遣欧と棄教とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

遣欧と棄教とは? わかりやすく解説

遣欧と棄教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:52 UTC 版)

千々石ミゲル」の記事における「遣欧と棄教」の解説

肥前有馬氏当主有馬晴純三男であり、肥前国釜蓋城城主であった千々石直員の子として生まれる。 父は肥前有馬氏分家開き千々石氏の名を用いていた。肥前有馬氏龍造寺氏合戦で父が死に1577年釜蓋城落城すると乳母抱かれ戦火免れた伝えられている。その後有馬晴純次男として大村氏継承していた伯父大村純忠元に身を寄せていたが、1580年ポルトガル司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲル洗礼名名乗る。これを契機にして同年有馬セミナリヨイエズス会神学校)で神学教育を受け始める。 1582年巡察師として日本訪れたイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、既にキリシタン大名であった有馬氏および大村氏接近し日本での布教活動知らしめるためにカトリック教会本山であるローマ使節送りたい提案したヴァリニャーノ原マルティノ伊東マンショ中浦ジュリアン、そして大村純忠の甥でもある千々石ミゲルセミナリヨから選び正使として共にヨーロッパへ渡った東洋からの信徒として教皇グレゴリウス13世謁見し、フェリペ2世世俗当主からの歓迎を受けながら見聞を広めた詳細は「天正遣欧少年使節」を参照 1590年日本戻ってきた彼らは翌1591年聚楽第豊臣秀吉拝謁秀吉は彼らに仕官勧めたが、一様に神学の道を志してそれを断った司祭叙階を受けるべく天草にあった修練院に入りコレジオ進んで勉学続け1593年7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。だがミゲル次第神学への熱意失って勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育前提であったマカオ留学への出発延期続けるなど、次第教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度目の当たりにして不快感表明するなど、欧州滞在時点キリスト教への疑問感じていた様子見られている。

※この「遣欧と棄教」の解説は、「千々石ミゲル」の解説の一部です。
「遣欧と棄教」を含む「千々石ミゲル」の記事については、「千々石ミゲル」の概要を参照ください。

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