趣好
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「遊び人」として知られていた。当時政治と花柳界は密接な関係であったこと、そしておおらかな時代であったためこれらのことは政治家として問題にはならなかった。趣好する分野それぞれに贔屓がおり、清元節の三世清元梅吉(清元寿兵衛)、歌舞伎の中村吉右衛門、囲碁の瀬越憲作、相撲の安藝ノ海を特にかわいがった。 音曲 代議士として東京に出た頃である1890年(明治33年)清元お葉に弟子入りし、お葉が亡くなった後はその義理の息子になる二世清元梅吉の下で学んだ。これは父・東之助が短気な望月を見て歌でも習ったら優しい気になるだろうと勧めた、と言われている。得意とした曲目は「お俊伝兵衛」「梅の春」「雁金」。若い頃政治に嫌になったときには本気で清元の師匠になろうと考えたこともあったという。なお二世清元梅吉は息子に跡を継がせる気はなかったが望月の助言で思い直し息子を弟子入りさせた。この息子が三世清元梅吉、つまり清元寿兵衛になる。 小唄も好きで特に「五万石」が得意だった。堀派に支援している。寿兵衛門下の小唄勝太郎が五万石のレコードを出すにあたり、望月のところへ習いに来た話がある。 明治中頃、若手政治家の中に粋人とか通人と呼ばれた三人衆がいた。和歌や今様の岡崎邦輔、骨董や茶道の高橋箒庵、そして清元の望月であった。また早速整爾の義太夫節とともに衆議院の浄瑠璃双璧と持て囃された。 好角家 相撲好きで、更に自分で相撲をとるのが大好きだった。他のスポーツには全く興味なく、相撲のみを好んだ。好きな理由は「彼らが土俵の上に立つと私利私欲がなく、ただ自分の力を頼む一事にある」ためと答えている。 串本康三から常陸山を紹介してもらってから贔屓となり、そこから出羽海部屋を贔屓にし、そこから出てきた安藝ノ海を溺愛したのである。安藝ノ海が幕内に上がると広島県人会の音頭で後援会が作られ、その会長に望月が就任した。 普段は相撲見物を満喫していたが、贔屓の力士の取組となると居てもたってもいられなくなった。安藝ノ海が双葉山に唯一勝った取組の日、望月は見に行っていたがいざその取組になると「見ちゃいられぬ」と帰ってしまい、世紀の一番を見逃してしまった。 昭和11年5月場所の後、慰労会が開かれた。負け越した力士を労い次場所に奮起してもらおうという趣旨だった。ただ大きく負け越していたため親方衆から自重しろと言われ水以外口に入れなかった。望月が「それじゃあご馳走しても何にもならない」といい、世話していた胎中楠右衛門が説得すると力士たちはそれじゃあと食べだした。料理は天ぷらだったがその時の勘定は何百円にもなった。 囲碁 囲碁好きは父・東之助ゆずり。兄弟全員好きで、弟・乙也、望月、兄・俊吉、父・東之助の順で強かったという。瀬越憲作によると、望月の棋風は正道であったという。弟・乙也によると、望月は上品な碁を好み下品な碁を嫌っていた 瀬越を東京に連れてきたのは望月である。そして瀬越のみならず、その一門である呉清源・橋本宇太郎・鈴木圭三らも支援した。 その他 酔ってくると髭をなで上げる癖があったことから、芸者から「髭さん」と呼ばれていた。 議員になってから殆どを東京で暮らしており、大崎上島に住む家族とは別居状態が続き、妻・チサトは望月が“相当遊んでいた”ことを知っていたが理解を示していた。 東京では千代という別の女性と同棲していた。元々は新橋の芸妓で清元や踊りが得意だったという。望月は大正初めまでは経済的に苦しい状況が続いたが、彼女がそれを支えたのである。1913年(大正2年)妻・チサトが死去し、娘達を東京に引き取ると、彼女が事実上の後妻となり、呼び寄せた娘達とも仲良く暮らしたという。なおチサトや娘達を気遣って彼女とは籍を入れておらず、病気がちだったことから子どももおらず、1921年(大正10年)亡くなっている。 衆議院シベリア出兵慰問団に同行した鈴木文史朗によると、望月は移動の最中1ヶ月間にわたり話術を披露していた。中でも女性との失敗談が秀逸であったという。 2次逓信大臣の同盟通信社認可の話。1935年11月7日、和服を着込んだ望月は同盟通信田中都吉委員長以下幹部を逓信省に呼び寄せ、彼らとの問答の後、懐中から社団法人設立認可指令書をだして手渡した、という芝居がかったことをしている。
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