鄭氏による東都承天府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 21:01 UTC 版)
1661年4月、鄭成功がオランダ人に通事として雇用されていた漢人何斌の誘導により鹿耳門を通過、台江内海を越えてプロヴィンティアを攻撃した。城砦を攻略した鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置した。ここに9ヶ月滞在した鄭成功はゼーランディアを攻略、ここに38年におよぶオランダ統治は終焉を迎えた。 オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称し鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経は1664年に東都を廃し、「東寧」と改称「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった。
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