語り手「わたし」についての議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:51 UTC 版)
「春の庭」の記事における「語り手「わたし」についての議論」の解説
終盤に太郎の姉が「わたし」という語り手として出てくることに関して、大森望や豊崎由美は、最初から姉の視点で語られたと考え、小谷野敦や栗原裕一郎は『週刊読書人』の対談「文学はこのまま滅びゆく運命にあるのか」で、大森らの見方に違和感を唱え、小谷野は三人称・全知視点で始まり最後に姉が語り手として割り込んできたと解釈した。この対談で、栗原が「わたし」の唐突な登場に拘っているのに対し、小谷野はバルガス=リョサらの既存作品の語り手についての例を列挙して、「読者を驚かせるための効果であり、さほど前衛的ではない」と軽視した。福永信も栗原同様、語り手「わたし」に拘った。
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