角川書店時代
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1965年、角川書店入社。1967年、俳優や声優が朗読する音声を収録したソノシート付きの『カラー版世界の詩集』を企画し刊行。1970年から映画『ある愛の詩』『いちご白書』の原作本を始めとして、洋画の原作やノベライゼーションを次々と刊行。フレデリック・フォーサイスを日本に紹介した。 社長である父・源義の存命中は、信賞必罰を貫く父の方針のもと、社内での立場もかなり浮き沈みがあったというが、父の反対を押し切って出版に踏み切った『ある愛の詩』の成功が後継者の地位の確立に繋がっていく。 さらに当時は既に過去の作家となっていた横溝正史のブームを1971年から仕掛けた。さらに1976年に『犬神家の一族』から映画製作に乗り出すと、テレビCMを中心とした大量宣伝は一部の有識者を閉口させ、例えば白井佳夫(映画評論家)は「角川映画は予告編を本編が上回ったことがない」と断言している。しかし、その大量宣伝に乗せられた観客が映画館に押し寄せたおかげで、『犬神家の一族」も『人間の証明』も大当たりして、1970年代後半から1980年代にかけて、角川映画で莫大な利益をあげた。また、日本の推理作家、SF作家の作品を多く角川文庫から刊行した。 映画と書籍を同時に売り出す方法は「角川商法」「メディアミックス」と呼ばれ、マス・メディアは持ち上げた。1979年の『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』、1981年の『魔界転生』は、角川映画ではなく純然たる東映映画(角川春樹事務所は企画協力)であるが、手腕を見込んだ岡田茂東映社長が角川個人をプロデューサーとして迎え入れた作品である。1981年の映画誌のインタビューで岡田は、「角川春樹氏は映画プロデューサーでなくイベント屋だ」と評している。 1975年、古代船「野性号」を建造して対馬海峡西水道を横断。この航海の模様は書籍『わが心のヤマタイ国 古代船野生号の鎮魂歌』にまとめられている。作家、高橋三千綱・豊田有恒が同行した。1977年にはカヌー「野性号II」を作り、「南島民の日本列島への飛来」を再現するため、ルソン島から鹿児島までの航海を行った。この航海の模様は、ドキュメンタリー映画『野性号の航海 翔べ 怪鳥モアのように』(1978年)に残された。 日本映画界に定着する一方で、製作から10年目を迎えた1980年代後半以降、角川映画の勢いは失速していった。それには、民放のフジテレビが映画界に本格参入して、角川映画のお株を奪う大量スポットや局を挙げてのメディアミックス戦略を仕掛けたこと、また、内部的には1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体が芸能部門から撤退して、所属する原田知世と原田貴和子、渡辺典子も独立したことなど の影響があった。さらに、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}経営路線の相違でかねてから対立していた実弟の角川歴彦との確執が表面化し、テレビ番組等での「奇行や失言」も一部で問題化したことなどを端緒に、次第に内外での影響力は低下。1992年に社長権限で歴彦を角川書店から追放(職を剥奪して解雇)した事が決定打となり、歴彦が取り仕切っていた角川メディアオフィスの従業員のほとんどが、歴彦に続く形で退社するなどの一斉反発を招き、角川書店は致命的な大打撃を負う事となった。[要出典]
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角川書店時代
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つかこうへい『蒲田行進曲』、有明夏夫『大浪花諸人往来』、村松友視『時代屋の女房』、山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』、景山民夫『遠い海から来たCOO』の5つの直木賞作品を担当し、森村誠一『人間の証明』、五木寛之『燃える秋』、村上龍『トパーズ』等々のベストセラーを手がけた。このカドカワ時代に、坂本龍一、松任谷由実、尾崎豊など、芸能人、ミュージシャンとの親交を培った。
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