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開基から近世以前とは? わかりやすく解説

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開基から近世以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:36 UTC 版)

明行寺 (長野市)」の記事における「開基から近世以前」の解説

1573年(天正元年)6月、釋秀應によって開基された。寺伝によると、善光寺近く繁栄した至便の地であったため、各宗派寄り合った学問道場として栄えたとされている。1760年(宝暦10年)の権堂町村明細帳にはすでに浄土真宗出ている。現在地よりも北西へ約80メートル離れた表権堂通りから少し入った場所にあり、表権堂通り面して太鼓橋と門があった。境内広く現在の約3倍と伝わり小藤小路明行寺と言った言葉今でも残る。 1646年(正保3年)2月、釋惠によって寺内教圓寺開基される。 1751年(宝暦元年)2月19日西之門町桜小路角より出火西南風に煽られ善光寺町一帯計1478戸を焼く大火事となり、明行寺類焼する本堂はのちに再建された。 文政年間(1818年1829年)、現在地へ移転する。明行寺大門通りこの頃出来た考えられる旧地水茶屋花房新之助藤屋祐三郎が買い取っている。また、天保年間(1831年1845年)に水茶屋藤木屋が門前借地商い始めている(後に移転)。 1848年(弘化4年)3月24日善光寺地震発生明行寺倒壊免れたが翌25日昼頃全焼したその後本堂嘉永年間(1848年1855年)に再建されとされる1852年(嘉永5年)4月13日西後町より出火し東後町権堂町延焼。計100戸以上を焼き明行寺類焼した。 なお、『長野市80年史』には「明治初年」に火災があったとしているが、具体的な年次等は不明である。

※この「開基から近世以前」の解説は、「明行寺 (長野市)」の解説の一部です。
「開基から近世以前」を含む「明行寺 (長野市)」の記事については、「明行寺 (長野市)」の概要を参照ください。

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