親族関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 14:53 UTC 版)
光通の妻は越後高田藩主・松平光長(従兄)の娘・国姫であった。京都の公家からも賞賛されるほどの和歌の達人とも伝わる国姫は、光通から見て従姪に当たる。越後高田藩や光長の母親である勝姫(天崇院・高田殿、2代将軍・徳川秀忠の娘で松平忠直の正室)からの強い要請もあり、婚約は早かったが、越後高田藩の福井藩に対する干渉を危険視した幕府や、福井藩内からの防御的圧力があり、実際の婚姻は遅れた。勝姫は姉である千姫に依頼し、4代将軍家綱の代に至ったところで「3代将軍家光が決めた婚姻であり、つまりは遺命である」と幕府に対して圧力をかけ、寛文5年(1655年)にようやく正式に結婚が成立した。この時既に両名19歳であり、当時の大藩の藩主の正妻の婚姻としてはかなり遅めである。 婚姻後の光通との仲は良かったが、光通と国姫との間には女児2人しか生まれず、跡継ぎとなるべき男児ができなかった。ところが光通には、国姫以外の女性(御三の方・片桐氏)との間に男児・権蔵(のちの越後糸魚川藩祖の松平直堅)が存在した。側室扱いであった権蔵の母は、光通と国姫との正式結婚を期に遠ざけられていたが、その後程なくして権蔵を産んだ。光通としては、(妾腹とはいえど)実の子に家督を継がせようという考えもあったようである。 ところが、国姫の祖母である勝姫は、「妾腹の男児に家督を継がせるなどとんでもない」と猛反対した。光通に対して福井藩の跡継ぎを国姫との間に生まれるはずの男児にするように強要し、遂には起請文まで取るに至った。このため、光通と国姫の仲も急速に悪化し、35歳にもなった国姫自身は寛文11年(1671年)に、もはや男児を産めないことを苦にし、祖母や父の期待に添えないことを侘びて自殺した。 国姫の死から間もなく、権蔵(直堅)が福井から出奔した。これは、勝姫とその父・光長が「国姫の死の原因は権蔵の存在にある」として、権蔵の命を狙い始めたためであるとされている。権蔵は、光通の叔父である越前大野藩主松平直良とその家老津田氏を頼り、のち幕府から越前家とは別に1万俵を与えられ、数代後より越後糸魚川藩1万石となる。
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「親族関係」の例文・使い方・用例・文例
- 親族関係
- そのような女性は、6世代までの深さと、2番目のいとこの孫に及ぶ横に広がる血縁関係、親族関係の知識を頭に入れている
- 社会的関係の体系で、使用される用語と、必要とされる相互義務を含む、特定の文化において親族関係を構成するもの
- 互いに親族関係を持つ人
- 婚姻または養子縁組による親族関係
- 異父兄弟という親族関係
- 妹という親族関係
- 五等親という親族関係
- 再従兄という親族関係
- 再従兄という親族関係の人
- 再従兄弟という親族関係の人
- 再従弟という親族関係
- 再従弟という親族関係の人
- 三親等という親族関係
- 母親の違う弟という親族関係
- 親族関係にある男女の結婚
- 父母の従兄弟にあたる親族関係
- 祖父の兄弟にあたる親族関係
- 父母の従兄弟の妻にあたる親族関係
- 祖父の姉妹にあたる親族関係
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