転戦
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安芸国賀茂郡中河内を本拠とした国人である大多和氏に生まれ、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕える。天文21年(1552年)12月28日、元就から「就」の偏諱を与えられ「就重」と名乗った。また、弘治元年(1555年)12月15日に「宗兵衛尉」の官途名を与えられた。 天文23年(1554年)6月5日、折敷畑の戦いにおいて陶晴賢軍の敵兵を討ち取り感状を与えられた。天文24年(1555年)3月10日に元就から安芸国安芸郡において温科の田5段と府中の田2町5段大、佐東郡北庄において畠3貫800文を与えられ、同年3月28日には、元就からいつでも命令があれば直ちに警固衆が出陣できるように準備するよう命じられている。 永禄4年(1561年)10月26日の豊前国門司における大友氏との合戦(門司城の戦い)においては一番槍の武功を挙げ、永禄6年(1562年)11月15日に伯耆国弓ヶ浜で尼子軍に夜討ちを受けた際には、就重が先駆けの敵を数人討ち取った。これらの武功に対して、それぞれ元就や隆元から感状が与えられている。 このように防芸引分以降、就重が多くの手柄を立てていることを児玉就方が取り上げ、就重自身もまた度々愁訴していたため、永禄7年(1564年)7月11日に安芸国佐東郡深川郷の内の10貫の地と周防国都濃郡矢地・富田の内の5貫の地を元就から与えられた。 永禄11年(1568年)11月5日、豊前国門司に籠城するべき者たちが共に籠城しなかった場合、即時に召し放って給地を没収するようにとの元就・輝元からの命を粟屋元久と共に受ける。 永禄13年(1570年)8月7日、屋敷分として安芸国沼田郡楠木において桑原分の畠7段1貫500目の地を元就から与えられた。 元亀2年(1571年)2月、児玉就方と共に備前国児島郡の本太城へ出陣し、村上武吉と戦った。
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転戦
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靖兵隊は和田倉門内会津屋敷跡に布陣していた米田圭次郎隊(歩兵300名)と合流してフランス式訓練を行っていたが、江戸城明け渡しが決定したことを知って同年5月2日(4月10日)に江戸を脱出する。 その行軍中、途中の山崎宿で原田左之助が離隊。岩井宿・室宿を経て新政府軍を突破し、5月11日(5月19日)、鹿沼宿に至ったところで大鳥圭介・秋月悌次郎ら旧幕府軍と合流。5月12日(5月20日)の宇都宮の戦いに参戦して勝利し、5月14日(5月22日)の壬生の戦いに敗れて今市宿に退却。米田圭次郎ら多数負傷者を出し、その後数日間休息する。 結城某総督の命により、永倉・矢田ら60名余りが今市へ出陣。矢田は顔面に被弾して戦死。戦死者20名・負傷者30名程を出して高徳宿へ退却。高徳で土佐藩兵との戦闘に勝利する。 6月11日(閏4月21日)、芳賀宜道・永倉新八の2人が輪王寺宮より日光の奪還を命じられて会津藩へ援軍要請に向かったため、林信太郎・前野五郎が後任となる。 のち、一部を除き、近藤隼雄率いる新遊撃隊に編入され、10月に水戸藩諸生党とともに水戸城攻略(弘道館戦争)に参戦するが、1日で敗退し、敗走先の銚子で高崎藩に降伏した。
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転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/26 16:48 UTC 版)
シンはその後も狙撃を続け、1915年10月23日にはウィリアム・バードウッド将軍から個人感状を贈られたが、この際一つの逸話が残されている。この表彰の際のシンの狙撃数は公式記録では150名とされているが、実際にシンを表彰したバードウッド将軍が認めた“スコア”は201名となっていたのである。あまりにも多くの敵兵を射殺したシンのスコアに疑心暗鬼だった軍首脳部は、シンの戦果確認を“部隊付軍曹か士官以上の者が確認した場合に限る”としたのである。しかしこれはあまりにも現実離れした方法であり、現実的には多くの場合で近くで戦っていた一般兵士たちの戦果確認しか取れなかったため、この時期のシンのスコアは大幅に割り引かれて記録されることとなっていた。シンの同僚たちからもこの処置にはかなりの非難が送られたため、首脳部はやむを得ず戦果確認の限定を排除した上での折衷案として、「公式記録150名、ただし201名射殺として表彰」という奇妙な処置を採ったのだと言われている。無論この201名という数値も相当割り引かれた数値であることはほぼ間違いなく、実際の戦果としてはおよそ250名前後のトルコ兵を射殺しているのではないかと考えられる。 12月、連合軍司令部はガリポリ半島からの撤退を開始したため、シンたちANZAC軍も約1万1千人の死者と2万5千人の負傷者という損害を残し、エジプトで部隊の再編成と再訓練を行うべくダーダネルス海峡を後にした。明けて1916年1月、シンはエジプトでガリポリ戦線の戦功を称えられ、連合軍指揮官であったイアン・ハミルトン卿から柏葉敢闘章(Mentioned in Despatches)を贈られている。さらに同年3月10日にはヴィクトリア十字勲章に次ぐ英国第2位の勲章であるイギリス陸軍功労賞 (Distinguished Conduct Medal) を受賞した。 エジプトでの訓練の後、6月にイギリス本土に向けて出発したシン等第5軽騎兵連隊は、8月にオーストラリア軍第31歩兵大隊に編入され、西部戦線の主戦場たるフランスとベルギーでドイツ軍を相手に戦闘を繰り広げることとなった。しかしガリポリでの負傷が再発していたシンは、フランスに到着後約19ヶ月もの間戦線離脱を余儀なくされる。この療養期、シンは旅行先のスコットランドで、海軍のコックの娘でウェートレスを務めていたエリザベス・ステュアートという21歳の女性と出会う。翌1917年6月、2人はエディンバラで結婚式を挙げた。 人生の伴侶を得た幸せに浸る間もなく、シンは戦線に復帰することとなった。既に戦闘は小火器による歩兵突撃よりも重砲の撃合いがその主役となりつつあったが、シンはその流れの中でも小隊長として部隊を率いて多くの戦闘に参加し、主に対抗狙撃戦でその技量を発揮して活躍したという。特に1917年9月、第3次イープル会戦(パッシェンデールの戦い)中のポリゴンの森争奪戦(英語版)において、深い森の中での待ち伏せで豪州軍に多大な被害を与えていた独軍スナイパーを排除すべく、対抗狙撃戦の指揮を執った際の活躍は特筆すべきもので、これによりシンは翌年初頭にベルギー戦功十字章 (Belgian Croix de guerre) を受勲している。 その後もいくつかの戦闘で活躍したシンは、1918年7月、本国へ戻る輸送船の護衛潜水艦の乗組員として欧州を離れ、故郷オーストラリアへと帰還することとなった。クレアモントを旅立ってから約4年間のシンの軍歴はここに終わりを迎えた。
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転戦
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南下を開始した紅一方面軍は、明確な目的地を示すことができなかった。ただただ逃げ惑う軍団は、それでも10月21日には国民党軍の第一次防衛線を突破、11月15日には第2・第3の防衛線を突破した。しかし、12月に湘江を渡河した紅一方面軍は3万あまりの兵力に激減していた。 ここに至り、共産党中央は湖南省西部に転進し、紅二方面軍(総指揮官賀龍)との合流を企図した。しかし、この目論見は蔣介石も見通しており、兵力を湖南省に集中させた。蔣介石は経済基盤の強い大都市の失陥を恐れ、重点的に都市を防衛したのである。 国民党軍の動きにより再び進路を失った紅軍部隊は貴州省方面へ転進した。1935年1月、長征途上唯一といっても良い都市・遵義に入城する。
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