言語問題と政治宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:56 UTC 版)
「レオポルド3世 (ベルギー王)」の記事における「言語問題と政治宣言」の解説
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦によって欧州戦線は転機を迎え、パリの解放を経て、9月2日に連合軍がベルギーへ侵攻(ベルギーの解放)。ベルギー亡命政府は、将来的に国王レオポルド3世が帰還することを前提に、9月21日に王弟シャルル王子(フランドル伯)を摂政に建てることを宣言した。ベルギー全土がドイツから解放されたのは11月3日だった。国王一家はドイツ及びオーストリアに移送された後、1945年5月に米軍によって解放された。 戦局が連合国優勢になりつつある1944年春、レオポルド3世は単独で政治宣言を起草していたが、連合軍が勝利した場合でも連合国に与することを拒否していた。また同宣言では、戦後ベルギーの課題が言語問題にあるとの危機感を示し、フランデレンとワロンを対等に扱い、かつ二言語を公用語とする必要性についても触れていた。しかし、国王は国を裏切ったと受け止められていたため、この宣言が国民から共感を受けることは無かった。
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