長岡入封以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 04:25 UTC 版)
「疋田氏 (牧野家重臣)」の記事における「長岡入封以後」の解説
2代目水右衛門の正則は当初は実子が無く、菅沼織部家の家老・今泉四郎兵衛家から養子を得て嫡子とした。これが3代目の正典である。ところが間もなく2代目の正則に実子の正久が生まれたので、正久は158石分知を受け疋田惣太夫家の初代となった。以後、水右衛門家は世禄450石となった。なお、疋田惣太夫の改易のおり(下記参照)、水右衛門家も遠慮を申し渡され350石に減知となったが、享保15年には許されて450石に復した。 5代目疋田水右衛門は、100石が加増され550石となる。長岡藩立藩以来、疋田氏に与えられた初めての新恩であった。実はこのとき5代目水右衛門は、実弟・幸之進(小姓100石)を家老山本氏に養子入りさせて家老本職を継がせた。 6代目水右衛門は、100石の分家を分出したため、450石となる。分出された100石の分家は一代限りで、消失しているが、その理由を示す史料は未見である。惣領家に家禄は還付されていない。このとき惣領家は50石の減知を受けて、400石となっている。 7代目水右衛門は、50石が加増され、450石に復す。明治維新後に、疋田氏は、藩主家の家令となった。
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