迷走するギリシャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:45 UTC 版)
1834年にはマニ半島において反乱が発生し、1836年にはアカルナニアで反乱が発生、そして1839年には「親正教(フィルオルソドクス)」陰謀が発覚、さら1840年、オスマン帝国とエジプトとの関係が悪化すると、クレタ、テッサリア、マケドニアでは騒動が発生、ギリシャ全域に不穏な雰囲気が漂っていた。 1833年夏、バイエルン人支配下のギリシャに苛立ったコロコトロニスがロシアの支援を受けてクーデターを起こそうとしたが、コロコトロニスは捕らえられた。彼は死刑を宣告された後、オソン1世により減刑された。さらに散発的な反乱や違法行為は続いており、斜陽の国、オスマン帝国との国境ではギリシャ不正規軍がトルコへ侵入、イピロスへ侵入してアルタを略奪するなどの行為を行なっていた。そのため、その討伐にオスマン帝国がギリシャ領土に侵入するなどギリシャは常に無秩序に悩まされた。 さらに摂政たちの間でも諍いが発生しており、1834年、アーマンスペルクはマウラー、ハイデックらを更迭して自らがギリシャ王国の支配者と化した。さらにアーマンスペルクはコレッティスをパリ公使としてギリシャ本国から引き離して政治に関わらせないようにした上でアーマンスペルクに従順なアレクサンドロス・マブロコルダトスを利用した。 1835年、オソン1世が成人になるとアーマンスペルクは自ら第一首相という肩書きを設立して自らの権力を保持したが、政治的には無能でしかも傲慢な性格は周囲との軋轢を生んだ。 翌年にオソン1世が妻を捜すためにミュンヘンへ向かった時、父であるルートヴィヒ1世にアーマンスペルク更迭の許可を求めたがルートヴィヒ1世はこれを認めた。1837年2月オソン1世はオルデンブルク家のアーマリアとともにギリシャへ帰国したが、この時、バイエルンの騎士ルートハルトを伴っていた。そしてアーマンスペルクは更迭され、第一首相は廃止された。 しかし、ルートハルトも結局、アーマンスペルクと同じく恣意的絶対主義でギリシャを支配しようとした。しかし、憲法を望むのはギリシャ人だけではなくイギリス政府も同じであり、イギリスは公使を通じてギリシャへ抗議した。そのため、ルートハルトも1年と持たずに辞職、1847年12月、その後任に初のギリシャ人首相としてコンスタンディノス・ゾグラフォスが就任した。 イギリスのパーマーストン外相は混迷するギリシャに対して立憲議会の開催を求めたが、オソン1世はこれを拒否、バイエルン人による統治を続けていた。さらにギリシャ王国のギリシャ人らはオスマン帝国支配下のギリシャ人よりも過酷な生活を強いられており、1830年代初期にはオスマン帝国から移住するよりもギリシャからオスマン帝国へ移住する人が多い状態であった。 その中、カポディストリアスの元部下やコロコトロニスの後を継いだアンドレアス・メタクサスに率いられたロシア派らは手を結んでオソン1世をギリシャ正教へ改宗させることを目論んだ。これにはバイエルン人の追放を望む立憲主義者らも協力したため、反カトリック運動は急進化することとなった。
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