経135.0291167度 / 35.6767361; 135.0291167 (小銚子古墳))史跡「銚子山古墳 第一、二古墳」のうち「第一古墳」。網野銚子山古墳の墳丘主軸延長線上、南西側(後円部側)に位置する。円墳で、直径36メートル・高さ4.8メートルを測る。墳丘は2段築成。葺石・埴輪が認められている。主体部の埋葬施設は明らかでない。 寛平法皇陵古墳(北緯35度40分44.31秒 東経135度1分51.04秒 / 北緯35.6789750度 東経135.0308444度 / 35.6789750; 135.0308444 (寛平法皇陵古墳))史跡「銚子山古墳 第一、二古墳」のうち「第二古墳」。網野銚子山古墳の墳丘主軸延長線上、北東側(前方部側)に位置する。古墳名はかつて宇多天皇(寛平法皇)の廟所とする伝承があったことによる(古墳と時代は相違)。現在は墳丘上に祠が鎮座するほか、石組も巡らされ、大きく改変が加えられている。元々の墳形は明らかでない。 本古墳については、江戸時代中期の『丹後州宮津府志』や『丹哥府志』において、「寛平法皇陵」の名称で埋葬施設・出土品に関する事柄が記載される。これによれば、石櫃(石棺または石室か:石室であれば古墳時代後期-終末期で網野銚子山古墳と無関係)があり、内部に石枕のほか大刀1点・陶器14-15点・勾玉が見えたため、埋め戻して祠を建てたという。付近の本覚寺には、この寛平法皇陵古墳からの出土という凝灰岩製石枕が伝世されるが、文献とは大きさが異なるため、確実に本古墳からの出土かは明らかでない。この石枕は京丹後市指定有形文化財に指定されている。 小銚子古墳 寛平法皇陵古墳
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 23:39 UTC 版)
本古墳では、次の1基が陪塚(陪冢)と推定される。 赤面山古墳(せきめんやまこふん)所在地:藤井寺市古室2丁目(位置) 形状:方墳 規模:一辺15メートル 史跡指定:国の史跡「赤面山古墳」(史跡「古市古墳群」のうち) 主体部の埋葬施設等の詳細は明らかでない。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 00:55 UTC 版)
明合古墳の周辺では5基の方墳が認められており(かつては8基存在か)、これらは明合古墳の陪塚と推測される。各古墳の詳細は次の通り。 陪塚1号墳一辺8.0メートル。大きく削平されている。 陪塚2号墳(通称「小塚」)一辺22.0メートル。残存する陪塚の中では最大規模。北東部が削平を受けているがほぼ完存し、葺石・円筒埴輪列が認められる。 陪塚3号墳不明。大きく削平されている。 陪塚4号墳一辺16.0メートル。西側が削平を受けている。付近では円筒埴輪片・形象埴輪片(蓋形・盾形埴輪)・初期須恵器片が認められる。 陪塚5号墳一辺15.1メートル。西側が削平を受けている。付近では埴輪片が散在する。 いずれも主体部の埋葬施設および副葬品は未調査のため明らかでない。なお4号墳の西側には6号墳があったといわれるが、昭和30年頃の開墾で消滅している。また主墳と2号墳の間および西辺外側には基壇状地の痕跡が認められており、祭祀地の可能性が指摘される。 陪塚1号墳 陪塚3号墳 陪塚4号墳 陪塚5号墳 陪塚2号墳出土 須恵器器台安濃郷土資料館展示。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 01:29 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 節内の全座標を出力 - GPX 位置データを出力 - RDF表示 摩湯山古墳付近には陪塚(陪冢)と推定される古墳として、南側に馬子塚古墳(位置)、北側にイナリ古墳(稲荷山古墳、位置)がある。またメゲ谷という地に狐塚があったというほか、摩湯山古墳の北東側の淡路神社(式内社)境内でも円筒埴輪が出土しており、同地でも古墳の存在が推定される。 それらのうち馬子塚古墳は、摩湯山古墳の南側に所在する方墳で、一辺約35メートルを測る。墳丘は2段築成。墳丘表面では円筒埴輪が存在するとされる。主体部の埋葬施設は粘土槨と推定される。1958年(昭和33年)の長池(摩湯山古墳前方部正面の池)の堤補修工事の際に墳丘は大きく削平されているが、その際に斜縁二神二獣鏡・管玉15個が出土している。築造時期は4世紀後半(または5世紀初頭)頃と推定される。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 22:28 UTC 版)
「夫婦塚古墳 (鹿嶋市)」の記事における「陪塚」の解説
夫婦塚古墳では陪塚と見られる古墳として、後円部東側において次の2基が認められている。 北側の古墳円墳。直径17.5メートル、高さ1.25メートル。周濠・葺石等の詳細は不明。 南側の古墳円墳。直径15.0メートル、高さ1.0メートル。周濠・葺石等の詳細は不明。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/28 19:55 UTC 版)
古墳には後円部を取り囲むように陪塚7基があったといわれる。現在は6基が現存し、宮内庁により宇度墓の陪冢に治定されている。
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 23:47 UTC 版)
宮内庁によって治定されている陪冢(陪塚)は次の5基。 飛地い号(大和高田市池田) - 円墳、直径6メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地ろ号(大和高田市池田) - 円墳、直径13メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地は号(大和高田市池田) - 円墳、直径15メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地に号(大和高田市敷島町) - 円墳、直径15メートル以上。出土品として埴輪がある。 飛地ほ号(領家山1号墳、大和高田市池田) - 円墳、直径20メートル。周濠を有する。出土品として埴輪(円筒形・家形・盾形・靫形)・須恵器がある。 飛地い号 飛地ろ号 飛地は号 飛地に号 飛地ほ号(領家山1号墳)
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陪塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 00:19 UTC 版)
富田茶臼山古墳の陪塚(陪冢)としては、次の方墳3基が知られる。いずれも後世に削平を受けて現在は地面にほぼ表出しないが、1993-1996年度(平成5-8年度)の発掘調査で確認された。 1号陪塚(北緯34度15分37.11秒 東経134度14分32.76秒 / 北緯34.2603083度 東経134.2424333度 / 34.2603083; 134.2424333 (1号陪塚))長方形で、長辺16メートル×短辺14メートル。葺石・円筒埴輪が検出されている。 2号陪塚(北緯34度15分34.41秒 東経134度14分33.65秒 / 北緯34.2595583度 東経134.2426806度 / 34.2595583; 134.2426806 (2号陪塚))長方形で、長辺24メートル×短辺20メートル。墳丘は2段築成。葺石・円筒埴輪が検出されている。 3号陪塚(北緯34度15分33.18秒 東経134度14分34.37秒 / 北緯34.2592167度 東経134.2428806度 / 34.2592167; 134.2428806 (3号陪塚))方形(推定)で、一辺20-24メートル。円筒埴輪が検出されている。葺石は不明。 これら古墳3基の築造企画には富田茶臼山古墳本体の築造企画との一致が見られ、富田茶臼山古墳の築造当初からの計画的配置が推測される。
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