銃殺刑
銃殺刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:20 UTC 版)
「ガレアッツォ・チャーノ」の記事における「銃殺刑」の解説
1943年7月25日のファシスト党大評議会において、ムッソリーニに対する内部からの反対は遂に表面化する。チャーノは義父に対する反対票を投じる一員となり、ムッソリーニは失脚した。この政変の後に、チャーノの妻でもあるエッダは夫婦の亡命を試みるが、バチカンが庇護を拒絶するなどその望みは潰えた。結局、スペインへの逃亡を図った際にチャーノはドイツ軍によって逮捕され、大評議会でムッソリーニ反対票を投じた他のメンバーとともにヴェローナの監獄に収監された。その行動は反逆行為であると見做され、チャーノとデ・ボーノを始めとした6名は1944年1月8日-9日の公開裁判(会場は大評議会と同一のヴェローナ、ヴェッキオ城)によって有罪とされた。 ムッソリーニはこの義理の息子を助命する意思がなかったのか、あるいはそうしたくとも出来なかったのか、については後々まで議論がなされている。衆目の一致するところは、仮にムッソリーニがチャーノに恩赦を与えたなら、ムッソリーニ自身の政策の信頼性は大きく損なわれたであろう、ということである。判決を聞いた妻のエッダは危険を冒して半島を自動車で縦断、はじめは共和国政庁で、そして監獄で夫の助命を懇願したが、空しく終わった。その後エッダは農婦の身なりでスイスに逃亡した。エッダは妊娠中であるとの特別許可証を入手、スカートの中にチャーノの日記を隠し持っていた。シカゴ・デイリー・ニューズ紙の戦争記者でもあるポール・ガーリはエッダがスイス国内の修道院に潜伏中であることを突き止め、チャーノ日記の公刊を手助けした。同日記は1939年から1943年にかけてのファシスト政権下の多くの秘史を暴露しており、第一級の史料とされている(内容は政治関連に限定されており、チャーノの個人生活は殆ど含まれていない)。 1944年1月11日早朝、チャーノは銃殺刑に処せられた。チャーノの最後の言葉は「祖国よ永遠なれ!(Long live Italy!)」であったという。享年40であった。
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