閉山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
山陽無煙炭鉱では経済的に採炭可能な場所が掘りつくされていき、新たに安定した採炭が可能な地区が開発されるめども立たなかった。そして無煙炭の需要も減少していくことも明らかであり、1970年(昭和45年)9月1日、職員と鉱員の組合に対して閉山を提案した。両組合とも会社側の閉山提案を了承し、11月27日に閉山となり、翌28日付で全従業員が解雇となった。1971年(昭和46年)1月17日には坑口が閉鎖され、2月15日、豊浦山神社にて閉山式が行われた。また1970年(昭和45年)7月には大嶺無煙炭鉱、櫨ケ谷無煙炭鉱も閉山となった。 炭鉱は危険性が高い職場であり山陽無煙炭鉱でも毎年のように死傷者が出た。しかし幸いなことに数百人が犠牲となって社会問題になるような大事故は、閉山まで一度も発生しなかった。この背景には鉱員から「そのうち鎧を着せられて入坑するようになるのではないか」との冗談が飛び出すほど安全対策を重視し、保安体制、教育の充実と徹底が閉山まで守られ続けたことがあった。 山陽無煙炭鉱の閉山時、榎山炭鉱と大明炭鉱が採炭を続けていた。榎山炭鉱は隣の山陽無煙炭鉱の閉山後、山陽無煙炭鉱で処理されなくなった坑内水が坑内に流入するようになり、排水が困難になった。炭鉱経営がより困難になって閉山の時期を模索し始めた中、1972年(昭和47年)7月11、12日の集中豪雨によって排水用の主要ポンプや坑道が水没してしまった。さっそく排水作業に取り掛かったものの坑道の一部が崩落し、保安上の問題も加わったことにより、結局8月いっぱいで閉山することになった。残った大明炭鉱は隣接する山陽無煙炭鉱と榎山炭鉱の坑内水が坑内に流入することになり、保安上の問題で1973年(昭和48年)3月に大明炭鉱本坑が閉山する。そして大明炭鉱猪ノ木坑も1977年(昭和52年)3月いっぱいで閉山となり、大嶺炭田の炭鉱はいったん全て閉山した。 しかし1979年(昭和54年)11月、吉部鉱業美祢炭鉱が露天掘りを開始し、大嶺炭田は復活する。1980年(昭和55年)9月には旧山陽無煙炭鉱の荒川坑で採掘を再開し、採掘された無煙炭は練炭の原料として販売した。吉部鉱業美祢炭鉱の荒川坑での操業は1992年(平成3年)4月で終了し、その後は再び露天掘りに移行したが、2002年(平成14年)に操業が終了し、大嶺炭田の炭鉱は全て閉山となった。
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