評価・研究
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長年に渡り幅広いジャンルの演劇を記録した『演藝画報』は、古い演目を復活上演させる際の典拠として活用されるなど、研究資料としての評価が高く歌舞伎関係者からは「虎の巻」と呼ばれることもある。また、演劇に限らず、明治・大正・昭和にかけての日本の近代化の記録として読む研究者たちもいる。このため、復刻版が不二出版及び三一書房によって刊行されたほか、国立劇場芸能調査室によって3巻立ての『演藝画報総索引』が編集された。特に「芝居見たまま」は戦前から単行本が2、3出版されていたが、近年にも国立劇場によって明治期連載分が資料集成としてまとめられた。 矢内賢二は近代歌舞伎における『演藝画報』等の演劇雑誌の役割の大きさを踏まえ、そうした雑誌の記事の研究に「重要な意味」があるにもかかわらず、「雑誌それ自体を対象とした研究は十分に行われているとはいえず、その中心的な記事であった「芝居見たまま」を対象とする体系的な分析もなされていないのが現状である」と述べている。 掲載された写真という観点からは、村島彩加が『演藝画報』を「我が国初の演劇専門グラフ雑誌」と位置付けた上で、「演劇写真が、限られた範囲で流通するメディアから、より広範な、不特定多数が享受するメディアへと変化していった」転換期の一翼を担ったとし、安部豊撮影の『演藝画報』の写真が持っていた独自性について論じている。
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『歌舞伎』は「型の記録」に代表されるような記事によって「古典劇演出の伝統保持に大きな功績を残した」と讃えられる一方で、鷗外らによる海外戯曲の紹介についても「この雑誌が初期の近代劇運動に与えた影響は看過できない」と評されることもあり、金子幸代などは「日本の伝統演劇である歌舞伎と近代劇の紹介という両輪に目配りした日本最初の総合演劇雑誌」と形容している。 特に劇評に関して藤田洋は江戸以来の「評判記」の形式の劇評を刷新し、「文芸批評的な地位にまで高められた演劇批評」を目指した「それまでにみられなかった、新しい感覚の演劇雑誌」と評価している。また、石川淳は『歌舞伎』が三木竹二1人の働きで維持されたことを特記し、「歌舞伎という雑誌、その経営、その編集の全部は、これを三木竹二の仕事として歴史的に評価するに堪えたものである」と述べ、「新旧融合、おのおのその処をえて、渾然としてわが近代劇の源流をひらいたのは、この粹な雑誌の溌剌たる面目であった」と称賛した。 同時代への影響の大きさに加え、「歌舞伎のみならずわが国演劇界の状勢、ひいては広告欄も含めて世相の推移を知るのに好個な資料」としても認識されていため、2010年から2013年にかけて雄松堂書店から全50冊の復刻版が出版され、研究体制が整備されつつある。
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題材やモチーフが、横光利一の『眼に見えた虱』(文藝春秋、1928年1月号掲載)と共通する部分が多いことはしばしば指摘されている。神谷忠孝は、そうした閉塞感や希望喪失的な大江文学の初期モチーフや、『万延元年のフットボール』以後の作品や『同時代ゲーム』に見られる村の再生という主題変遷も、横光文学の軌跡と対応する点があると考察している。 デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも安岡章太郎や川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している。
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『歌舞伎新報』以前にも演劇雑誌は発刊されていたが、多くが数年のうちに廃刊となったなか18年間、通巻にして1669号も刊行が継続された点が高く評価されていることに加え、『歌舞伎新報』の人気によって大阪でも『大阪歌舞伎新報』などの類似雑誌が誕生したことや今日では当然となった演劇雑誌における写真版利用を確立させたこと等、後続の雑誌へ与えた影響も大きいため「演劇雑誌の祖」などと称される。 脚本の公開や筋書の掲載という機能を持っていた結果、『歌舞伎新報』によってしか内容を知ることができない作品などもある。河竹繁俊が「要するに、本誌それ自身が、立体的な明治演劇側面史と云ってもよく」と述べる通り、その他の内容全般についても「明治演劇研究に欠かせぬ基礎資料」として利活用されている。
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日本で政治小説は永く非文壇文学、大衆小説の一系列として軽視されて来た。明治20年代に矢野龍渓と内田魯庵の論争があり、矢野は文学は国民を楽しませる国民文学的なものでなければならないと主張し、これが文壇文学と大衆文学の分化の原型となった。柳田泉『政治小説研究』(1935-39年)以来徐々に評価の対象とされるようになり、柳田は『座談会 明治文学史』(1961年)では、国民が日本の将来に対する夢を託すべき国民文学であるべきだったと述べ、中村光夫も「「新日本」の建設に携わった当時の青年たちの心を後世に比を見ぬほど広く深く捕えた」「ひとつの特異なロマン派文学として再評価すべき」として、徳富蘆花「思出の記」の「時代は潮の漲る如く変わって来た。」「僕らは今『西洋血風小嵐』『自由之凱歌』などという小説に余念もなく喰ひ入る時となった。」といった心情を挙げている。 飛鳥井雅道は「近代文学のはじまりを、はっきり自由民権の文学におきたいと思う」とし、文学を遊びや性の限られたジャンルから解放し、政治や民族を含む人間のあらゆる可能性に関与したと評価した。(『日本の近代文学』1961年)
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『小説家の休暇』は、三島の数多い評論の中でも定評のある作品だが、同時代評でも総じて評価は高く、中村真一郎は雑誌『群像』の書評欄で大きな讃辞を送っている。 小林信彦は、三島の評論を読んでいた当時を振り返りつつ、「三島由紀夫を小説の天才とすれば、批評・評論は超天才ですね。 『現代小説は古典たり得るか』でも『小説家の休暇』でもいいのですが、眠気が去り、頭がすっきりするほど面白い」と評している。 自身の文壇デビュー作『太陽の季節』が『小説家の休暇』の中で取り上げられた石原慎太郎も、「あの人が『小説家の休暇』というソフィスティケイテッドなエッセイ集を出したときに、中にチラチラッと一、二行出てくるんですよ。それを見てぼくは文學界新人賞をもらったときよりもジーンときた。ついにこの人の目にとまったという感じがあってね」と述懐し、三島の評論を愛読していたことを語っている。 上田真は、三島がタイトルに〈休暇〉と銘打ち、平易な文体で日々の断想を気楽に綴っているが、内容的には三島が「生涯をかけて追いつづけた重要な諸問題」が列挙され、その意味では「充実した〈休暇〉」だと評しながら、その底流には、後年の『太陽と鉄』などに結晶してゆく三島独自の芸術観や人生観が一貫して流れていると解説している。 鹿島茂は、『小説家の休暇』の中で語られているバルザックやプルーストなどの近代フランス作家の小説方法論についての考察とその作品の読み返しは、この時期に連載していた『幸福号出帆』の作品構成で模索され、その後の『鏡子の家』の方法論へと結びついていくと解説している。 青海健は、三島にとって宿命的であり続けた問題が「人生対作品」であったとし(「人生と作品」という並列でなく)、三島が『小説家の休暇』の中で、〈純然たる芸術的問題も、純然たる人生的問題も、共に小説固有の問題ではないと、このごろの私には思はれる。小説固有の問題とは、芸術対人生、芸術家対生、の問題である〉と述べていることに着目している。 そして三島がさらにその問題を、同時期に発表した評論『芸術にエロスは必要か』の中で、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の「トニオ(芸術家)」対「ハンスやインゲ(美しい無智者。欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという分裂した存在)」の二項の主題を借りて、芸術家の〈分裂の意識(統一的意識を持つことが二律背反であること)〉を解読しながら、〈統一的意識の獲得〉を夢み、〈統一的意識そのもの〉に成り変って、〈自己撞着の芸術観〉つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考の萌芽を 三島が見せていたことを青海は指摘し、晩年の行動に至るまで、その命題を追究していく三島文学の過程を論考している(詳細は三島由紀夫#二元論を参照)。 田中美代子は、「小説のためのエスキースであり、基礎工事でもあるような評論」に、三島が〈小説家の休暇〉と名付けているのは三島一流の「ダンディズムの発露」であり、この評論の中には「三島文学の全体を形成する基本的な諸要素のすべてが出そろっている」と解説している。 彼の生涯を見渡して、これが昭和三十年、創作力のもっとも充実した黄金期ともいうべき三十歳当時に書かれているのは、注目に価いする。最期に向かっての彼の成熟は、いわばここに播かれたあまたの観念の種子がやがて殻を破り、次第に生育し、肥り、繁茂してゆく過程にことならなかったのだ。「大体において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによつて、全部成就してしまつた。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」 こんな何気ない告白は、読者をはっとさせるに足る。 — 田中美代子「解説」(文庫版『小説家の休暇』)
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『私の遍歴時代』は、三島の自伝エッセイとして貴重な資料であるが、発表当時も「どんな作家論よりも、正確に、三島由紀夫の形成の秘密を語っている」という新聞の書評がなされ、小説ではないが、他の作家や評論家から多くの関心が寄せられている。 高橋和巳は、『私の遍歴時代』で語られている小田切秀雄から日本共産党への入党を勧誘された話(人生で最も嬉しかった誘い話と三島は本文中で回顧している)や、太宰治や保田与重郎との対面の話に、「常になにほどかの相互誤解でしかありえない人間関係の一瞬のすれちがいが啓示する人生の意味」や、「構成的な意義付けの世界からこぼれ落ちておりながら、こぼれ落ちたエピソードのみがもつことのできる、微苦笑の真理」を読み取り、特に太宰治との対話は、「後の世にも昭和文学史の大きなページを占めるだろう」と解説している。 埴谷雄高は、三島が、埴谷の世代や中村真一郎の世代と違っているのは、「戦中、戦後の二つの混沌たる時代に跨った三島由紀夫が、死に向かっても美に向かっても、不逞なパラドックスと正論を巧妙に組み合わせた異常なほど強靭なエネルギイに充ちた不思議さを同時に備えている点」にあると述べている。清水信は、「感受性の重さで背を曲げた一個の肉体を感じる」とし、「その感受性をいためつける残酷史」として、三島のエッセイを「私たちはまた愛する」と評している。 大江健三郎は『私の遍歴時代』について以下のように評している。 この稀有な才能の自伝は、性犯罪者の告白さながら、そのような自分を発見し、そのような自分を信頼するに到る、時に痛ましく、時にヒロイックな感動にみちている。三島由紀夫をめぐる数しれない神話の森から、作家自身の伐りだした、明敏で犀利で豪胆で愉快で、後進への実用的教訓にもことかかない、この自伝が、たとえもう一つの新しい神話にほかならぬにしても、それが最も魅力的な三島由紀夫神話であることは確実であろう。 — 大江健三郎「最も魅力的な三島由紀夫神話」 田中美代子は『私の遍歴時代』で語られている戦後の前半期について、その時代の青年たちは、「ツギの当ったシャツや穴のあいたセーターで、日本の未来を托され、渾身の力で」働き、作家は「人々を唱導し、啓発」する「時代精神の中枢」的な存在、「魂の専門家」であったとし、そんな時代に正に生きていた作家・三島由紀夫の「文学の社会的使命」は「神聖」であり、その心構えは並大抵のものでなかった述べつつ、〈私の遍歴時代〉というタイトルにも「文学を修業とすること」と「人間的成長や人格の完成を目指すこと」が結びついている時代背景がうかがえるとして、以下のように解説している。 あえて功業を捨て、男子一生の業として文学を志すことは、真剣勝負であり、作家はそういう意味で新しい生を切り拓くパイオニアでなければならない。それは作家ひとりの誇大妄想ではなく、社会の暗黙の期待でもあったのでした。先輩作家の道場に決闘のつもりで乗り込み、その意気込みをすかされると、激しく軽蔑したり、一冊の書物を遺書として書いたり、一代の傑作のために身を投げうったりする文学至上の精神は、殆ど信仰のように、人々の間に息づき、共有されていたのです。 — 田中美代子「まだ文学が神聖だった頃」
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評価・研究
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『芸術断想』は様々な三島由紀夫の芸術批評が展開されているが、そこには「心理的な間というもののない能に対して、悪しき心理主義、浅薄な心理主義の浸潤をゆるしてしまった歌舞伎への怨嗟」が基調になっていると今村忠純は解説している。 また今村は、三島がオペラ台本を書く上での台詞(劇)と音楽のバランスを説いて、〈論理的必然性は劇文学を成立させる最低の条件であるが、よい戯曲はこれに加へるに、この必然性を乗り超えた「自由と運命との高度の結びつき」を高鳴らせ〉ることにあると、ドラマの意味を考察しているところに触れて、こういった三島の視点が、「舞踊的要素と劇的要素との矛盾対立の瞬間に表れる能の楽劇としての感興」を洞察する三島の考察とも照応していると説明している。 三島を、「芸術と命のやりとりをしていた時代の、最後の巨人」だったと評する田中美代子は、「さりげない交友録や多彩な芸術論に托して、(三島が)つねに血肉の言葉を語っている」と考察し、6章「三流の知性」でワーグナーについて言及している箇所も、「これほど痛切に、複雑な彼自身を解析し、告白したことはなかった」として、「彼(三島)にとって芸術とは、ついに身を滅ぼさずにはやまぬあらたかな媚薬なのであり、つまるところ彼自身が媚薬でした」と解説している。そして8章「英雄の病理学」で、『野宮』の捨てられた女の悲哀を舞う六条御息所について三島が語っている一節を引きながら、以下のように解説している。 曖昧で不定型な心理主義に堕した近代劇をしりぞけ、能楽の簡潔な構成に芸術の理想を見出していた彼は、芸術、というよりもむしろその源泉としての、遠い神的な世界をつねに翹望していたように思われます。(中略)「彼女が心ならずも、舞踊の残酷な圧制に強ひられて踊り出すやうに見えるとき、その舞はもはや彼女に属さず、もつと高いところ、あるひはもつと深い地獄の底から、彼女に課せられた呵責のやうに見えるのである。〈自分のものでない舞〉といふ、この踊り手の主体に属さない舞踊こそ、能の〈舞〉の本質ではないか」(「英雄の病理学」) というとき、彼の目は、人間的な限界を越え、個人の肉体を通り抜けて、知られざる光源を透視するかのように、思われるのです。 — 田中美代子「観客の恍惚と不安」
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1961年に第11回芸術選奨を受賞するなど多くの讃辞を受けた。 手塚富雄は、「(事件そのものを)全的に受けとめた作者の精神量の大きさ」に立脚する「非私小説」だと論じた。 三島由紀夫は、世俗の実際的解決(妻の発作が酷くなる前に入院させ、いたいけな子供たちを守ること)に背かせるにいたった根本理由がわからないとし、そうした主人公である島尾敏雄という小説家の在り方や「魔的な力」を受け取る「制作の衝動」と、精細に物事を見つめ記述する冷静な目線に注目しつつ、「(主人公は)ファウストのあくなき探究心と、メフィストフェレスの冷酷な客観性とを、一身に具備しようとした存在ではないのか?」とし、「われわれはこれらの世にも怖ろしい作品群から、人間性を救ひ出したらよいのか、それとも芸術を救ひ出したらよいのか? 私小説とはこのやうな絶望的な問ひかけを誘ひ出す厄介な存在であることを、これほど明らかに証明した作品はあるまい」と論じた。
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評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 05:59 UTC 版)
この作品により横光は文壇に躍り出て知名度を高めた。『新潮』1923年6月号の合評会では、久保田万太郎が「近来の力作でしょうね」、「弛むところがなかつた。力がなくては出来ない」と面白さを認めつつも、「力をいれすぎたかたちがある。作者が苦しんだ割にはえない。もつと、わたしは、ゆとりがほしい」、「裸にすれば、いろいろの動きが、書生芝居ですよ」と評した。 合評会に同席していた久米正雄は「吾々よりは一時代新らしいが、実質は大して新らしいんじゃないんじゃないかね」と内容については辛口批評しながらも、描写には値打ちがあるとした。菊池寛は「神代の男女の性の闘争」を描こうとした作品として評価し、「小説としての価値はともかく、映画劇としての面白さは日本では、一寸類例のないものだと思ふ」と述べた。その後衣笠貞之助監督によって映画化もされた(1925年、連合映画芸術家協会。フィルムは現存しない)。 なお、『日輪』は、フローベールの『サランボオ』(生田長江翻訳)からの影響がしばしば指摘されている。
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評価・研究
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『文化防衛論』は、橋川文三の「文化概念としての天皇は、政治概念としての天皇にすりかわり、これが忽ち文化の全体性の反措定になることは、すでに実験ずみではないか」という疑問に対して、三島がそれに反論した以下の文に三島の基本的立場が明確になっているとされ、日本の「権力」という問題が浮上していた1960年代の「ラディカリズムの季節」の戦後的なものが、三島の文化天皇論を発現させ、「行動の死の原理を内包する思想」の実現へ進展させた背景だと鈴木貞美は解説している。 私が、天皇なる伝統のエッセンスを衍用しつつ、文化の空間的連続性をその全体性の一要件としてかかげて、その内容を「言論の自由」だと規定したたくらみに御留意ねがひたい。なぜなら、私はここで故意にアナクロニズムを犯してゐるからです。過去二千年に一度も実現されなかつたほどの、民主主義日本の「言論の自由」といふ、このもつとも先端的な現象から、これに耐へて存立してゐる天皇といふものを逆証明し、そればかりでなく、現下の言論の自由が惹起してゐる無秩序を、むしろ天皇の本質として逆措定しようとしてゐるのです。(中略)私は、文化概念としての天皇、日本文化の一般意志なるものは、これを先験的に内包してゐたと考へる者であり、しかもその兆候を、美的テロリズムの系譜の中に発見しようといふのです。すなはち、言論の自由の至りつく文化的無秩序と、美的テロリズムの内包するアナーキズムとの接点を、天皇において見出さうといふのです。 — 三島由紀夫「橋川文三への公開状」 野口武彦は、三島が『文化防衛論』の中で、現代の文化の衰弱の要因に、〈刀〉の要素が排除されていると指摘していることを鑑みて、この三島の主張が、実際の「〈刀〉の復権要求の色彩を帯び」て、自衛隊の体験入隊や「楯の会」結成へと繋がっていったと解説している。 福田和也は、『文化防衛論』と同時期に発表され、同時収録されている『反革命宣言』で三島が以下のように述べている一節を挙げながら、一回性の〈戦ひ〉に賭ける三島にとり、「戦後日本との決別」は、「純粋な、至上の一回性の回復」に他ならず、「決定的な一回性を賞揚することは、そのまま実践へと結びつかざるをえない」とし、「有効か否か」といった「実践との隔壁」を持たない、その純粋行動の「決意」が「他者との区別」も消すのは、「一人一人の事情や境遇などは無意味であり、唯一の違いは、やるか、やらないか、立つか、立たないかだけ」であるからだと解説し、「〈立つか否か〉という二者択一を読者につきつけることで、三島は不敵かつ不吉な扇動者となった。ならざるをえなかった」と考察している。 戦ひはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦ひでなくてはならぬ。生死を賭けた戦ひのあとに、判定を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である。(中略)千万人といへども我往かんの気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、挑発、をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。 — 三島由紀夫「反革命宣言」 『中央公論』において発表した当時、『読売新聞』(担当林房雄)と『東京新聞』(担当林健太郎)の時評では好意的に取り上げらたが、『朝日新聞』(担当長洲一二)と『毎日新聞』(担当社内記者)の時評では黙殺された。 読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。朝日は長洲一二さんがやっていますが一行もとりあげないし、毎日は社内記者がやっていますが、やはり一行もふれない。そうすると、一つの現象があって、この目鼻立ちがいいか悪いかわかりませんが、そこに人間がいることは確かなんですね。それを黙殺するということは、たぶんに意識的だ。意識的な態度にちがいないと思うのは、あるいは私のウヌボレかも知れません。その辺が、こっちがウヌボレで、つまり偏向だという場合と、それから実際に偏向である場合の区別がつけにくいんですね。これは実にむずかしい。私がそんなことをいうと、「あの野郎はつまらんものを書きやがって、ウヌボレやがって、とり上げられないのは当たり前だ」ということになる。じゃ第三者から見た場合はどうかというと、その第三者の中に右も左もいる。いいという奴と、黙殺するのが当然という奴がいるかもしれない。第三者だって公平とはいえない。言論の偏向ということは実にむずかしい。 — 『尚武のこころ』、天に代わりて、p4-p5
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評価研究
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「ラムジー・キャンベル」の記事における「評価研究」の解説
ゲイリー・ウィリアム・クローフォードのキャンベルに対する読者ガイドRamsey Campbell(1988年)は1987年までのキャンベルの作品の概要を語っている。S・T・ジョシのThe Modern Weird Tale(2001年)にはキャンベルの作品に対する大量の評価分析が記載されており、Classics and Contemporaries(2009年)にはキャンベルの後年の作品に関するエッセイが収録されている。ジョシはまた書籍1冊にわたる研究としてRamsey Campbell and Modern Horror Fiction (2001年)を執筆し、さまざまな作家による批評とキャンベル自身への長いインタビューを収録したThe Count of Thirty(Necronomicon Press、1994年)を編纂している。
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