開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 22:20 UTC 版)
多摩地域には関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋する乏水地帯の原野であったが、近世には江戸幕府開府に伴い用水確保のため江戸近郊の開発が加速した。 承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は40日、約24kmを掘り切った。費用は3000両だった。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水した。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、他市立小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱(と安松らの功労者たち)の人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われている。 また、『東村山音頭』の5番の歌詞には「言わず語りに 伊豆殿堀よ ソレヤレソレ」とあり、東京都側でも歌われている。 野火止用水史跡公園(新座市本多1丁目)で本流と平林寺へ分岐する平林寺堀と陣屋堀(廃止)に分かれる。 現在は関越自動車道を掛樋で越えている。 新座市野火止付近から志木駅周辺は暗渠となっている。
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