評価・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 02:16 UTC 版)
「コンバイン・ペインティング」の記事における「評価・来歴」の解説
ラウシェンバーグの作品は、1950年代のイタリアでの展示や1961年のパリのダニエル・コルディ画廊での初個展をへてヨーロッパで人気を呼んだ。『モノグラム』は1962年にスウェーデンのストックホルム近代美術館館長のポントゥス・フルテンが企画した「4人のアメリカ人」展で大きな賛否を呼んだ。若い芸術家に感銘を与えるとともに、評論家をはじめ拒否感を表明する人々も多かった。 1963年3月に開館したユダヤ美術館では、ラウシェンバーグの初の美術館での個展が開かれた。ユダヤ教に関する要素がなく、若手の作家の回顧展という2点で異例であり、加えてラウシェンバーグの『モノグラム』や『キャニオン』は大きな反響を呼んだ。ユダヤ美術館の館長アラン・ソロモンは、同年7月のヴェネチア・ビエンナーレではラウシェンバーグの受賞にも大きく貢献した。1963年3月には、パリでイリアナ・ソナベンドの画廊でもラウシェンバーグの個展があった。こちらは1954年から1961年の作品が集められた。『モノグラム』や『ピルグリム』が最も好評で、ラウシェンバーグは会場で英雄のような扱いを受けたとされる。ソナベンドは、ラウシェンバーグがヨーロッパの人々を惹きつけた理由として、抽象表現主義との断絶がある点、動物も含め何でも作品に取り入れられており前代未聞だった点、などをあげている。パリの雑誌「レ・タン・モデルヌ」では、オットー・ハーンがラウシェンバーグとジョーンズを好意的に紹介し、「抽象美術の遺産を引き継ぎつつも、それを都市や産業文明と言った日常的な言語へと紡ぎ直そうとする運動」と表現した。 1964年2月には、ポントゥス・フルテンの企画でストックホルム近代美術館にて「アメリカのポップ・アート」展が開催され、これがヨーロッパ初のポップ・アート展覧会となった。さらに同年4月にはテート・ギャラリーの展覧会、6月はポップ・アートとヌーヴォー・レアリスムの展覧会がデン・ハーグで開催されてベルリンとブリュッセルにも巡回した。これによってラウシェンバーグの知名度は急速に高まった。フルテンは1959年にニューヨークで『モノグラム』を見て強い関心を持ち、購入資金ができるまで作品を売らないで欲しいとラウシェンバーグに頼んでいた。そしてラウシェンバーグが1964年にストックホルムを訪れると、フルテンは空港で彼を迎えて交渉し、1965年に『モノグラム』はストックホルム近代美術館の所蔵となる。『モノグラム』は、かつてコレクターのロバート・スカルがMOMAへの寄贈を申し出たが辞退された経緯があり、アメリカよりもヨーロッパでの評価が高かった。 東京で公開制作された『ゴールド・スタンダード』は、交渉によって草月美術館の所蔵となり、草月美術館の閉鎖後は個人蔵となった。当初ラウシェンバーグは勅使河原が購入すると考えていたが、勅使河原はラウシェンバーグが寄贈すると考えており、食い違いがあった。 ラウシェンバーグは世界ツアーからニューヨークに帰国後、パフォーマンスやエンジニアとのコラボレーションを行い、E.A.T.に注力した。その代わり、コンバインやシルクスクリーンのように画廊で発表するタイプの作品を発表しなくなった。そのためライシェンバーグのアメリカでの評価が高まるのは、1965年の『ダンテ・ドローイング』展までかかった。 1960年代後半、ヨーロッパの美術関係者はアメリカ美術の急速な流行に危機感を抱くようになった。加えて、アメリカ政府とスウェーデン政府はベトナム戦争をめぐって対立した。両国の対立は美術界にも影響し、1973年にストックホルム近代美術館で開催された「ストックホルムのためのニューヨーク・コレクション」では反対運動が起きた。抗議声明ではラウシェンバーグの『モノグラム』がアメリカ美術の象徴として批判された。のちにラウシェンバーグ作品は再評価され、『モノグラム』もストックホルム近代美術館の名物となった。地元市民には「geten」や「en get」と愛称で呼ばれている。
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評価・来歴
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「ガラテイア (ギュスターヴ・モロー)」の記事における「評価・来歴」の解説
この『ガラテイア』は1880年のサロンに出品されると、たちまち批評家たちの称賛を浴び、モローが審査員を務めた1889年のパリ万国博覧会にも出品された。その後、美術史家、美術コレクターとしても知られていたエドモンド・タイニー(フランス語版)の手に渡ると、1940年代まで彼とその一族のコレクションのもとにあり、1951年から1991年にかけては美術評論家ロベール・ルベル(フランス語版)のコレクションの所有となった。その後、1997年にオルセー美術館に所蔵されて現在にいたっている。 他の画家への影響については、オディロン・ルドンの『キュクロプス』との関連が指摘されている。ルドンのモローに対する関心の深さはよく知られており、ガラテイアとポリュペモスを描いた『キュクロプス』以外にもオルペウス、アポロンといったモローと同じ主題の絵画を描いている。
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