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譜代大名家時代とは? わかりやすく解説

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譜代大名家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 15:03 UTC 版)

明石藩」の記事における「譜代大名家時代」の解説

江戸時代初頭播磨一国支配する姫路藩池田家所領であった元和3年1617年)、池田光政鳥取藩転封となると播磨所領は、松平信康の娘・峯高院嫁いだ小笠原秀政明石藩10万石と、同じく妙高院嫁いだ本多忠政姫路藩15万石およびその部屋住10万石、忠政の次男本多政朝龍野藩5万石、徳川家康の娘・良正院遺領分配した赤穂藩3.5万石平福藩2.5万石山崎藩3.8万石とその池田家一族鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割された。そのうち一つ明石藩である。 立藩池田家転封となった元和3年である。信濃国松本藩より小笠原忠真10万石で入封したことに始まる。忠真はそれまでこの地方拠点であった三木城船上城(ふなげじょう)を廃し明石城建設した。この城の持つ性格は、海上交通監視西国大名への押さえ拠点城郭一つとなったことである。寛永9年1632年)、忠真は豊前国小倉藩転封となった寛永10年1633年)、松平戸田)庸直が7万石で入封した。翌年18歳死去したため、兄・忠光の子・光重が継いだが、寛永16年1639年)に美濃国加納藩転封となった同地より交代大久保忠職が7万石で入封したが、慶安4年1649年)に肥前国唐津藩転封となった同年丹波国篠山藩より松平藤井)忠国が7万石で入封する。嗣子・信之の時代に弟・信重に5千石分知したため、65千石となった延宝7年1679年)、信之は大和国郡山藩転封となった。なお、信之は名君誉れ高く新田開発進めた郡山転封後は老中となっている。同地より交代で、本多政利が6万石で入封する。過酷な政策強いた罪により、天和2年1682年)に陸奥国岩瀬藩1万石に減封の上転封となった

※この「譜代大名家時代」の解説は、「明石藩」の解説の一部です。
「譜代大名家時代」を含む「明石藩」の記事については、「明石藩」の概要を参照ください。

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