長岡外史
長岡外史
長岡外史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 13:55 UTC 版)
長岡 外史(ながおか がいし、安政5年5月13日(1858年6月23日) - 昭和8年(1933年)4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。 陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。
注釈
- ^ ロシアは、講和の準備中の段階での日本軍の樺太占領に怒ったが、仲介の労をとったセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領はこの作戦をむしろ支持している。
出典
- ^ 隅谷(1974)pp.309-310
- ^ a b c d e f g h i j k l m 荒山彰久 (2013). 日本の空のパイオニアたち: 明治・大正18年間の航空開拓史. 早稲田大学出版. pp. 18-25,73
- ^ 蔣介石先生の遺徳を顕彰する会『以徳報恩 -写真集「蔣介石先生の遺徳を偲ぶ」-』1986年、p.22
- ^ 関 2011, p. 33.
- ^ a b 関 2011, p. 34.
- ^ 東京朝日新聞 昭和8年4月22日附夕刊 第16879号 11面
- ^ 『陸軍航空の軍備と運用(1)』、16 - 20頁。
- ^ a b “長岡 外史(ナガオカ ガイシ)とは”. コトバンク. 2019年2月26日閲覧。
- ^ “第49回帝国議会衆議院”. 国立国会図書館. 2019年2月26日閲覧。
- ^ “file-20 スキー王国にいがた ~スキー発祥の地の2人|特集|新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語”. n-story.jp. 新潟県. 2019年2月26日閲覧。
- ^ 坂部護郎『戰争秘録將軍長岡外史』 二見書房、昭和16年(1941年)
- ^ 戸田大八郎『人間長岡外史:航空とスキーの先駆者』 大空社、平成6年(1994年)11月
- ^ 『官報』第2541号 明治24年12月17日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第3818号 明治29年3月25日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第4131号 明治30年4月14日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第4267号 明治30年9月20日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第7855号 明治42年8月30日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第925号、大正4年9月1日。
- ^ 『官報』第1245号、大正5年9月22日。
- ^ 『官報』第1252号 大正5年10月2日 敍任及辭令
- ^ 『官報』第320号「叙任及辞令」1884年7月23日。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。
- ^ 『官報』第8116号「叙任及辞令」1910年7月12日。
- ^ 『官報』第319号「叙任及辞令」1913年8月21日。
- ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3849号・付録「辞令」1896年5月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』第6627号「叙任及辞令」1905年8月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第1893号「叙任及辞令」1933年4月25日。
- ^ 『官報』第6948号 明治39年8月25日 敍任及辭令。
- ^ 『官報』1910年3月22日 敍任及辭令。
- ^ (財)新潟県体育協会表彰受賞者一覧
- ^ “ひげが特徴の自衛隊キャラ「がいし君」登場”. 上越タウンジャーナル. (2010年4月19日) 2014年1月18日閲覧。
- ^ FMとおかまちウェブ NEWS&TOPICS ~レルヒ祭記念バッジプレゼントのお知らせ~
長岡外史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:00 UTC 版)
「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。 203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解を否定する意見もある。 28サンチ榴弾砲の旅順送付について、自己の関与が大きかったことを述べているが、8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25〜26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議し、すでに鎮海湾に移設するための工事を開始していた同砲6門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。しかし長岡談話によると、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに同砲を旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、そののち陸軍大臣の説得に向かい同意を得たと、まったく違った経緯であったように記述している。これらの見解については現在も検証・研究・調査が続いている。
※この「長岡外史」の解説は、「旅順攻囲戦」の解説の一部です。
「長岡外史」を含む「旅順攻囲戦」の記事については、「旅順攻囲戦」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 長岡外史のページへのリンク