阻卜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:11 UTC 版)
『遼史』に登場する阻卜という民族がケレイトに比定されている。 遼朝の聖宗が阻卜の諸部にそれぞれ節度使を任命して、その分割統治を推し進めると、これに抵抗する反乱が起き、可敦城(カトン・バリク)を包囲すると、烏古も呼応して立ち上がった。一旦は鎮圧されたものの、これを契機に契丹の西北経営に頓挫の兆しが現れはじめた。1026年、契丹軍の甘州ウイグル攻撃失敗に乗じて、阻卜諸部はそろって契丹に背き、契丹の統制力のゆるみに乗じて、北阻卜の磨古斯が阻卜諸部の統合を遂げ、1089年には遼朝もその王権を認めることとなった。この「磨古斯」なる人物は『集史』にあるマルクズ・ブイルク・カン(Marghūz Būīrūq Khān)に比定されている。
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