起源と日本での栽培史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/08 07:50 UTC 版)
「国光 (リンゴ)」の記事における「起源と日本での栽培史」の解説
国光はアメリカ合衆国バージニア州の原産で、起源については次のような話が伝えられている。第3代アメリカ合衆国大統領(1801年-1809年)を務めたトーマス・ジェファーソンは、フランス大使のエドモン=シャルル・ジュネ(en:Edmond-Charles Genêt、在任1793年 - 1794年)からリンゴの枝を入手した。ジェファーソンはその枝をバージニア州アマースト郡のカレブ・ロールズ果樹園に託して、栽培と普及を図った。18世紀の後半までにこのリンゴはRalls Genetの名称で多く栽培されるようになり、やがて名称も英語化されてRalls JanetやRawls Jennetなどとも呼ばれるようになった。 Ralls Janetが日本に導入されたのは、1868年(慶応4年・明治元年)あるいは1871年(明治4年)の2説がある。このとき、アメリカ合衆国から導入されたリンゴは75品種を数え、ロールス・ジャネット(国光)の他にはジョナサン(紅玉)、スミスズ・サイダー(柳玉)、ベン・ディヴィス(倭錦)など、後の有力品種が含まれていた。 導入当初のロールス・ジャネットという名称では普及せず、栽培地域によって「49号」(北海道)、「晩成子」(岩手)、「雪の下」(青森)、「キ印」(山形)などまちまちな地方名称で呼ばれて混乱していた。1894年(明治27年)5月に仙台で「第1回りんご名称選定協議会」が開催されたが、その結果を不満として津軽地方の代表は会から脱退した。津軽地方では同年6月に独自に「津軽地方苹果名称一定会」を開催し、名称の統一は先延ばしされた。名称の統一が実現したのは1900年(明治33年)で、このときに「国光」という名称に統一された。この名は、前年に行われた皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子(後の貞明皇后)成婚の慶事にあやかったものだった。 この品種は原産地のアメリカ合衆国では主要品種になったことがなく、ヨーロッパでも知名度は低いという。国光は日本の気候風土に適した品種で、とりわけ青森県津軽地方は一大産地として高名であった。長期の保存に耐え、食味もよい国光は明治時代における青森県のりんご7大品種の筆頭格であった。下に示す表は1911年(明治44年)の青森県産りんご品種別統計で、国光は樹種構成比の半分弱を占めていた。 青森県産りんご品種別統計原種名Ralls JanetJonathanSmiths CiderAmerican Summer PearmainBen DavisRed AstrachanFameuse日本名国光紅玉柳玉祝倭錦紅魁紅絞その他樹種構成比47.6 30.3 7.6 5.9 3.6 1.5 3.2 (単位:%)。 その後も栽培面積は増えて、1940年(昭和15年)の統計では、青森県のリンゴ栽培面積の47.28パーセントがこの品種の畑であった。第二次世界大戦前から戦後の1950年代にかけて、国光と紅玉は2大人気品種であった。最盛期には青森県のリンゴ全生産量中、国光の占める割合が6割にも達していた。 1963年 (昭和38年) のバナナの輸入自由化が始まり、日本国内産のリンゴは紅玉を中心に価格が下落した。1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にはミカンやバナナなどに押されて国光、紅玉の価格が暴落を続け、収穫したリンゴは輸送の箱代さえ出ないありさまだったため、やむなく野原や河川に投棄するリンゴ生産者さえいた。この暴落によって、リンゴ生産者たちはデリシャス系を経てふじへの品種更新を急ぎ、国光と紅玉は主要品種の座から降りた。 紅玉は調理用や加工用としてその価値と個性が見直されて栽培が続けられているが、国光はふじの人気に押されて市場から姿を消した。一大産地であった青森県でも、道の駅での販売やインターネット通信販売など、入手方法は限定されている。
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