退隠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 15:30 UTC 版)
文禄2年(1593年)閏9月12日、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。 大坂ニ居スワラレ候事。 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。 当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上候事。 代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。 先門跡セツカンノ者メシ出サレ候事。 メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。 当門主妻女ノ事。 ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシナミ申スベキ事。 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴトク由ニ候。 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。 つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。教如は秀吉の示した10年後に法主を准如に譲ると言う案を受け入れる態度を示したが、この事を聞いた強硬派の坊官が、秀吉に異議を申し立てる。秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下される。閏9月16日、准如に法主が継承する事が決定し、教如は退隠させられる。 なお、上場顕雄は教如は顕如との和解後に千利休を介して豊臣政権に接近していたが、天正19年(1591年)12月に利休が豊臣政権内の権力抗争の中で失脚・自害したことで、反利休派の石田三成らが本願寺内の反教如派幹部に対して法主の交代を求めたとする「石田三成黒幕説」を唱えている(十一か条の11に記された茶ノ湯とは利休関係者との関係を絶つことを求めたとされる)。ただし、この説(三成が利休排斥の一環として、利休派の教如を廃嫡する策動を行った説)が成立するには、利休の切腹の背景に三成らがいたとする説が成立する必要がある。
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